塩化ナトリウムと血
寺野が代死を引き受けて、その茶色っぽい瞳から涙を流すことは、滅多にない。
滅多にない、というだけで、少なからずはあるわけだ。
そしてそういう場合、大概は、俺にとっても泣きたいほど最悪という事態が起こっているのである。
完全下校時刻を過ぎても保健室に来ない寺野を探して数分、端末の画面が示すGPSの場所へ赴くと、中庭の花壇、チューリップを潰す体勢で寺野が倒れていた。
歩み寄りながら辺りを確認する。俺と彼以外人影はなく、そして花壇の上方、二年生の棟である四階の窓が開いていることに気づいた。あそこから飛び降りたんだろう、と見当をつけて、帰る前に戸締りして行かないとな、とぼんやり思いつつ、うつ伏せに倒れ伏している寺野の傍にしゃがみ込む。
長い日照時間はとっくに過ぎ、空は端を僅かに赤くしているだけで、この場所を暗がりに包んでいる。寺野の頭はおそらく割れていたんだろう、その下の黒っぽい土を更に深く黒色に染め上げていた。投げ出された左肘が、変な方向に曲がっている。相当痛かっただろうな、と、考えて、考えた自分に苛立たしくなる。
「寺野」
呼びかけに、彼は顔をずらし、片頬を土につけてこちらを向いた。
「先生」
顔は乾いた血と土がこびりついている。
口の中に土が入るのも構わず、寺野はそのまま喋り続けた。
「なあ先生、どうしてだろうな。僕、ちゃんと、死んだじゃないか。これって意味ある?」
「寺野、」
「二回目だよ」
「……誰だった」
「二年生の、菅原さん。彼女、覚えてる? 一年生の時にも、こうなりたがってた」
「ああ」
「もういっそ、死なせてあげた方がいいんじゃないの」
寺野はそう言って、真っ直ぐ俺を、片目だけで見上げてきた。その目から涙の膜が盛り上がり、まつ毛に乗った土と頬の汚れを掻き混ぜる大粒の雫が、鼻を横切って落ちていく。静かに泣き始めた寺野は、やはり静かに、こういう時が一番つらいんだ、と言った。
「死んでも、まだつらい。きっと彼女、またやるよ。そんで僕はまた死ぬ。死なないけど、死ねないけど、また死ぬんだ。別にいいんだ、僕はそれが役目だし、受け容れてる。けど、一度死んだら終わりなんだよ、それを望んでるなら死なせてあげた方が、救いになるんじゃないのか? どう思う、先生」
「……」
口を開け、空気を二度ほど、吸って吐く。俺は喉を事務的に動かした。
「……二年の、菅原。彼女は去年、お前が代わりに死んでから、こっちが児相に連絡して問題解決を図った。そっからは俺たちの範囲外の問題だ、お前が気にすることじゃない」
「そーいうことを言いたいんじゃないんだ、先生」瞬きもしない目から涙がだらだら溢れていく。「僕がまだつらいのは、完全に彼女の死にたい気持ちを殺せてないからだよ」
「何が言いたい」
「これは妥協の死に方だった。あんまり自殺願望が強いと、その願望通りに死ななければならないし、そう死にたくなってくる」
「ああ」
ものすごく、最低最悪な予感がする。
あのさ、寺野が言った。
「彼女、親に殺されたがってるんだぜ。飛び下りじゃ、代わりにもならないよ」
「俺がお前の首を絞めればいいのか」
思いのほか、すぐに言葉が出てきたな、と思った。
寺野もそう思ったのか、ぼやける視界を晴らそうと涙を瞬きで落とし、そして口の中に入った土を吐き出しながら、ははっと微かに笑った。
「先生やっぱり、僕の親なの」
「保護者だろ」
「パパって呼ぶべき?」
「反吐が出るからやめろ」
「僕も今の一瞬で怖気が走った。……先生」今ならたぶん、すぐに死ねるよ、寺野が言った。
目覚めたばっかりなんだ、頭もまだ治ってないし、肘も痛いし、首にちょっと力こめるだけですぐだよ。……だからさ、と涙をすっかり引っ込め言葉を続ける。「そんな控えめに言ってやべえ顔しない方がいいよ。初めてじゃないだろ。しっかりしてよ。しっかり僕を、死なせてくれ」
先生はそれが役目だろ、そう言って締めくくった。
子どもに諭されている居心地の悪さだったが、その内容はあんまりひどすぎるもので、けれどあんまり正当なものであることも事実で、それが余計に最低最悪な気分にさせてくる。
分かっている。
こんなことは、こいつの管理者になったこの二年で、嫌というほど。
この国は死にたいやつらが多すぎるんだ。
「分かった」
俺は簡潔に答え、花壇に膝を乗り上げ寺野の首に手をかけた。
泣きたくなるくらい、それは人間の肌の感触だった。今から、俺が、最悪の事態を引き起こす。
そして力をこめた。