兄と弟
全員ブラコンの回。
ほぼ毎日仕事終わりに面会時間ギリギリでキヨ子の病室に滑り込んでいたのが駄目だったらしい、妹本人に「毎日来ちゃだめ」とやや強い口調で言われてしまった。
それにあからさまにギクリとした態度をとった俺を見兼ね、俺とは違って賢く優しい妹は「……喧嘩してるからじゃなくて。仕事もあるのに、大変だろうと思ったの」とちょっとそっぽを向いて俺を気遣う言葉とは裏腹な“まだ喧嘩中”を頑なに示して言い加えた。ぐう、喉の奥で唸る。俺と妹はここ数日ずっと喧嘩中だ。議題は『代死人の寺野と関わり合うのは安全か否か』で、俺はやっぱりそんな態度を取られてもなるべくあの人造人間に関わって欲しくないという考えを覆す気はない。誰にでも譲れないことというものはある。
「大変じゃねえ」
つい粗暴な言い方になりかけ、ゆっくりと言い直す。「キヨ子が心配なんだ。きみの顔を見ずに一日終わることの方が、僕にとっちゃ大変だよ」
キヨ子はじとりと俺を睨んだ。
「……お兄ちゃんの顔を毎日見てる私の方が、大変なの」
「窓から飛び降りた方がいいか?」
キヨ子がなぜか絶望的な顔をした。俺も似たような感情を浮かべて言ったものだから、寸の間、妙な沈黙がおりる。先に状況を理解した妹が「ひ、飛躍してるわ。そんなこと言ってない」と泣きそうになってまた俺を睨んだ。そしてガーゼや包帯だらけの両腕を掲げて見せる。
「見て。私の怪我、だいぶ良くなってきてる。もう夜中に熱も出ないし、入院期間は延びちゃったけど、お医者さんも経過観察は良好だって。私は、ここでちゃんと療養してる」だけどお兄ちゃんは、とざんばらな長さになった髪のかかる顔を指先で示す。「隈が、ひどいよ。顔色も悪いし、日に日に疲れてく様子の創一さんを見る私の気持ちも考えて。お願いだから無理に仕事を押してここに来ないで。家に帰って寝て。ちゃんとご飯食べて。余った時間は良ちゃんと一緒にのんびりしてて」
「…………だけど」
「じゃなかったら、紺野先生に言いつけるから」
「おま、」
俺が燿介さんにめちゃくちゃ懐いているのは横田家において最早周知の事実だ。あのひとと再会するまでだって、何せ俺の口からのぼる他人の名前はほとんど燿介さんだったし。ヨースケさんヨースケさんとむかしお世話になった先輩の話を妹弟にしてきたくせに、妹の口からたまに出る「紺野先生」をそのひとだと思い至らなかったくらいには、あのひとはやっぱり代死人の管理者なんて向いていない。あのひとはあんな、何度も死ぬような人間紛いの生き物に寄り添って、それで面倒を見て何かを諦めているような、決して傍観者にはならない大人のはずなんだ。
死にたがりや、自らを傷つける者を厭っていたはずなのに。
俺が怪我をするたび顔をしかめて手当てやお説教をしてくれていたあの一つ上の先輩が、誰かの代わりに死ぬ存在のそばにいて、それでどうして平常でいられるのだろう。代死人を、甘んじて受け入れている態度に納得がいかない。
いや、平常ではなかったか、俺はふと思い直す。あの山での洋館で、燿介さんは紛れもなく怒り狂っていた。そして、甘んじてもいない。もしそうだとしたら、入院なんてしていない。暴力嫌いのあのひとが、暴力に訴え出たくらいには、あの代死人を大事に思っているわけだ。
結局、紺野燿介というひとはお人好しでお節介焼きで、いくら代死人という存在に渋い顔をしていても一度手に抱えてしまったら絶対に落としはしないひとなのだ。だから俺は燿介さんに相談しているんだろう。あなたが手に抱えたものが、俺の妹を今後危険な目に遭わせないという確証が欲しい。アンタが安全だと言うなら、俺はそれを信じるのに。欲しいのはその言葉だけだ。なのに燿介さんは「それは当人たちの問題でもある、寺野に意見を聞くことには始まんねえだろ。もー少し待て」と首を振った。本当に保護者らしくて、笑ってしまう。
あのひとはあのひとで、代死人の管理者という難儀で、俺には到底解決できない問題をきっと抱えている。俺は燿介さんに可愛がられている後輩という自覚がある。これ以上、ましてや俺なんかのつまんねえ心配をかけさせるわけにはいかない。
「分かった、帰る。見舞いの頻度も下げる。だからヨースケさんにはチクるなよ」
大人しく引き下がった俺を見て、キヨ子はほっと息を吐き、「紺野先生って、すごいんだね」とはにかんで言った。俺は力強く頷く。燿介さんは昔も今も凄く優しくて、そして凄く強い、俺の憧れの先輩だ。
「ただいまぁー」
キヨ子の入院している病院は大きいが、場所は山の麓にある。確かに、家と職場と病院を毎日のように往復するのは時間がかかることだった。家であるアパートに帰りついたころには、陽はすっかり暮れきっていて、いくつかの部屋からは夕飯時のいいにおいが漂っていた。
「良二、すぐ飯作るから、おまえ先に風呂に──」
玄関で靴を脱ぎながら言い、壁のスイッチを押して灯りをつけたところで、「うおっ」と声を上げた。暗いせいで気づかなかった。良二はすぐそばで佇み、じっと俺を見つめていた。
「た、ただいま。どした? 何かあったか?」
俺に似たせいでほとんど糸みたいな細い目が、今はカッと見開いている。そうすると、まあ当たり前だが、普段は重そうな一重の瞼とこいつのクソ長いまつ毛で隠れている目はちゃんとまん丸なんだなと思える。たまに良二は目を見開き、今みたいにゆるゆると瞼を落としているときがある。「おかえり。フクロウの真似。似てた?」糸目に戻った良二が緩く笑って言った。
「に、似てた。めっちゃビビった」
「へへ。今度キヨ姉にも見せてあげよ」
「あいつなら、はしゃぐだろうな」
「でしょ。キヨ姉、元気だった? 仲直りした?」
「……してねー」
「ふたりとも頑固だもんね」大丈夫だよ、良二は握りこぶしをつくって示した。「どーにもならなくなったときは、ぼくが泣いて暴れて二人に謝らせるから。だからとことん喧嘩してていいよ」
「おまえったら」俺は年の離れすぎている小さな弟の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。「だいじょーぶだ。良二のことも、キヨ子のこともこれ以上泣かせねえようにする。お前は何も心配すんな」
「……心配は、してないよ。ね、明日もお見舞い行く?」
「あー、や。キヨ子に毎日来るなって言われた」
「やっぱり」
頭を撫でたついでか、弟が背中にしがみついてきたのでリビングへと一緒に行く。俺の背中をのぼろうとするので、笑いながら負ぶってやると小さな手が俺の頭をぽんぽんと叩いた。「ね、やっぱり僕もお見舞い行きたいな。いい?」
「でもお前。においが」
良二は昔っから嗅覚に優れており、人混みや電車の中にいるとすぐ気分が悪くなってしまう体質だった。病院など行ったら消毒液や薬液のにおいでふらふらになるから、キヨ姉に心配かけちゃう、と自分から見舞いを断っていたのに。大丈夫だろうか。
「へーき。マスクしてくもん。次いつ行く?」
「お前がそう言うなら……」
日曜だよ、と答える。今度の日曜、キヨ子の友だちが来るそうだから、俺たちもそれに合わせよう。それを聞いた良二は頭を叩いていた手で俺の長めの前髪を引っ張った。
「隈、薄くしてこーね。どうせ言われたんでしょ? 僕もちゃんと寝た方がいいって思ってた」
情けなさに拍車がかかりそうだ。
けれども、俺の妹と弟がこんなにしっかりしてて、兄ちゃんはほんとに嬉しい。
※
「意外。まだ報道されとらんのやな、俺が脱獄したってこと」
弟がすでに死んでいる男の体を解体しながら、流れっぱなしのテレビを見て呟いた。
夕方のニュースはどこかの動物園で白クマの赤ちゃんが生まれただの異国の魔法使いがテロを侵しただの有名な教祖によるやさしい説法などしっちゃかめっちゃか、いつも通り混沌としている。僕は他人様の家のキッチンで戸棚を探りながら、リビングにいる弟へと声を上げた。
「なに、派手に知らしめたかったん? やんちゃは小学生までやと思っとったのに」
「うるせー。普通に不思議なだけ。兄ちゃん何かしたん?」
「まーね。しばらくはバレやんよ」
「何で?」
首を振り向けると、ちょうどソファから身を乗り出して弟が真っ直ぐ僕を見つめていた。ひと一人解体するのは、結構な重労働だ。しかも筋肉と骨の硬い男、の原型はもう留めていないだろうが、彼はこの家の家主だ。死んでいるから元だが。
弟の返り血と汗で濡れた顔は、わりと健康的に見えた。琵琶湖の監獄でさぞ苦痛を強いられているだろうと思っていたが、こうして元気に趣味と仕事に勤しむことができているので心身の健康状態は良好だろう。僕はあは、と笑った。
「何で? 理由を聞きたいん? 甘えたがりやなあ、お前は」
「は? 何でそんなムカつくムーブ取られやんといけやんわけ?」
「言わせたいんやろ、僕に“大事な弟としばらく落ち着いて暮らしたかったから”って」
「はあ?」
弟は心底嫌そうに眦を釣り上げたが、ぐ、とこみ上げた罵倒を押さえる様子を見せ、ニヤリと引きつり笑いを浮かべた。
「ハッ。嘘こけよ、クソ兄貴。テメーが、誰にも邪魔されず、療養したかったんやろがい」
バレてら。
ま、それもそう。紺野先生から傷を受けた僕のこの体はまだ完治しとらん。時たま傷口から滲む血のにおいと、患部を庇った動き方を、敏い弟が気づかんはずがない。しゃーねーなあ、と弟が生意気な態度で続ける。その手に血みどろの臓器を掲げて見せた。
「兄ちゃんに生搾り血液譲ってやるよ。ちょっと味見したけど、O型だぜ。好きやろ?」
「ええー……できるなら女の子がいい」
「弟の厚意を無碍にすんなよ。そんなら、こいつの嫁さんが帰ってくるまで待ってれば、我が儘兄貴」
臓器から滴る血をこれ見よがしに飲んでいる弟に腹が立たんわけではなかったが、僕の方がやっぱり一枚上手にいるようだった。僕は言った。
「拒否はしやんのやな。やっぱり監獄は寂しかった? にーちゃんが甘やかしたろか?」
げぽっ、啜っていた血液を吐いた。
汚いなー。誰が掃除すると思っとるんや。まあ掃除の前に、腹ごなしの方が先やが。背に今度こそ罵倒を受けつつ、僕は笑いながら調理器具探しを再開した。
【横田 創一】よこだ そういち
分類:人間(荒くれ者)
職業:営業職
年齢:30歳
好物:妹と弟が作ったやつ
特性:仕事はブラックだがわりと好き
苦手:幽霊、何もしない時間
恋愛観:妹と弟が独り立ちするまでそんな余裕はない
横田家三兄弟の長男。一重の三白眼と短気な部分が合わさって顔は凶悪に見られがち。身長は170センチ、細身だが筋肉質なためスーツを着て暴力を奮う様は完全にその筋のひとである。目つきの悪さを誤魔化すために前髪は長めにしているが、あまり効果はない。
高校時代の苗字は森岡。先輩である燿介さんのことは心から信頼しており、彼に言われれば命を捨てても構わないと考えるくらい、昔も現在も懐いている。ただし現在は、妹と弟のため死ねなくなった。




