おもしれー女! 奈津美ちゃん
寺野が捕まらない。
以前なら──紺野先生が管理していた寺野なら──大体仕事がないときは三年二組の教室に陽気なロボットみたいに座っていたのに、あの雪谷とかいうおっさんが管理するようになってからは滅多に人前に姿を見せなくなった。今まではぼんやり見学していたり気紛れに走ったりしていた体育の合同授業でも、一度もあのつり目を見ていない。
そのくせ、校内で死にたがりが発生するとまるで死神みたいにどこからともなく現れるというのだから、今までのあのちょっと芝居がかって飄々と声をかけてきた様はすべて嘘っぱちだったんじゃないかと思えてくる。そう。
ここ数日の寺野は、とても代死人らしい。
俺たちが考える代理自殺する人造人間そのものだ。
死にたくなったときに訪れ、救いをもたらし、そして消える。今までがおかしかったんだ、と改めて感じさせる。俺が通っていた中学に定期的に訪れていた代死人は、人間というより、ぬいぐるみに近かった。俺は世話になったことがないので人伝に聞いた話だが、ぬいぐるみは喋らず、そしてハグによって子どもの情緒を治す。他校の人型をしていたり、していなかったりの代死人も、概ねペラペラと喋らないイメージがある。喋ったとしても、事務的な言葉か、人心掌握のための催眠じみた甘言か。間違ってもお腹が空いたとかあれが美味しいとか笑ったりはしないのだ。
だから俺は寺野のことをおもしろいやつだと思っていたのに。
寺野がここにきて皆がイメージする代死人らしい振る舞いを始めたのは十中八九、雪谷星太朗が原因だとして。それはあんまり、寺野らしくなかった。……非常に面白くないって意味だ。
──ズドン。
重すぎて日に数回しか引けない18キロの弓から離れた一矢は、的の端を力強く射抜いた。かろうじて的に当たってはいるものの、離れか矢番えの位置が甘かったのか、押し手──左手の親指の付け根部分を矢が擦っていったらしい、滲む痛みに眉をひそめる。これが癖になってしまうと一気に型が崩れる。気をつけないといけない。
「引き分けがちょっとおかしかったわよ」
部員は全員帰ったはずなのに、弓道場の出入り口から聞き慣れた声がかけられた。振り返ると、学校指定の体操服である長ジャージの上下に、カーディガンを羽織った弓道部副部長が立っている。
「奈津美。帰ったんじゃなかったのか」
「弓が重すぎるんじゃないの。アンタそれ、何本目?」
周囲にはほかの誰もいないらしい、奈津美はにこりともせずに顎をしゃくって俺の弓を示した。素直に答える。「五本目。練習時間と合わせたら、八かな」
「馬鹿じゃないの」奈津美はハッと鼻で笑った。「腕壊して大会出れなくなっても知らないから」
「八つ当たりみたいなもんだからな。多少無理したいんだ」
「八つ当たり?」
「寺野が捕まらない」
最後に寺野を見たのって、いつだっけ。考え、すぐに思い当たる。奈津美と話していたときだ。昼休み、弓道場近くのベンチ。その日の部活終わり、俺は彼女にあらいざらい話した。砂の男のことも、紺野先生と寺野のことも、そして横田さんのことも。全て聞き終えた奈津美はやっぱり横田さんのことを思って泣いていたし、指摘したら射られそうだったので俺は黙って眼鏡を外してティッシュを差し出した。あれは一週間以上前になる。つまりは一週間以上、俺は寺野の姿を目撃していない。話には聞く。随分、真面目に仕事をしているようだった。
「日曜、お見舞いに行くだろ。だから寺野にも言っときたかったんだけど。いつ探しても捕まらない」
今週の日曜、俺と奈津美はそれぞれお見舞いに行く予定を立てていた。横田さんから『入院期間が延びちゃったんだけど、でも面会は誰でも大丈夫なんだって。もし時間あったら、会いたいな』と控えめな連絡があり(奈津美だけじゃなく俺宛てのメッセージでもあったから、俺は奈津美に殺されるとしたら今日かもしれないな、と一日警戒して過ごす羽目になった。人目につかない瞬間、殴られかけはした)横田さんはもちろんのこと、俺は紺野先生の様子も見れそうなら見に行こうと思った。それならやっぱり、寺野に一言くらい報告しときたい。
なのに今のあいつは、自殺願望者以外に興味がない。
「……紺野先生が管理してるんでしょ。だったら、別にアンタが何かしなくても、連絡くらい取り合ってんじゃないの」
「それは俺も思うんだけど。……あー、あれ、じっとなんてしてられないってやつ。おまえが言っただろ」
「アンタほんとに、あの代死人を友だちだと思ってるの」
「うん。……たぶん、今までで一番かも」随分と子どもっぽい言い方をした気がする。だが、嘘はない。「俺のこと、いいやつだってさ。代死人だぜ? たぶん、俺より俺のこと分かってる。分かった上で、いいやつだって言ってくるんだ。表面だけ見て言ってくるやつらとはさ、違うじゃん」
奈津美、おまえならすげーよく分かるだろ、付け足すと、俺の前じゃその表面を繕わない彼女は剥き出しの悪意そのままに「あたしは信用できない。アンタをいいやつなんて言う人外生物は」と低く言った。だからそーいうところがさ、と口にはしない。そーいうところが、信用できちゃうんだって。
「でも横田さんも寺野のこと友だちだと思ってるだろ。それについては、どう思ってんの」
「キヨのことは、あの代死人よりも、あたしの方が、よく知ってる」奈津美はひとつひとつを強調して言った。「だから──キヨを泣かすやつは、誰だろうと許さない」
「あー……」
なるほどね、俺が曖昧に頷くと、奈津美は俺を睨んだまま靴を脱いで道場内に上がった。手にはいつも教本や弽を入れている巾着袋を持っている。そういえば、なぜ人気がなくなるまで居残っていたのか、まだ答えてもらっていない。
奈津美は手際良く弓立てから12キロの自分の弓を手に取ると、弦を張り、俺に背を向けて弽と胸当てをつけた。脱いだカーディガンは壁際に寄せる。
「自主練?」
問いかけにも答えず、矢立て箱から目立つ桃色の矢を一本引き抜き、番えた。
その場で足踏み。えっと思う。足踏み、胴造り、目使いは俺へ、そして弓構え。
「えっ、ちょ、待て」
弓構えから打ち起こし、視線は真っ直ぐ俺を見ている。引き分けた矢じりも、押手も、狙いは俺に向いている。あ、と思った。部活中、顧問も外から来る講師も、奈津美の会は綺麗だと褒めていた。俺もそう思う。本当に。
段位は彼女の方が上だった。
俺が部長なのは、ただ単純に、矢がひとより多く的に当たるからだ。
「奈津美」
動いたら、中る。おそらく胸のド真ん中に。まさか殺される日が後に押してくるとは思わなかった。冗談で規則違反をするようなやつではない。
「タンマ。動機は?」
殺すにしたって、殺そうと思えば、それこそ部活初日に殺してただろ。それをどうして今更。
弓を引いている姿を、正面から見るのは初めてかもしれない。確かにな、と命を狙われているにも関わらず場違いに思った。たしかに、かわいい顔立ちをしている。人に矢を向けているとは思えないほど、凛としていて、綺麗だ。奈津美は静かに言った。
「さっき言ったばかりでしょ、キヨを泣かせたやつは許さない」
「えーと。待って。俺は泣かせてない」
「連帯責任よ」
「誰の?」
「代死人の、寺野。動くな」
その言葉は、俺に向けて言ったものじゃなかった。
入り口に、人影が見える。とっくに陽は沈んでいる。道場内の蛍光灯に照らされたのは、俺が探しても見つけられなかった、寺野だった。
「動いたらこいつを殺す」
奈津美が寺野に対して低く言った。
「やって来たってことは、あたしが本気だと分かっているのよね。たとえ人造人間でも、この距離なら、あんたが何か行動するより、あたしの矢が離れる方が速い」
「……脅されてる?」
と発された寺野の声は、なぜか、知らない誰かの声に聞こえた。いつもはわざとらしいくらいある抑揚がなかったせいかもしれない。俺はまた眉をひそめた。お前、紺野先生といるときは、そんなんじゃないだろ。
「意図が伝わったようで何より」奈津美はいつでも矢を離せるように、狙いである俺だけを見て続けた。「要求を言ってもいいかしら?」
「どうぞ」
「今度の日曜、キヨ子のお見舞いに行く」
えっ、と俺はまた思った。そこでようやく、彼女の行動の意味を理解し、口角が知らずと笑いそうになってひくついた。頑張って真顔を保つ。
「横田キヨ子よ。あんたの、友だちの。それと、こいつは紺野先生のお見舞いにも行くつもり。……何か伝言は? あるのなら、代わりに伝えてあげる。ないのなら、こいつは殺す」
堪えきれなくなって俺は突っ込んだ。「横暴すぎるだろ」「的は喋るな」
二拍ほど、沈黙が落ちた。
寺野は俺の目を見て、奈津美の目は見られないから横顔を見た。最後に地面に視線を落として「横田ちゃんには、」と口を開く。
「横田ちゃんには、かまぼこ用意してるって、伝えてほしい。紺野先生には、……いい子にしてる、って」
「承った」
奈津美は会の姿勢を危うげなく解き、ゆっくりと弓矢を下ろした。くるり、長い髪を揺らして寺野を振り向く。「キヨ子、あんたを心配してるみたいだった。山での話も聞いた。あたしの親友を無駄に泣かせるような真似は、人造人間でも承知しない。覚えておいて」
「分かった」
寺野は真摯に頷いた。それを見届けた奈津美は、早々に張った弦を外し、矢を戻し、荷物を引っ掴んで靴を履いた。「じゃ、あたし帰るから。後藤くん、戸締りよろしく」
あとはもう見向きもせずに弓道場を出て行った。
残された俺は、ついに「おっかねーやつ」と声を出して笑ってしまった。なんだ、あいつ。本人は横田さんのためだと言い張るだろうし、それはただの真実以外ないだろうが、結果的に俺を助けてしまっていると気づいているんだろうか。横田さんが寺野を心配していたから。寺野を誘き出すために、俺に殺意を向けた。そして俺は寺野に用がある。
「“なっちゃん”って、中川さんのことだったんだ……」
寺野が呆気にとられた様子で呟いた。
「強烈だよな。あいつの前で山の人間に好意的に接するなよ、敵と見なされるから」
「じゃあ僕もう敵じゃん」
「寺野」
「ん?」
と俺を見る寺野はすっかりいつもの寺野に見えた。俺は言った。
「俺に何かできること、ある? 下手に首突っ込む気はないけど、環境変わると、しんどいだろ」
寺野はゆっくり瞬いた。
口許に薄ら笑いを浮かべる。何かを考えている。何かを考えているのは分かるが、何を考えているかはまるで分からない。焦れてもう一度呼ぼうとしたが、やがて寺野は「じゃあさ」と下唇を噛んでから、言った。
「紺野先生が戻ってきたとき、どーやって喜びを表したらいいか、アドバイスくれよ。何かしたいんだけど、何したらいいか分かんないんだ」
今度は俺が呆気に取られて言う番だった。
「そんなこと。ハグでもしときゃいーんじゃないの。……人間て別に死にたくなくてもハグとかする生き物なんだよ。知らなかった?」
【後藤 和彦】ごとう かずひこ
分類:人間(自然愛好家)
職業:高校三年生
所属:弓道部部長
秘密:いつか誰かを殺してみたい
特性:冷静沈着、文武両道、温厚篤実
苦手:家族
恋愛観:誰かと家族になりそうな可能性はいらない
視力は裸眼でD(0.05)。眼鏡の度数はB(0.8)。前髪は眼鏡にかからないように短め。
身長は178センチくらい。穏やかで、優しく、冗談も言うし、ふざける時はふざけて真面目なときは真面目にするクラスの頼りになる影の人気者。という姿は彼が幼少期から血の滲むような努力をして培った処世術である。子どものころはそれなりにヘマをしたし、愛犬も殺しかけた。
山生まれ山育ちのため、怪異と犯罪者には多少の耐性がある。
※現時点でのプチ設定。今後何かしら変動する可能性あり。