病院にて 上
清潔な白いベッドの上で点滴に繋がれ眠る妹はもうずっとうなされている。
医者が言うには数多の傷口は綺麗なもので、化膿もなく、薬を摂ればすぐに塞がるとのことだった。
問題は数日続くであろう発熱だ。これが中々厄介で、心身のストレスが大きかったためにかなり辛いものになるだろうと説明された。今も熱のせいで傷口は常に開き、包帯を赤く湿らせている。
「キヨ子……」
ベッドに力なく投げ出された妹の手を握る。自分の冷えた額に押し当て、少しでも苦しみを代わってやれないかと目を瞑った。嘘だ。
代わったところで、どうにもならない。
それは当然だ。
やっぱりあいつを殺しときゃ良かったんだ。
考え出すと皮膚が怒りでビリビリと痺れてくる。あの砂の男を。あいつだけじゃない。
この子に息苦しい思いをさせてきたやつ全員殺しときゃ良かった。たとえば──言葉にするのも嫌だが、この子の両親や、俺の母親を──殺すことができていたら、そしたら。
ぴくり、手の中の小さな指が痙攣する。
「……そ、いちさ……」
はっと顔を上げる。意識的に、無意識に強く握ってしまっていた手の力を緩め、髪の短い妹の顔を見た。意識を取り戻したのかと思ったが、まだ悪夢の途中らしく譫言のように唇だけが動いた。「だめだよ、おこっちゃ……」
「は、」
零れた吐息は我ながら泣きそうで、誤魔化すように笑みをつくる。
どうしていつも、ひとの心配ばかり。
この優しい子をこれ以上心配させたくなかった。
昔からそう思っては、失敗ばかりしている気がする。
「……駄目な兄ちゃんだよな、ほんと……」
熱に浮かされた声が、ううん、とどっちともとれる呻きで応えた。
※
五日間高熱でうなされ、その間幻覚悪夢激痛が私の身体を蝕んだけど、何とかなった。
絶対に死ぬもんかっていう覚悟がなかったらちょっと死んでいたかもしれないくらいには、苦しかったけど。良かった。私に覚悟があって。ぽっくり死んでしまったらそれはそれで仕方ないけど、それはあんまり無念すぎる。死ぬときには、ちゃんとそれ相応の覚悟と決意を持たなきゃ駄目だと思うし。
とにかく、お兄ちゃんたちが突然悲しみに襲われるような事態にならなくて良かった。こういうときのために、死ぬ気がなくても遺書って書いといた方がいいのかもしれないと、ちょっとためになったくらいだ。
いまは微熱はあれどベッドに起き上がって兄と会話できるほど回復しているし、入院してから八日も時間が経っているらしいから、うん、きっと退院もすぐだと思う。
「いま何考えてる?」
「遺書って書いといた方がいいなって」
「怒るぞ」
「怒らないで」
「怒らねーよ。きみをもう泣かせたくない」
ベッド脇、椅子に座ってお見舞いの桃を剥いてくれている兄は、料理の味付けはいまいちだが手先は器用だ。くるくると巻きながら剥がれていく桃の皮は、そのまま私の頬に映るようだった。
「子どもみたいに泣いちゃった」
恥ずかしい。
あの洋館で、いま思えば自分ひとりだけ悲劇的に泣いていた気がする。ともすると情けなくなってきて、眉がへにょりと下がった。
兄は手元からちらと顔を上げ、むっと眉間に皺を寄せた。ほとんど糸みたいな良ちゃんほどじゃないにせよ一重の目は細いし、三白眼だからそれだけで凶悪に見える。
「きみは泣いていい」その顔に見合ったやっぱり少し怒っている声が言う。「怖い目に遭ったんだから。それに、僕からしたらきみはまだ全然子どもだよ」手元に視線を戻し、皮むきを続ける。「まだっつーか、たぶんずっと。きみが俺の妹である限り、俺は一生きみを子ども扱いする。だから泣いていい」
「……泣かせたくないのに?」
「それとこれとは話が別。ほら、剥けた」
小さな果物ナイフで剥かれた桃はどこも潰れておらず、時期を過ぎている割につやつやとして綺麗だった。丸ごとお皿とフォークとともに渡され気後れする。
「……ほんとに食べていいの? 桃ってたか、」
「食べないと良二がいじけるぞ。あいつが選んだんだから。帰って報告するからな」
「いただきます」
良ちゃんに悲しい顔をさせたくない。私は桃にかじりついた。
「わあ」一口食べただけでお皿の上に果汁が滴る。口の周りとフォークを持つ指までべたべたにしながら「おいしい」とすごく単純に笑顔になった。甘くて柔らかくておいしい。今度は私が良ちゃんとお兄ちゃんに買ってこよう。
兄は私を満足そうに見て布巾も渡すと、椅子に座り直した。
とぷとぷ、桃を食べ続ける。あらかたの説明は既にされていた。お医者さんからも、警察からも、学校からも、兄からも。
色々難しいことも言われたけれど、私にとって一番大事なことはあの場にいた全員が無事だったってことだ。紺野先生がどうして怪我を負ったのか詳細は知らされなかったけど(でも何となく分かってしまう)同じ病院に入院しているらしい。私よりひどい怪我なのに、私より先に目覚めて、そしてお兄ちゃんに自宅の仕事道具を持って来るよう言ったらしいから何も心配はないとのこと。(ある意味心配だ、お兄ちゃんはもちろん断っている。「お前もかよ」と返されたらしいから、きっと初犯じゃないんだろう)私も紺野先生も無事、お兄ちゃんも良ちゃんも、気絶していたから会わなかったけど後藤くんも、みんなが無事だ。本当によかった。
寺野くんは?
という疑問だけがずっと喉の奥でつかえている。
兄はこの八日間、寺野くんについては特に何も言ってくれなかった。いや、無事なことは分かっている。だって学校の先生が、いまは一時的な管理者のひとといつも通り学校で仕事してるって言ってた。
兄はわざと寺野くんの話題を避けている気がする。
んく、こくん。桃を半分くらいまで食べ進めたところで、布巾で手と口を拭いて一度膝の上にお皿を置いた。
「もういいのか?」
とっても優しい顔と声で訊かれる。
私が目覚めてから兄はずっと優しい。いつも大体優しいけど、それとは違って何というかこう、私の身を案じている優しさだ。怪我だらけであと数日は入院していなければならない身にとっては当たり前の優しさかもしれない。だけど何か違和感がある。
「……お兄ちゃん。紺野先生は元気?」私は探るように訊いた。
「燿介さんは昔っからタフだから。大丈夫だよ」
「私もだよね」
「んー、まあ、そうかもな」
「寺野くんは?」
兄の口が閉じる。
「寺野くんについては何か聞いてない?」
眉間にはみるみる皺が寄り、口は閉じたままだ。私が促すようにお兄ちゃん、と呼ぶと渋々その口が開いた。「もうあいつと関わるのはやめろ」
ぼそりと言われた内容に今度は私の眉間に皺が寄る番だった。「……どうして?」
「どうしても」
「今回のことは寺野くんのせいじゃないよ。たまたまなんだから」
「分かってる」
「分かってない」
「分かってるよ。俺がただ警戒して代死人をお前から遠ざけたいだけだ」
「友だちだよ」
「たとえ友だちでも。今後も危険な目に遭うかもしれない。こっちが巻き添え食らうかもしれないやつを、お前に近づかせたくない」
「創一さんはいいの」
自分の情緒がちょっとおかしくなっている自覚はある。
まだ微熱もあるし、体も心も参ってるせいだ。
だからといって、言っていいことと悪いことはある。
私はハッキリと自分の言葉が悪い方に区別されていることを知っていて、トゲを吐き出すような痛みに鼻の奥がツンとしたけど、瞠目してこっちを見ている創一さんに覚悟を持って言葉を続けた。
「私が危なくなるかもしれないひとと一緒にいちゃいけないって、じゃあ創一さんは違うの? 創一さんだって、」
「俺はお前たちを殴ったりしない」
「寺野くんだってそうだよ。創一さんだって私を傷つけない保証はないのに」
私の口から吐き出したトゲが、創一さんの喉に刺さったようだった。兄はぐ、と言葉に詰まった。
「本気で言ってんのか」
「わざとだよ。喧嘩をするつもりで、言ってるの」表面張力に耐えきれなくなり、涙が一粒零れる。「喧嘩だもん。謝らないからね」
兄は頭を抱え、搔きむしると、歯軋りするみたいに「ごめん。泣かせるつもりは……」と言った。おもむろに顔を上げて真っ直ぐ私を見てくる。
「けど僕も譲るつもりはねえ。今の話は、家に帰ってからちゃんと話そうと思ってた。兄貴として、親代わりとして、今のキヨ子の交友関係に黙ってられねーんだよ。何度でも言う。俺はあの代死人とあんまし関わってほしくない」
半ばお互い睨み合う。分かっている。私たちはきっと見た目はちっとも似ていないけど、こういう一度決めたら押し通そうとするところはよく似ているんだろうなと思う。だけれど何にでも勝敗というものはあって、喧嘩に慣れていない私は圧倒的に敗者だった。ふいと顔を逸らし桃の残ったお皿をテーブルに置くと布団を被って横になった。
「しばらくへそ曲げたいから、今日はもう帰って」ぐすっ、鼻を啜る。「良ちゃんに桃美味しかったって伝えてね。おやすみ」
ぐずっ、ぐう。ぐすん。鼻の詰まった寝たふりは、ひょっとすると高熱でうなされたときより苦しいものだったけど、私だって譲るつもりはないんだ。お兄ちゃんのばか。