ここからが本題ってわけさ
「僕は病院には入れない」
と、真夜中の病院の前で右腕と右目がない血塗れ人造人間の寺野が言った。
だよな、寺野と同じ視線の先を見ながら俺は内心頷いておく。
山道を急いでくれた救急隊員は紺野先生を慎重に救急車に乗せても、寺野のことは見向きもしなかったのだ。同行するのですら嫌悪しているのがマスク越しでも分かるほど察せられたほどだし、こうしていま敷地内にいること自体グレーゾーンに違いない。しかしそんなことは本人から言われるまでもなく分かっていて、大体の人間の常識として備わっている。もちろん俺にもだ。
寺野は閉ざされていく病院の扉を見つめ、やはり俺ではなくまるで自分に言い聞かせるように言った。
「そういう決まりなんだ。代死人は人間の医療機関には立ち入れない。分かると思うけど、病院はほら、繊細な場所だから……」
「もっと明け透けに言っていいよ」
寺野は一拍の間のあと、「病院はほら、」ぺしょ、下手くそな指パッチンをして言い直した。「金持ってる死にたがり屋たちの巣窟だから」
こっちを向いた顔はわざとらしいほど笑顔だった。
血の痕と相俟って大変不気味、背景が病院なのも余計に恐ろしさに拍車がかかっている。落ちくぼんだ右目の瞼は時々痙攣し、肩辺りに巻かれた白衣は真っ赤に染まっている、それから、ずっと靴下。
「紺野先生のことは任せろ」
そんな友人の格好を上から下まで見やった結果、おそらくこれが今一番言うべき台詞だろうとあたりをつけて口にしていた。
「あと、まあお兄さんがいるから大丈夫だろうけど、横田さんも。何かあっても何もなくても、逐一連絡する。俺は中入るけど、お前は?」
「僕は、迎えを待つよ。さっき、車の中で先生とも話したんだ。はは、あんなにさ、血だらけでもちゃんと指示してくれるんだぜ。ほんと、」
「寺野の保護者だけある。だから大丈夫だよ、寺野。紺野先生が一度で死ぬ人間だとしても、絶対今日じゃないから」
表情の作り方を忘れたのか、寺野は数舜だけ笑顔を引きつらせると、すぐに思い出したのか「さすが後藤」と下唇を噛んで見せた。「僕は本当に、いい友人を持った。ありがとう。よし、もう行って」
「うん、また学校でな」
「うん」
片手を振る寺野を置いて病院内へと入る。
一度だけ振り返ると、いつの間にいたのか、寺野のそばに見たこともない大人が佇んでいるのが見えた。暗くて容姿までは分からないが、髪が白い。ただ、何となくあの大人が『迎え』なのだろうと理解し、嫌な予感が眉をひそませた。──似合わない。
あの大人は、寺野のそばにいるのは似合わない。
前を向き直り、院内スタッフに促されながら暗い廊下を足早に進む。たったの一瞬でも強烈にそう感じたということは、どうやら見慣れた光景を奪われるのは多大なるストレスを生むらしい。紺野先生がどれくらいで回復するかは皆目見当つかないが、一週間やそこらで復帰するとは思えない、しばらくは居心地の悪さを覚悟しといた方がいいんだろう。
「……先生早く全快してくれよ」
それに何より、友人の辛そうな様子は見ていて気分のいいもんじゃない。
※
生徒が一人拉致られようが教師が大怪我しようが全ては山で起こったことだ、街に住む人間にとっては大したニュースにならない。
何事もなく週は明けるし学校側は全校集会さえ開いとけば自分たちの義務は果たしていると思っている。
山での事件から二日経った全校集会では、保健医の紺野先生が事故で入院しているため、その期間中の代理の人材を紹介しているところだった。
今まで紺野先生と寺野が陣取っていた保健室には元々いた養護教諭が常駐するようになり(女の先生だ、いつもは職員室か図書室、相談室におり、俺も話したことがあるが紺野先生に負けず劣らず優しい教員なため保健室の安寧は守られるだろう。ひとまずはホッとする)、そしてこの高校の代死人の管理者は政府から派遣された外部の人間、つまり俺たちにとったら完全に部外者になるということだった。
親しみのないかっちりとしたスーツを着たその代理の管理者が紺野先生よりうんと年上なのは、目が悪い俺でもハッキリ分かるほど見事なグレイヘアのおかげで察せた。やはり顔までは視認できないが、あの男は病院で寺野を迎えに来た大人に違いなかった。
「何歳くらい?」
隣に並ぶ目のいいクラスメイトに小声で訊ねると、答えはううんと悩んだ末に返ってきた。「40代か、60代」「鯖読み放題じゃん」「大漁。いやマジで何歳か分からん」
コツ、コツ。
聞き慣れない足音を響かせ、壇上では紹介を受けた代理がマイクに向かっている。
「初めまして、片墨高校の皆さん」
クラスメイトと顔を見合わす。
「紹介に預かりました、雪谷星太朗と申します。おそらく短期間でしょうが、この片墨高校の代死人を管理する者としてご厄介になります、どうぞよろしくお願いいたします。……まあ、本音はよろしくし合うことがないよう願っていますよ、若人諸君。もちろん先生方も」
お辞儀は優雅、退場の足運びはまるで軍人のように堂々としている。
見合わせたクラスメイトがぼそりと「70代」と呟き、更に信用ない言葉を付け足した。「ギリ30代でもいける。今の声、俺のじーちゃんじゃ出せないくらい渋い」
俺は両目を細めてグレイヘアにスーツ姿の男をよく見ようとした。
降壇し、すぐに体育館から出ようと進むその後ろ姿に、壁際で待機していた寺野が影のように続いていく。両腕、両足、両目が揃った寺野はすっかりいつも通りの代死人だったが、なぜか全く知らないやつに見えた。周囲では生徒たちの「紺野先生の方がいい」とか「入院ってどういうこと?」とか不満や疑問、あるいは無関心な囁き声が小さく波紋となって広がっていく。
「後藤?」
そのさざ波を縫って険しい表情に気づいたクラスメイトがどしたん、と訊いてくる。いやー、俺は言い淀みながらずり下がってきた眼鏡の位置を人差し指の背で正した。「友だちの親が入院したときって、どうしたらいいかなって」
「……あー、代死人?」
「分かる?」
「ま、今の流れなら。そーだなー、そりゃまあ、いつも通り接すのが一番なんじゃない。知らんけど」
俺はクラスメイトの顔をもう一度見た。よく喋りはするが、遊んだことはない。体育の授業でタッグを組んだ程度。「……お前ってさ、いいやつだよな」俺が言うと、思い切りヘンな顔をされた。
「後藤が言う? それ。言っとくけど、俺は代死人嫌いだからな」
「そうなん?」
「そーだよ、気味悪いし。関わりたくない。けどさ、お前が仲良くしてんの見てたら、まあ害はないんだなって。このクラスの大半がそー思ってんじゃないかな。だから別に俺はいいやつってわけじゃない」
「俺だってそーだよ」
「誰もお前みたいに自分から話しかけようとは思わねーもん」
「……いいやつじゃなくて、変なやつだと思ってるってことか」
「ちげーって。あの代死人にさ、対等? っつーか、何かそういう、ちゃんと友だちみたいに接してるからさ、後藤はいいやつだよ」
「へえ」俺は適当に頷き、一つだけきちんと訂正しておいた。「みたい、じゃなくて、友だちだからな」
校長が集会を終える旨を伝えている。
体育館の出入り口が開かれると、各学年クラスごとに並んでいた整列が概ね順番に外へと出て行く。その列を離れ、こちらに向かってくる女子生徒を見つけた俺は顔をしかめそうになった。クラスメイトが「あれ」と声を上げる。「副部長じゃん、お前んとこの」
人の波を逆らって俺の前まで来た女生徒、弓道部副部長の奈津美は人懐こい笑顔を浮かべて「後藤くん」と薄く化粧ののった頬を緩ませ言った。「今日の昼休み、部活のことでちょっと話があるんだけど、いい?」
俺もにっこり笑ってみせた。
「了解。どこ集合?」
「弓道場のベンチのとこでいいよ」
「はいよ。じゃあ昼休みで」
忘れないでね、奈津美が念を押し、一つにまとめた長い髪といくらか丈を短くしたスカートを揺らして帰っていく。一連の流れを見ていたクラスメイトが俺の肘を小突きながら「やっぱかわいーよなー、いいなー」と確か彼女がいるくせに鼻の下を伸ばして言ったため頭を軽く叩いておいた。お前はいいよな、そうやって思えて。わりと本気でそう思う。俺が周りにいいやつって思われているのと同じことだ。つまり実際は、そうじゃない。
しばらくは居心地の悪い学校生活になりそうだと予想はしていたが、さっそく憂鬱になってきた。紺野先生は、大丈夫だ。あの屈強な大人の身に何かあるとは万が一にも思えない。問題は彼女だ。
横田さん、頼むから早く退院してくれ。
彼女の傷が早く治りますようにって、宗教上の問題で神には祈れないんだけど、山の全ての怪異に頼んで回りたいくらいには、俺はきみの全快を望んでる。……昼休みまでには、さすがに無理だろうけど。




