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代死人の寺野くん  作者: 年越し蕎麦
season1
50/62

数式瓦解者 十二(終)

 さすがの人外じみた力を持つあのフード男でも、勢い良く回る火の手を止める術は持たなかったらしい。いや、持っていたとしても止める価値なしと判断したのか、それとも今はその力を出せるほどの余裕がなかったのか。何にせよ、外に出た俺たちを追ってこないあたり、自分は実は惜しいところまであの砂野郎を攻めれていたのではと思えてくる。

「クソ、」

 何が“またね”だ、ふざけやがって。今度会う時こそ“さよなら”だ。


 草地を踏み、燃え盛っていく館から遠ざかる。火の粉が降りかからない距離まで来たところで、大人しく腕に抱えられている寺野をゆっくりと地面に下ろした。切り開かれた場所に洋館は建っていたが、周囲では鬱蒼とした木々が夜の重く冷えた空気を熱風に煽られざわつかせていた。「せんせい、」寺野の声は燃える火と揺れる葉の隙間に消えてしまいそうなほどか細かったが、それでも俺の耳には確かに聞こえた。「大丈夫なの」

 こちらを見ようと上げた顔を、頭を強引に撫でることで制す。寺野の呟きに口では答えず、俺は傍に立つ我が片墨高校が誇る後藤を見上げた。

「後藤。横田兄妹は?」

 持ってきていた矢筒に、残った六本の矢を仕舞っている後藤は俺の顔を見て眉根を寄せた。開いた口から何事かを言いかける素振りを見せたが、結局素直に俺の問いに答える。

「先に病院向かってます」

「そうか、ありがとう。良かった」ここから一番近くの駐車可能な領域に救急車を呼び、誘導するのが後藤の役目だった。彼は立派にその仕事をこなし、そして、期待以上の働きをしてくれた。「……矢ってどこで売ってる? 弁償するから、また言ってくれ」

「ほかに何か、今すぐするべき重要な確認事項ってありますか?」

「ええ? あー、いや。特にねーな」

「じゃあ、俺、救急隊員呼んでくるんで。待っててください」

 矢筒と弓を担ぎ、カーディガンを脇に抱えた後藤は顰めっ面のまま「待機させずに、ここまで呼んどけば良かった。申し訳ないす」早口で言いながら届かない電波の代わり、夜の山をものともせずに駆け出して行った。白い体操服の後ろ姿が森の影に消えたところで、やっと言われた言葉の意味を理解し今度は自分の頭を掻き混ぜる。情けねー。高校生に気遣われちまって。あいつ、気づいてたんだろうな。

 自分の顔色がすこぶる悪いという自覚はある。

 そうでなくても、腹と肩から血を流していれば側から見ても重傷人の判は押されるだろう。極めつけは、脚だ。歩みを止めた今になって無視できないほどの激痛を発している。額に滲む脂汗を拭い、地につけていた膝を慎重に動かし体勢を変えようと試みる。

「先生」

 すかさず寺野が片腕を差し伸べ、俺の背を何とか支えながら地面に横たわるのを手伝ってくれた。悪いな、けど、お前こそ大丈夫なのか、そうやって見上げた夜空はすぐに寺野の顔に遮られた。

「僕の目を見ろ」

 視界は汗と苦痛でだいぶ滲んでいたが、あの釣り目がちな目と空洞の眼窩が真っ直ぐ俺を見下ろしているのだけは分かった。

 さらり、汗に濡れた額に寺野の前髪がかかる。俺の唇に冷えた吐息を零しながら、寺野は囁くように言った。

「僕の目を見ろよ、先生。そして、死にたいって思え。そしたらその痛みも苦しみも僕が吸い取ってやる。怪我が治るわけじゃない、けど、少しは楽になるはずだ。……お願いだよ、先生。僕を見て」

 視線には引力がある。

 それに引き合わされるように、俺は寺野のうなじに手を回し囁き返した。

「痛みは切るな」

「分かった」

 そして思い切り頭突きをかました。

 ──ゴッ──これはやばい。加減を間違えた。吐き気すらこみ上げたが無理やり押さえ、完全に不意打ちだったんだろう、倒れ込んできた寺野の首根っこを掴み顔を上げさせた。「見るのはおめーだ馬鹿」ほぼほぼ呻き声を捻り出す。

 潰し合った鼻の先、彼の残った左目は大きく見開き、血の涙痕のせいで今も泣いているように見えた。それがあんまり気に食わず、片手で頬を挟んで物理的に視界から消し去ってやる。

「お前が俺の目を見るんだよ。見てるか? いいな? 誰が死にたいなんて思うか。こんぐらい平気だよ、寺野。寺野丈浩。なあ、俺をちゃんと見てるな? ん?」

「……でも」寺野は片目を歪めて言った。「でも、だって。僕にはこれしか、」

「俺にはそうじゃない」掴んでいたうなじを、胸元に引き寄せる。体重をかけまいと抵抗しかけた寺野の耳を強引に左胸にくっつけさせた。「いいから。お前に頼みたいことがある。心臓の音が分かるだろ? だったら俺が気絶しねーようにその口動かして喋り散らしてろ。得意だよな?」

 胸にもたれた寺野は身動いだものの、すっかり諦めて強張った体を徐々に解いていった。なるべく俺の傷口に障らないよう配慮したかったのは分かるが、友人の危機に直面した挙句腕と目を片方ずつ持っていかれたやつに甘やかされるなんて冗談じゃない。それはこいつの役目じゃない。家に帰ったら、もっとちゃんと向き合う時間を取らないと駄目だ。

「……先生」

「なに」

「僕は先生のこと、あんまりよく分かっていなかったのかもしれない」

「ふうん」

「先生はいつも冷静で、分別のある大人で、たまに抜けてるし口と足癖が悪いときがあるけど」

「おい」

「それでも、あんなふうに──」

 “あんなふうに人を殺そうとするなんて”? その先の言葉は容易に想像できた。数式瓦解者の言っていた通りだ。寺野は俺のことを誰も傷つけない聖人か何かだと思っている。“あんなふうに感情のまま動くなんて”本来ならあってはならないことだ。

 情けないのはこっちなんだよ。

 寺野を、寺野の心臓を俺の勝手な激情で煩わせたくはなかった。

 もう遅いが。

「……怖かったか」

 胸元に擦りつけられた髪の動きじゃ、肯定したのか否定したのか分からなかった。一拍置いて寺野は「怖かったよ」と言った。そうか。予想していた答えだったが、思いのほか堪えたらしい。そりゃ、そうだろうな。今までそばにいた大人が急に暴力的になったら、そりゃ怖い。信頼を失う。

「先生」

 俺の心音を聞いている寺野は胸に突っ伏したまま、くぐもる声で言った。

「僕をジュリエットやジョバンニにするな」片手が俺の手に触れ、脈拍を確かめるように手首を握る。「僕ならロミオもカムパネルラも助けられる、ホームズのように戻って来れる。そういうのは全部僕に任せておけばいいんだ、だけど僕は……ジュリエットやジョバンニには……なれないのに」

「寺野」

「怖かったよ」顔を上げる。「先生があんなふうに命を削るところは、もう見たくない」

 血潮の通った鼈甲のような瞳は、縋るように俺のことを見つめていた。

 ああ。感嘆に似たものが喉の奥につかえる。だけれどもあまりに不謹慎だ。

 お前がそれを言うのか、といっそのこと詰れたら。お前が、いつも誰かのためにその命を捨てているお前が、それを言ってくれるのか。お前にもこっち側の気持ちがようやく少し分かってきたのか。……ふざけんなよ、それは俺だろうが。俺がいつも、お前に対して思ってることだろうが。

 その理不尽な苛立ちをぶつけるのは簡単だ、だがそれ以上に、いま腕の中で迷子みたいに震えているこいつを大切にしたいと思ってしまった。

「悪かった」身を起こそうと捩るのですらそろそろ無理そうだ、腕が痺れているんだか何だか、とにかく鉛のように重い。諦めて言葉だけをかけた。「寺野。調子はどうだ?」

「……脈拍、呼吸ともに異常なし。特に死には面していない」

「俺は?」

「脈拍、呼吸ともに異常あり。出血多量。顔面蒼白。死にそうだ」

「主観を入れんな」

「……会話もしっかりしてる。体温もある。意識は鮮明」

「お前のおかげでな」

「頑強だぜ、先生。……あなたは平気だよ」

 寺野は今度こそ俺の胸に突っ伏し、「でも平気じゃない」と駄々をこねるように言った。それがわりと愉快で、思わず笑ってしまうが、痛みに襲われすぐに顔をしかめる羽目になる。

 

 離れたところでは屋敷が燃えている。

 傍らの寺野のまるでぐずついた話し声を聞きながら、俺は助けが来るのを待った。

 せめて腕が少しでも動けば。

 こいつを羽交い絞めにしてでも慰めてやれたのに。……ああほんと。情けねー。







 犯罪を犯した時点で皆平等に罪人ではあるが、皆が皆、琵琶湖の真ん中に位置する監獄に送られるのは公平ではない。


 そこには度を越えた大罪人──特に人知を逸脱した者、たとえば数式瓦解者──が収容される特別な監獄があった。


 その監獄の牢、琵琶湖の底に沈む()の中で、吸血鬼と呼ばれ世を震撼させた青年はただ暗闇を睨んでいた。天井にそれぞれ吊るされた両手首のうち、右手には注射器が握られており、時折それを弄んでは不機嫌な面構えで眼前を睨んでいる。座ることは赦されておらず、大の大人が二人入ればすぐに酸素不足になるだろう狭い箱のため、そうすることでしか時間を潰すことができないのだった。


 けれどももうすぐだという予感はあった。

 少し前から暗闇に細かな塵が混ざっている。灯りなどないのに、段々と真っ黒いキャンバスに散らした絵具のように輪郭を視認できていく。

 ああほら、じゃあもうすぐだ。

 次第に塵は荒れ、砂嵐となると、一人の男が姿を現した。


「オイ、」

 掻き消えた砂嵐の代わりに出現したローブの男は大層背が高く、天井に頭をぶつけた上にこちら側に倒れかかってきたものだから、実際に会うのは久しぶりなのに青年は堪らず声を荒げた。「せ……っめーな、重いって! あと遅え、何しとったんやマジで」

「いやー……」ローブの男は喚く青年の脳天に頭を乗せながら、深々と溜め息を吐いた。「えら。さすがに往生こいた」

「はあ? ちょけとるからやろ、重いって兄ちゃん。どけよ」

 二人は兄弟だった。

 捕まっている方が弟で、()()()()()()()兄だ。


「無理むり、わりと死にかけよ」

「嘘こけって」言いつつ、箱中に充満する血のにおいと、動こうとしない兄に顔をしかめる。嘘ではないらしい。それから、芳しい血のにおいに混ざって嗅ぎ慣れた油絵の具のにおいと、ほのかに煙のにおいもする。「……おい。大丈夫なん?」

「あー……」溜め息とも唸り声ともつかぬ返事をし、兄は「ごめん」と謝った。「お前のコレクション、ほとんど燃えた」

「は?」

「やー。でもほら、お前の一番大事にしとるやつは移動させたし、ほかにもいくつかは無事やに。けど、あは、ほんま家ごと燃やされるとは……」

「はあ? マジかよ。俺がこーやって捕まっても必死に隠しとった血液コレクション、全部燃えたって?」

「ほとんどな」

「……兄ちゃん」

 鎖で繋がれた両手首を振る。「これ解いてよ。殴れやんやん」


「やだよ」

 クソ兄貴、お前なんか嫌いだ、罵る弟の頭に血塗れの顔を押しつけフードの中で目を閉じた。そうすると随分久しぶりに休息をとれたような気がしておかしな気分になった。ここは監獄で、弟は裁判官さえ理性的であれば面倒な手続きののち死刑になるだろう大罪人だ。だから探していたし、こうして見つけて、それで今ここにいる。

 あらかたの目的は達成された、趣味も楽しめたし、馬鹿でかわいい弟とも再会した。

 あとは交わした約束である脱獄を手伝うだけだ。

「なあちょっと、兄ちゃん、おい。聞いとる? 血ィ垂れてきとるんやけど」

「……あー。あと二分くらい休憩させて」

「はああ? やだよ、せめーしおめーしきたねーもん。ちょっ、だから血! ウゲッ、口に入った」

「うっさいよ、好きやろ?」

「きもちわりー。兄ちゃんのはクラゲと一緒だよ、あってないようなもん」

「じゃあ血くらい静かに流させろや」

 脱獄まであと二分。

 狭苦しい牢の中は兄弟喧嘩によって揺れ始める。

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