休日手当
休日はまず先生の作るご飯のにおいで目覚める。
昼ご飯だ。朝のコーヒーのにおいでは目覚められない。僕はあれは疲れ切った大人の飲み物だと思っているので、疲れ切った子どもの飲み物にはならないと、鼻が邪見にしているのだ。
目覚めて、下でじゅうじゅう焼ける音を耳にしつつ、布団から起き上がってパジャマから適当にパーカーとズボンに着替える。ロフトを降りるとすぐダイニングキッチンだ。そこでフライパンを操っている先生におはよーございますと欠伸を殺し殺し挨拶する。日曜の通常風景。
「はよう。顔洗ったら新聞取ってきて」と広い背中が言う。
「っさー」やる気のない声で返事しながら洗面所に向かった。
ぱしゃりぱしゃり、顔を洗う。同年代の子はとっくに髭が生えて剃っているという会話をしていたりするけど、生憎僕は生えてこないのが仕様なので、洗面台に置かれた電気シェーバーはいつでも縁遠い。適当に顔を濡らして、タオルで拭く。
寝癖だらけの茶色っぽい髪を一応手で押さえつけていると、心臓がどきりとした。
どきり、どきり。気のせいかと数秒動きを止めるが、それは段々速くなってくる。これはあれだ。確信して僕は素早く踵を返した。
「先生!」
ダイニングキッチンに飛び込むとエプロンを解こうとしていた先生が、剣幕に悟って目つきを鋭くする。僕は天井とドアの方を両手で指差した。
「休日手当のお時間だ!」
駆けつけた上階の角部屋は五〇一号室、すぐさまチャイムを押すけど当然誰も出て来ない。心臓うるさい僕が急かされるままドアを叩くも、意味がないそれにじれったくなった先生が「どけ」と僕を押しのける。
休日用の怠々しいズボンを履いた長い足がドアに向いた。靴底が分厚いドアの表面に着く。刹那火花が飛び散って煙を噴き上げた。――ドォン! 爆発。扉が靴の形の穴を空ける。ひゅーう! 僕の下手くそな口笛が煙に混じる。この人のギミック靴を見られるなんて早々ないぞ! そのギミックの反動で先生が引っ繰り返った。
「カッコいいけどカッコ悪いぜ先生!」
野次りつつ穴に手を突っ込んで鍵を探り開ける。「お邪魔しまーす!」靴を脱ぎ捨て部屋に侵入した。
大体僕たちの部屋と同じ造りをしている中を進み、やはりダイニングキッチンに踏み込む。
ロフトの柵にぶら下がっている大人がいた。
首で。
下には椅子が倒れている。
「朝からショッキングだ」
昼だけど。
大人は苦し気にもがいている。僕は呑気に見えてその実本当に呑気に彼の下へ素っ飛んで行ってその足を抱え上げた。首に食い込む縄に余裕ができたんだろう、呻きが軽減する。「先生!」遅れて部屋に入ってきた先生に叫ぶと、先生はキッチンから包丁を探ってきて椅子を立てた。
椅子に乗り、彼の首と柵を繋げている縄を切る。ざりざり、ぶちり。
「おわっ」
途端、大人の全体重を受けて床に倒れる。腰と後頭部を強かに打った。「いてっ」嘆いてはいられない。打ち身を擦りつつ大人の下から抜け出し、彼を仰向けにする。靴底から硝煙のにおいをさせている傍らの先生はどこかへ電話をしているようだった。応答の仕方からして救急車だ。僕は意識朦朧としている彼の顔を叩いた。五十代くらいのおっさんだ。
「ハローこんにちはおじさん、調子はどう? エッ死にたい? そうかいそいつはいいやとりあえず僕を見て、目を閉じるのはそれからにしてくれどうぞ」今にも気絶してしまいそうなおじさんに捲し立てて、そうして瞼を開けているうちに喘鳴している口へ口を押しつけた。
ぶちゅうううう。
聞くに堪えない音が自分の口許から発される。
通話を終えた先生が、おげ、と呻いた。彼は必ずそういう反応をする。つまり本当に、おげ、と思っているわけである。
うるさい心臓がどんどん静まっていく。
口を離した。
「明日の朝刊の見出しにならずに済んだね」
慰めのように言ってあげたおじさんは、しかし目を閉じている。胸に手を当てるとその下で確かに鼓動が鳴っていたし、息もしていた。気を失ったんだ。次に目覚めた時にはもう危険な縄遊びはしないことだろう。
僕はふうと息を吐いて口をごしごし拭った。先生が憐れっぽい目で見下ろしてくる。
「大丈夫か、気分は」
まさかちゅーの感想を訊いているわけではない、僕は正しい意図を察していたが、とにかく楽しくはない気分だったのでそのまま答えた。
「控えめに言って……あー。……なんで先生は美女じゃないの? 美女だったら口直ししてーってラッキーなスケベ展開を望めたのに」
「悪かったな三十路の男で」
三十路のくたびれたおっさんだよ、心の中で訂正する。
くたびれを助長しているよれたエプロン姿の先生は、黒髪をがりがり掻いた。
「そーいう文句はお前を創った政府に言えよ。ってかなんでそんな変態じみたやり方なんだ……」
「仕方ないよ。政府は変態なやつしかいないからね」
「世も末」
「それに尽きる」
うんうん頷く。で? と先生がもう一度訊いた。「気分は」
僕は今度は意図通りの答えを口にする。「そんなに死にたくないから、まだ大丈夫。たぶん、事故みたいな感じで、首吊っちゃったんだろうね」本当はあんまり死にたくなかったんだよ、この人。言うと、先生は眉をひそめた。軽蔑というよりはやっぱり同情かなあ、僕は考えて眉を下げる。「ま、でも良かったじゃん」明るい声を出した。「休日の昼から僕の絞殺体を見ずに済んで」先生は益々眉間に皺を寄せた。あ、何を考えているか分からなくなってしまった。たぶん、機嫌は悪い、それは分かる。
先生は何か言いかけて口を閉じ、結局溜め息吐いてそーだなと返した。「絞殺体見ながらの昼食は、嫌だしな」
それは確かに嫌なのでまたうんと頷いて、口直しのお昼ご飯何? と僕は訊いた。
美女のキスは望めないけど、このくたびれたおっさんの作る飯は、存外生きたいと思わせてくれるほど美味しいんだ。




