数式瓦解者 十一
鼻から上を吹き飛ばしたのは失敗だったかもな、倒れている男の焼け爛れた頭蓋を見てそう思う。おかげで面を拝むチャンスを逃してしまった。
「おい」
飛び散った脳漿を踏み躙りながら男の肩を蹴ると、靴裏が砂利を擦った感触がした。じゃりり。酷く不愉快な心地を覚える。虫唾が足を伝って腹の底に到達していく。
このまま死んでいてくれたら、それはそれで良かったが、しかしそれではこの腹の虫が収まらないのも事実だった。何せこいつをどうやったら殺せるかを考えてしまっている。
この間開けたのは腹だった。だがこいつは死ななかった。つまり心臓はそこにはない。そして頭にも。
「舌は残しただろ? 喋れないのか」
化け物じみた能力を持っているくせして、変に人間ぶるなよ、面倒だろ。言外にそんな億劫をかもした問いかけをすると、弧を描いたまま血塗れになっている唇がぱかりと開いた。かろうじて引っ付いている上顎に舌を当て、もごもごと発声の準備をしているらしい。血や肉片、骨か歯の欠片をびしゃりと吐き出し、「あー……あは」男は笑った。
「最後まで喋らせてもくれやんのに、何を話したいって?」
体液にまみれた声は粘着質で神経を逆撫でしてくる。もっと言うと不自由そうに身を起こそうとする動作も憐憫の欠片すら誘わず、まだ無事な肉体のどこから攻めようかを冷静に考えあぐねさせる始末だ。だからこれ以上動こうとしないでほしい、切実に。こいつの人間じみた動作は全て無意味だ。
「努力はしてる」
足か? 肩か? 腕は? どこにこいつの心臓がある?
「話し合いで解決できるならそうしてるさ。俺はお前と話し合いたいよ。だが、やっぱ無理らしい。どうしても」
「そう? 僕ら気が合うと思うけどな」
「お互い、譲歩するつもりがない。そしてお互い大人だ。じゃあもう、力尽くしかないだろ。お誂え向きにここは山だしな」
首も、まだだ。
さすがに首を飛ばしたらいけるか?
それでもまだ動くようなら、次は?
「代死人の彼は、きみのことを何も分かっとらんらしい、紺野先生」
歯茎が溶け落ちそうな唇が言う。
「きみをとても理性的な大人で、誰も傷つけたりしやん善人のように思っとる。彼はまさか信じやんやろうな」
「何を? まるでお前は俺の考えが分かってる口振りじゃねーか。教えてくれよ」
いや、だめだ。まだるっこしい。
全部だ。
即断し靴底を擦る。既に高負荷がかかっている足の腱だか筋だかが皮膚の内側で軋んだが、構わなかった。全部燃やしてしまえばいい。それが一番手っ取り早い。足の指先に力をこめ、特殊ギミックを発動させた。
そして真っ赤な唇が骨を剥き出しにして笑った。
「ここに心臓はないよ、紺野先生。正解?」
地面を炎が滑る。
散乱している肉片と体液を飲み込み、瞬く間に男の体は豪炎に包まれる。燃えたそばから溶け、炭にはならずに砂に変っていく様はむかつくが予想通りだった。ここに心臓はない。正解だ。つい鼻で笑ってしまう。「同じパターンばかりで飽きてこないか」こいつの手口の何もかもが。いい加減うんざりする。「いつまでもホラー映画みたいなことするなよ、俺にそれが通用すると思ってるんなら、考えを改めた方がいい」轟々と燃え盛る砂を踏む。この炎は俺に害を与えない。だったら。「姿を見せろ。じゃねーと、家ごと燃やすぞ」
「それは困るなあ」
乾いた砂が肌を擦っていく。背後からかすかに風が吹き、目の前の炎を揺らめかせた。風とともに後ろからナイフが首目掛けて飛んでくる。
頭を傾けて避け、続け様に放たれた数本も躱す。軌道の先、炎熱の中で砂の男が起き上がり、俺が避けたナイフを一本掴み取ると炎を纏ったまま振りかぶってきた。その腕を掴み引き寄せ、腹に膝を叩き込む。手首を打ち、ナイフを奪って頭のない首に刺したが、チッ、舌打ちが漏れる。まるで手応えがない。
その証拠に燃える体は刺した箇所からぼろぼろと砂になって崩れていった。炎が消える。ナイフの刺さる黒ずんだ砂の山を踏みつけ問いかける。「何が困るって?」
答えは背後から返ってきた。「燃やされたら全部灰になっちゃうやん」
振り返りざま放った蹴り技はやはりローブの端を掠る程度だった。視線を上にやる。次にどこも焼けていないローブを纏った男が現れたのは、吹き抜けた先の二階、ちょうど俺が飛び降りてきたあたりだった。目深に被ったフードからは血が滴っているものの、頭はあるようだ。先ほどよりはクリアな声質が奴の上下揃った唇から出てくる。
「きみはホラー演出と相性が悪いね。とことんぶち壊しだ」
「俺たち気が合うんじゃなかったのか?」
「僕が妖怪か何かやったとしたら、きみにぶち壊されとるんやけど」
「似たようなもんだろ」砂の山からナイフを引き抜き、弄ぶ。よく研がれている。髪の束も、皮膚も、骨も、簡単に引き裂けるだろう。「人間ぶりたいなら、話を戻せ。灰になったら困るもんでも?」
「上がっておいでよ、紺野先生。もっと近くで話をしたいな」
お前が下りて来い、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
壁際にいる寺野には視線や気配さえ向けていなかったが、むかつくことに男はその数舜の無言で俺の懸念を感じ取ったらしい。「あは」と笑いを零した。「信じてよ。もう代死人に用はない。きみをこっちに呼んだからって、僕は彼に何もしやんよ。ねえ、でも、そうか。僕を近づかせたくもないんや?」
「当たり前だろ」息をするより単純なことだ。「大事な家族傷つける奴を野放しにできるほど、俺は人間できてない」言ってしまってから、はたと気づいた。今、何を? 本当に、息をするより自然なことすぎて逆によく分からなかった。ハ、されど呼吸の仕方を思い出したような笑いが自分の喉から漏れる。ハハ。なんだ。そうか。
靴裏のギミックを発動させる。ピシリ、骨が嫌な音を鳴らした。
「なア、一つだけ教えてくれよ。あいつの右目と右腕、まだこの家にあるのか?」
「ないよ」
男は手すりに腕をついて答えた。
「家にゴミなんかずっと置いときたくないやろ? 綺麗好きなもんでね、弟と違って」
「それを聞いて安心した」
──ダンッ! 片足を思い切り床に踏み下ろす。炎が破裂し、俺はそのまま一直線に駆けた。踏んだ血溜まりや動物の肉片が焼け焦げ、あるいは蒸発し悪臭を生むが、そんなものよりもっと醜悪な男目掛けナイフを投げる。男が一歩退き眼前まで迫ったそれを避ける間に、壁を駆け上がって手すりに飛びついた。勢いを利用し腕力だけで体を押し上げ着地ついでに男を蹴り倒す。手応えがあった。いや、この場合足応えか。鳩尾と腕を踏みつけ屈む。膝で喉を押さえ、フードを掴んだ。
「もっと綺麗にしてやるよ。俺も掃除は得意なんだ」
肉の焼けつく臭いが充満する。
絵を描くというなら大事であろう腕でも、あの不快なお喋りを発する喉でも、今まさに焼かれようとしているそれらどこでもなく、フードを剥がそうとする俺の手首を、男はがしりと掴んだ。ひゅう、ひゅー。潰されかけている喉から何かを言おうとしている。ろくでもないことだというのは、歪に笑う唇から理解できた。
このまま逃がしてなるものか。
体重をかける。
男の体が痙攣し、段々と手首を掴む力が弱まっていく。このままだ。このまま終えられたら、何事もなく平穏でいられるだろう。
「なぜ砂にならない?」
だからこんな質問、本当はしたくないんだ。
「ああ、頼むから勘違いするなよ、お前を殺すことに躊躇してるわけじゃあない。そこンところは、分かるよな? ただ最初っから疑問なんだ。お前、何のために殺されかけてる? 俺たちにもう用がないってんなら、さっさとずらかればいい話だ。ほかに目的があるから今こうされてる。違うか?」
「ご名答」
声は後ろから聞こえた。
男の声じゃない。もっと若い、聞いたことのある声だ。それも最悪な。
「先生ッ!!」
階下からの寺野の叫びと、左肩に激痛が走るのは同時だった。声の主に後ろから刺されたのは分かったが、確認するのは後回しにし炎の強度を上げた。みしり。完全に骨が音を上げ、力の配分が僅かにずれた。その隙を砂の男が見逃すはずがない。フードを掴んでいた手を払いのけると、取り出したナイフで俺の脇腹を刺した。苛烈なまでの熱を感じ、次いで刃物の冷たさが内臓を侵す。刺されたのは、心臓じゃない。ならまだ大丈夫だ。
踏みつけていた男の片腕を折る。ナイフから手が離れ、俺は腹からそれを引き抜き後ろに振りかぶった。人間がいるなら、胴には刺さるはずだ。
だが空振る。切っ先は血を払っただけとなった。
「おっと、」
そいつは俺の肩に刺していたものを抜き、目の前で振って見せる。でかい注射器だ、血液の入った。注射器を持った手だけが、掻き混ぜたような空間から生えている。
「乱暴はよしてくれよ、紺野サン」声はその空間から聞こえた。「アンタの血液なんざ俺の趣味じゃないんだけどさ、でもまあ。これで痛み分けってことで」
「痛み分け?」
「俺をムショ送りにしただろ? アンタ凄いんだな。俺のルート、今まで辿られたことなかったのに」
「獄中のお前がどうやって、」
「兄弟仲悪いと思ってた? 俺たち天才だからさ……」注射器を持ったまま、俺じゃなくフードの男に向かって親指だけを下に向ける。「おい兄ちゃん、あんま勝手なことすんなよ。誰の家やと思っとるん?」
「お前の家でもないやろ」ごほっ、フードの男がまるで人間じみた咳をし、喉を整える。「元は廃墟やったのを、誰がここまで立派にしたと? 権利は僕にあるやろ」
「はあ? だからって血を流すような真似すんなや。汚ねーやろ」
「お前が言う?」
「オイ、兄弟喧嘩すんなら他所でやれ」距離を取り、ナイフを構える。手首と声だけだが、誰何するまでもない、こいつはあの血液マニアだ。世間を賑わせた殺人鬼であり、寺野を攫い、悪趣味に付き合わせ、そして止むを得ず警察の手に引き渡したはずの。「……お前ら揃って地獄に堕とせるなら、何でもいいけど。何に感謝したらいい?」
「ウワ」弟が言い、手を引いた。空間に飲まれていく。「腹に穴開いてるやつの台詞とは思えないな。紺野サン、アンタさ、善良な人間辞めた方がいいんじゃない?」
「善良な人間? 俺より年下のお前も殺そうとしてるのに?」
「勘弁してくれよ。俺はアンタと戦うつもりはないね。兄ちゃん、仕事はしたからな。約束覚えとるやんな?」
「僕が約束を忘れたことあった?」
「何遍もあるやろが、俺にばっかり嘘吐きやがって。とにかく」注射器を持ったまま、手をひらりと振る。「地獄に送るのは、そこのクソ兄貴だけにしてくれよ。じゃ、俺はこれで」不躾に掻き混ぜられていた空間が、手が完全に飲まれたと同時に正しい輪郭を取り戻す。
睨んでももう出てこないだろう。あいつの目的を正しく理解するのは後でいい。言葉通り、血液を採る以外の用はなさそうだった。今はこいつだ。
俺は息を吐き、床に座り込んでいる大男を見下ろした。ニイ、血が固まりつつある唇が弧を描いた瞬間、しまったと思った。踏み込みナイフを突き刺すも、もう遅い。男は砂になって消えた。
クソ。距離を取るべきじゃなかった。
逃げられた。
──いや。
裏拳をかます。男の顔にぶち当たった感触がし、そのままフードを掴んで目の前に引きずり落とした。手すりに押しつけ、先ほど折った腕を捻り上げる。
「二度も同じ手にかかるとでも? 不意打ちも慣れりゃ意味ないぜ」
「あはっ、じゃあ一緒に落ちてくれる?」
「は?」
「元は廃墟やで? ちなみに、僕の体重は諸々で90キロ超えとる。きみと合わせたら何キロになるかな?」
「なん、」
バキリッ。
見計らったかのタイミングでもたれかかっていた手摺りが折れ、離れようとしたのも間に合わず、男に引きずり落とされる形で二階から落ちた。受け身を取るのも失敗し肩を強かに打ち、衝撃で息が詰まる。眩暈がした。脇腹からとめどなく血が流れていっている。歯軋りの隙間からクソッタレ、と汚い言葉が漏れる。手に砂の感触がするのが、何よりクソだと思わせてくる。
「先生、」
寺野の俺を呼ぶ声が聞こえ、「来るな」と一言放った。随分突き放した声が出て、自分でも一瞬驚き言い直す。「……来んな、阿保。あぶねーから。まだ座ってろ」
「このままきみを殺すのは簡単やろな」
二階の壊れた手摺りの向こう、ローブを揺らめかせた男が言う。
「でも、僕はそれをしやんよ。いずれきみを描きたいから。しばらく、かかると思うんよ。僕にもほかにやらんとアカンことがあって──だからさ、せめて、そうやな。脚くらい貰ってっていい? 毎晩それを眺めてデッサンするよ」
「いいわけあるかよクソ絵描きが」
立ち上がる。脚か。俺の足はあと何回使える? 何回でもいい。足で無理なら、次は腕だ。腕で無理なら、あの喉噛み切ってやればいい。
腰を低く構える。骨の訴えなど聞かずに両足に力を込める。床と靴裏の間に火花が散り、炎が爆ぜた。既に踏み荒らした軌道を辿って炎が男の元へと走る。俺も駆け出そうとした。
その時、背後から風が吹いた。
玄関扉が開く音がし、気が逸れた。それは男も同様だった。視線を向けた先、開けた玄関には人影が立っていた。夜闇に浮かぶ白い服は見慣れた体操服だ。うちの高校の、あれは後藤だ。
弓矢を構えている。
「この阿保!」
何かを考えるより先に叱責が出たが、後藤は弓を引き搾った構えを解きはしなかった。あれは、もういつでも矢を離せる構えだ。矢じりは真っ直ぐ男へと向いている。あとは、機を待つだけ。これがスポーツなら。
「後藤くん」
突然の乱入にも驚かず、狙われているくせ男はやたら楽しそうに口を開いた。
「きみの殺意が分かるよ。とても静かで、鋭く、だけど荒々しい。光栄やなあ。初めての相手が僕だなんて。さあ、どこでも狙いなよ」
両腕を上げる。分かりやすい挑発だ。
「後藤、何で。だめだよ」
寺野の呟きは小さかったが、友人の眉間に皺を寄せる程度にはハッキリしていた。
俺は後藤を見、後藤も俺を見た。冷えた夜気が吹き込み、炎を揺らめかせている。
眼鏡の奥の目線を俺より上にやり、やがて後藤は低く堪えて言った。
「避けてください」
押し手の狙いが男からずれる。そして矢が離れた。
矢は真っ直ぐ飛んで行った。──シャンデリアへと。
電球がいくつか破裂する。後藤はすぐに二本目を流れる仕草で構え、今度はもっと短い間隔で射った。俺は業火を撒きながら駆け、寺野のもとまで滑り込むと寺野を抱えて後藤のもとまでまた走った。背後でシャンデリアが床に落ちる轟音と、電球が過熱され爆発する振動が屋敷を揺らした。火の海が広がっていく。地面に置いていた三本目を番えようとしていた後藤を制し、扉の外へと押し出した。
屋敷内を振り返り、片足を踏み下ろす。
「これで綺麗になる」
最大出力の炎を見舞う。
これ以上ここにはいられない。扉を閉める間際、最後に見た男はこちらを追おうとする素振りもなく残念そうに両肩を竦め、一階が燃え盛っている中呑気に折れた腕を振って唇を動かしているところだった。
“またね”
ああ、ちくしょう。今度会ったら。
絶対に殺してやる。




