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代死人の寺野くん  作者: 年越し蕎麦
season1
47/62

数式瓦解者 九

 外の大気とは別に、家の中には家の中だけの天気というものがあって、私の家の中は大体いつも嵐だった。

 気象予報士にだって予測できない、世間のどこにも認知されない、それでどうやって荒れた天候から自分の身を守れと言うんだろう?

 だってあんな狭い空間に台風の目なんてなくて、あったとしてもすぐに静寂なんか分厚い雲に飲み込まれて掻き消えてもみくちゃにされて、それで。小さな子どもにとってはそれが当たり前になっていってしまう。

“この天気の中を生きていくしかない”

 どうしてこんな悪天候なのかも分からないし、防ぎ方も、抗い方も、そもそもこれが本当に悪い天候なのかも分からない。なぜなら隣やご近所の家の中と見比べられないから。ニュースになるほどでもない、小さな小さな台風だから。

 それでもやっぱり子どもにとっては大変で、命が懸かっていて、家中を覆う暗い雲と降り続ける雨をなくしてしまいたかった。


 あのひとは。

 そのどんな分厚い雲や豪雨をも切り裂く、雷みたいなひとだった。







 びくっ、体の震えとともに目が覚めた。 

 ううん、もしかしたら覚めていないかもしれない。何せ眠っていた感覚がない。目の前には相変わらず悪夢みたいな光景が広がっているし、ちょっと本気で眠った方がいいかもしれない。

 広がる光景に眉をひそめても、においに嘔吐いたり痛みに呻いたりしないあたり、あの男はちゃんと私との約束を守っているらしい。動物の遺骸が転がっていても悪臭がしなかったり、私の手足をあのナイフで傷つけて痛みがなかったりするのも、全部は私の“安らかな表情”を描くためなのだ。

 用意された服に着替えて、指示された通り座って、何かよく分からない飲み物を言われるままに飲んで、切られるところは怖かったから目を瞑って、そうしている間わりとあのフード男は状況や行動の説明をしていてくれたと思う。ただしその説明にあんまり理解はできず、ひたすら目を瞑って口を噤み、何をされても絶対に死ぬもんかという決意を固めるだけの時間だったけど。ただ場所や目的さえ違えば、病院みたいだなとは思った。そうでも思わないと、感覚もないのに自分の手足が切られているなんてちょっと耐えられない。

 男は何度も私の皮膚を切った。

 その度に距離を取り、見る角度を変え、動物の死体を移動させたり、りんごの枝を折ったりした。

 納得の声をあげるまで、それほど時間はかからなかったと思う。最後にイーゼルと大きなキャンバス、古びた画材道具を持ってくると、気に入った場所に陣取って笑った。“これで完璧。きみは僕が下描きを終えるまで安眠して待っとって。おやすみ。あ、僕もあのスタンプを送ろうか?”

 あれから、どのくらいの時が経ったのか分からない。

 でも時間が経過したのはわかる。

 部屋を照らしていた月光がない。血の色が黒い水溜まりに見えるほど薄暗い。たぶん、夜だ。それか、朝方。

 もし何日も経っていたらどうしよう。良ちゃんはちゃんと家にいる? 創一さんは?

 あの男はどこに行ったの?

 体は飲まされた液体のせいでまだ上手く動かせない。視線を動かせる範囲には、見当たらない。キャンバスがあった場所にも何もない。ということは、彼の目的は達せられたということだ。下描きが完成して、もう私に用はない。

 いっそ声をあげてみるべきか、口を開きかけたとき、どこかで扉が開く音がした。

 足音は聞こえなかった。けど、何かを引きずってくる音が段々と近づいてきた。

 

「あ。目ぇ覚めた? おはよう、こんばんは。調子はどう? キヨ子ちゃん。まだ薬は抜けきっとらんやんな?」


 視界の端から男が歩いてくる。

 手に何かを引きずっている。人影だった。初めは人形かと思った。

 血の池を挟んで、私の真向かいまで来る。どさり、そして手に持っていたものを離した。血の池に落ちても、何の反応も示さず、いよいよ人の形をしたマネキンみたいだった。そんなはずない。

「てらのくん」

 口にしてから、やっぱりこの名前が正解だと思えてもう一度声にしていた。「寺野くん?」

 床に落とされたのは、片墨高校の制服を着ている代死人の寺野くんだった。顔は、うつ伏せのせいで見えない。背格好だけで判断するのは難しいけど、私はなぜかそうだと確信していた。笑っていないと鋭利なつり目も飾ることを知らない独特なお喋りも何もないけど、床に倒れているのは間違いなく代死人の寺野くんだ。

 

 右腕がない。

 見間違いであってほしかったけど、彼の右腕が肩のあたりから服ごと切断されている。

 彼を引きずってきた床には黒い跡が滲んでいて、切断面からは今も血を流し続けているのが明白だった。


「嘘つき!!」

 気がついたら子どもみたいに叫んでいた。

「痛いことはしないって言った!」

 私の悲痛な叫びを聞いても、長いローブの裾を血溜まりに擦りながら眼前にやってきた男の唇は笑っていた。

「きみと、きみの家族にはね。だけど彼はただのお友達やろ? それに、彼は痛みを感じとらん。そういう約束やんな?」

「汚いわ! どうして──!」

「きみより大人やからね。約束は破っとらん。小さな子みたいに駄々をこねるには、足が不自由なんちゃう? 薬の効果が切れるまでに、病院に連れてってあげる。じゃないと、痛い思いしちゃうからさ」

 涙が盛り上がる。すぐに表面張力の限界を超えて雫がこぼれた。「寺野くんに何したの?」

 両目から溢れたそれを男の大きな両手が拭ってくる。手の皺からは染みついた油絵の具のにおいと、錆びた鉄のにおいがした。

「泣かんとってよ。きみには、そういう顔をさせたいわけっちゃうんやに、ほんと」

「どうして寺野くんがいるの、なぜ彼は怪我をしているの! 答えて! やっぱり寺野くんが狙いだったの!?」

「彼はオマケみたいなもんだよ。たまたまそこにいて、まあ、僕の仕事と趣味に関係しそうやったから、ついでに。僕はきみが描けるだけで、充分」

「そんなの……」

「理不尽?」

 男は殊更優しく続けた。「言ったろ? 僕はきみより大人だ。きみより大人の存在はさ、大体みんな理不尽やに。きみもそれは知っとるやろ?」

 嗚咽が漏れる。本当は泣きたくない。泣きたくないのに、それしかできない。

 いっつもそうだ。

 子どものころ、家の中でもそうだった。両親と呼べる存在は不仲だった。家の中はめちゃくちゃだった。嵐が吹き荒れてるみたいに、いつもうるさくて、私だけは静かに嵐が過ぎ去るのを待って、だって死ぬのも殺すのも殺されるのも死なせるのも全部嫌だったから、だから。

「ああ、ごめんね。嫌なこと思い出させちゃった?」男が顔を近づけてくる。「こっちを見てよ。見とる? 涙が邪魔やな。舐めとっていい?」

 だから生きると決意したんだ。

 体を動かせない私にできる抵抗は、せいぜい歯を食い縛る程度だった。たとえ動かせたとしても、創一さんみたいに相手を殴れるわけじゃない。あのひとは、雷だ。家の中の分厚い雲も、雨も、風も切り裂く、一番強烈で、苛烈な雷。

 いつも私のそばに、落ちてきてくれる。

 

「……てンめェエ…………」


 ──そう、こういうふうに。


 衝突音。

 目の前にいた男の体が、突如上から降ってきた人物によって床と激突する。


 2メートル近いフードの男が上からの衝撃で倒れる様は一瞬だったけれど、それは私の涙を弾き飛ばすには充分すぎる時間だった。


「そ……いちさ、なんで」


 吹き抜けた先の二階から飛び降りてきて、男を踏み潰したその雷は、まさしく、脳内に思い描いていた私の兄、横田創一そのひとだ。

 なんで。どうして。まさか都合のいい幻覚を見ている?

 

 混乱して瞬きを繰り返す私の前で、創一さんは倒れ伏している男の胸ぐらを掴む。そして確実に幻覚ではない声量で怒鳴った。


「ブッッ殺してやる!!!!」


 鼓膜が震えた。飲まされた薬の影響で動かない体が、耳の奥から痺れて痙攣する。創一さんだ。私のお兄ちゃんだ。喧嘩っ早くて、乱暴者で、ぶっきらぼうで、なのに身内にはとことん優しい、あの不良青年だ。私が見ているのは夢でも幻覚でもない、本物だ。

 ──ゴッ。骨と骨がぶつかる音がした。

 創一さんは男の顔面を殴り、殴って、殴り続けた。

「そ、創一さん、」

 今まで感じていた恐怖や混乱、不安が一直線に目の前の現実に向かって集中していく。兄は手に拳大の岩を持っていた。骨と骨のぶつかる音じゃない。これは岩で骨を打つ音だ。「お兄ちゃん、」このみっともない震え声をちゃんと耳にしたらしい兄は、一度動きを止めると、深呼吸をして私の方を振り向いた。

 頬に血が飛んでいる。

 目が合う。

 返り血のついた頬を歪めて、笑おうと表情筋を強張らせて見せるも、兄はすぐに諦めて、ただただ、私の目を真っ直ぐ見つめて言った。

「待ってろ、キヨ子。今すぐこいつをぶっ殺してやるから」

 それが私のためだと信じて疑っていない目つきだ。

 違う、そんなことしなくていい。言葉よりも早く意思を伝えられるはずの体は、今は役に立たない。本当なら兄に飛びついて制止したいのに、僅かな震えを発するだけだ。兄はそれを見て、もっと悪いふうに考えたらしかった。

「ごめんな。僕がもっと早く来てりゃ、きみをこんな目には──いや、ちげえか。やっぱり最初から殺しときゃ良かったんだ、俺が、何でも」

 フードの男を蹴り飛ばす。

 地面に転がる男は、血を吐きながら「デジャヴやな」と言葉を漏らした。「もーちょっとで舐めとって、キスぐらいできそうやったのにさ」

 兄が無言で男の頭をまた蹴り飛ばした。血が飛ぶ。

 男は無抵抗だった。砂にもならない。

 繰り広げられているのは一方的な暴力だった。

「お兄ちゃん……」

 誰かが。

 誰かがあのひとを止めてあげなければならなかった。

 じゃないと。

「お兄ちゃん……!」

 死んでしまう。

 人殺しになってしまう。

「やめて! お願いお兄ちゃん!! それ以上怒らないで!」


「怒るだろ!!!」


 創一さんは岩で男を殴りつけ、怒鳴った。腹を蹴り上げ、蹲る巨軀を私から遠ざけようと引き摺っていく。

「そりゃ怒るだろ! お前を傷つけて! お前を泣かせて! お前の髪だってそんな……ッ、挙句にンな気色悪ィとこに連れ去って、それにお前、怪我だらけで……! 怒んなって方が無理な話だろーが!!」 

 男に馬乗りになり、岩を振りかぶる。怖気立つ音が続く。

「お兄ちゃん!!」私は声だけで必死に兄の暴行を止めようとした。「お願い、聞いて! 私は平気!」まだ声が届く。まだ言葉を聞き入れてもらえる。「創一さん……ッ」だから言葉を間違えちゃいけない。ここで間違えたら、きっと駄目になってしまう。誰かじゃない。私が止めるんだ。

 だって私はあのひとの妹なんだ。

「そばにきて」

 部屋の暗闇に溶けてしまいそうな後ろ姿に、必死に言い募った。

「お願い。私のそばに来て、私を安心させて。私を迎えに来てくれたのなら、手を握って、目を見て、もう大丈夫だよって言って。お願い創一さん……お兄ちゃん……!」


 殴打音がぴたりと止んだ。

 岩が床に捨てられた音もした。

 暗闇から兄が歩いてくる。駆け足になり、私のそばまで来るとその勢いのまま跪き、私の手を握ろうと両手を上げた。

 その手は血で真っ赤だった。怪我はしていない。全部あの男の血だ。

 私は垂れてくる洟を啜り、それでも我慢しきれずに涙声で言った。

「手を握って」

「キヨ子、」

「手を握って、おねがい」

「けど、……きみが汚れる」

「私も血だらけだよ。……あっ、うそ。待って。怒らないで。違う。この怪我は、痛くないの。何かそういう薬を飲まされ……待ってこれも違う。ねえお願いだから、そんな顔しないで」

「そんな顔?」

「すごく怖い顔」

「だろーな。待ってな、キヨ子。俺だってきみにンな顔させたいわけじゃねー……」

「どんな顔してるの?」

「怯えてる。怖がってるよ」

「そうよ。そう見えるよね? だったら早く、手を握って」

 創一さんは唇を噛むと、手を服で拭い、ようやく私の両手を握ってくれた。あまり力が入らないながらも握り返すと、指先が震えた。

 兄の体温は今の私にとっては痺れるほど熱く、むしろ焦げて離れそうにないほどの温度だった。それは兄にとっても同じなようで、今度は一切の迷いもなく私の体を抱きしめる。目を合わせて言った。

「怖い思いさせてごめん」

「……もう大丈夫?」

「もう大丈夫だよ。キヨ子」

「お兄ちゃん……」

 肩口に顔を埋める。そうすると駄目だった。

 涙が一気に溢れた。

 私はもう大丈夫だ、このひとがそばにいる。けど、じゃあ、寺野くんは?

 血溜まりに倒れたまま動かない寺野くんは、一体いつ大丈夫になるの?

「お兄ちゃん……っ寺野くんが、」嗚咽が混ざって上手く喋れない。寺野くんが酷い怪我をしていて、それで全然動かないの。代死人だから、死んだりしないよね? 眠ってるだけで、ちゃんと治るんだよね? わからない。私は寺野くんのことを全然知らない。知らないから、安心できない。彼をよく知っていて、傷ついた時にそばにいてくれるひと、そんなひとは、きっと、たった一人しかいない。「どうしよう、てらのくんがっ」


「安心してくれ、横田ちゃん」そのたった一人の声は、至極冷静に上から降ってきた。「そいつちょっと狸寝入りしてるだけだから」


 そして確かに掠れた声が「ひ……どいな、」と上からの声に返事をした。


 兄の肩についた鼻水が伸びるのも構わず顔を上げる。周囲には相変わらず血溜まりが広がり、動物の遺骸に混じって片腕のない寺野くんの体が転がっている。部屋の中は暗くて、それ以前にぼやけた視界じゃほぼ何も見えない。けれども確かに、寺野くんの残った片腕が痙攣し、僅かに持ち上がったのが分かった。指が蜘蛛みたいに動く。


「狸寝入りってわりには、」ぜー、ひゅー。ごほり。「……っ結構な、虫の息だと、思うんだけど?」

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