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代死人の寺野くん  作者: 年越し蕎麦
season1
45/62

数式瓦解者 八

 小さな子どものころから、あれこれ考えるわりには覚悟さえ決まれば早かった。

 覚悟や、決意さえ抱けば。

 大抵の自殺願望からは逃げられる。




 バツン。

 それは確かに、惰性でつけた無精紐を引っ張り、部屋の電気を落とした音だった。

 毎日聞いている音だ。だから徐々に暗闇に目が慣れ、物の少ない自分の部屋の輪郭が見えてくるはずだった。

 しかししばらく待っても何も見えてこない。

 真っ先に見えてくるはずの小さく白いテーブルも、壁にかけた制服も、それどころか窓の方へ視線をやってもぼんやりとした明かりすら見えてこない。

 完全な暗闇だ。

「……あの」

 声を落とす。質量があるとは思えなかったが、拾う男はちゃんとそばにいるらしかった。

「ここは私の部屋、ですよね」

「んーん。僕の家。まあ僕のっていうか元は弟の家やったけど」

 移動した感覚はない。

 だけど下手にこちらの常識を突きつけて一般的感覚を得ようとするには相手が悪すぎた。なので常識ではなく、気になったことを男がいるらしい暗闇へと訊く。「弟さん?」

「うん。代死人の彼から聞いとらんかな? それとも、ニュースの記憶は? この片墨町でも何人か殺して血液を蒐集しとったやつでさ。そいつ、僕のバカな弟」

 冷や汗が流れる。この暗闇が、連続殺人犯の元家? そしてフードの男はその兄。震えそうになるのをどうにか堪える。「……仲悪いんですか」

「え? あは。仲は。あー、きみらほどじゃあないかな。血は繋がっとるけど」

「……血が繋がってて、兄弟揃って似たようなことしてるんだから、よっぽど仲いいように見え、……」余計なことは。言わないほうがいいのかもしれない。何が相手の逆鱗に触れるかわからない。

 ただ黙って嵐が過ぎ去るのを待てばいいのに、この暗闇じゃ恐怖が勝ってそれもできない。それに静かすぎる。いっそのこと会話の余地も挟まないほど暴力的だったら、──そしたら我慢するだけで済むのに。この恐怖を生み出している原因にそんなことを望むなんておかしい。おかしいけど、それくらい、どうしたらいいか分からない。

「私は何をしたらいいんですか」

「ん? もーちょっと待ってな。色々、面倒でさ。他人と一緒に“ショートカット”すんの。でももう少しで……」


 バツッ。

 それは聞き慣れた部屋の電気が点く音だった。

 

 しかし目の前に広がる光景は自分の部屋ではなかった。

 電気も点いていない。空間を照らしているのは吹き抜けた二階の大窓から射し込む月明かりだけだ。

 それでも明るかった。全てを見渡し、色を認識できるくらいには、いま自分がへたり込んでいる場所を鮮明に映し出していた。

 洋館の大広間。壁際に二階へと続く階段がある。天井には灯りの点いていないシャンデリアがぶら下がり、そのずっと下、私の目の前になぜか床から木が生えている。私の身長より少し高いくらいの、既にたくさんの実がなっているりんごの木だ。

 そしてりんごの木の周りの床は一面真っ赤だった。りんごではない。

 おびただしい量の、赤い液体。

 それから、何かの肉の塊。それが獣の肉だと気づけるのに、時間がかかった。赤く染まり分かりづらいが、獣の耳や、毛、何の動物かもわからない鋭い爪などが木を取り囲むようにして赤い池に転がっている。

 

「…………っ、」

 私はへたり込んだまま、ゆっくり後ろを仰ぎ見た。

 フードの男の暗い目許が、こちらを見下ろしている。

「あれ、は」喉から掠れた声が出る。「本物、ですか」

「そうやに」男は腰を折って私に顔を近づけた。「僕が集めてきた。綺麗やろ。腐敗を止めとるから、臭さもないし」

「もとは、生きてた?」

「もちろん」

「あなたが殺した?」

「殺したってか、引き裂いたり、ぶつけたり、折ったり、焼いたり。結果的に死んじゃったから、まあ殺したとも言える。うん。僕が殺した」

「どうして……」


 白く骨張った、片手で私の顔を掴めそうなほど大きな手が、私の喉をするりと撫で上げた。


「絵を描くため」

 簡単に告げられた内容が、理解できない。

「え、……絵?」

「うん。僕は想像だけでものを描けるような天才っちゃうくてさ。モチーフがいるんよ。描きたいものを描くためなら、僕は倫理の枠組みだって崩す。きみには、絵のモデルになってほしい」

「…………」

 喉を撫でる手、この手があの惨状を生み出したんだ。

 頬の薄い傷跡が鈍く痛む。躊躇いもなく、この人はナイフを振れる。このまま私を殺すことだって、わけない。

「……私は殺されるんですか」

「どう思う?」

「そのつもりなら、とっくにあの動物と同じになってると、思う」

「だから?」


 ──昔からそうだった。

 涙が滲むほど恐怖を感じても。

 唇が震えるほど怒りを感じても。

 どんなに両手が自由に動いたって。

 死んでみたいとは思っても、死にたくはないし。殺してやりたいとは思っても殺せはしない。


 子どものころ、嵐が吹き荒れる家の中で、ひとり、逃げ出せもせず決意を固めてきた。

 やがて決まった覚悟は、今も、これからも、何があったって覆らない。

 

「私を殺さず、私の家族にも手を出さないのなら、モデルになります。……何をしたらいいですか?」


 生きるのを諦めないこと。

 これがなければ、たぶん、悲鳴をあげて逃げるか、泣き喚いて暴れているだろう。

 私の視線を受け止めた男は、首を撫でていた指をぐりと押してきた。息苦しくなる。けれどめげずに目線は外さないでいると、笑う口が言った。

「……代死人の彼は、さぞきみを好きやろうね」

「寺野くん……?」

「僕も好き。やっぱりいいなあ! 横田キヨ子ちゃん。きみに一目惚れした甲斐があった」ぱ、と手を離す。そして次にパ、と手を掲げた時にはナイフが握られていて、瞬く間もなく私の髪を切り落とした。ぱさり、床に髪の束が散らばる。「約束するよ、痛いことはしやん。きみの兄弟にも手を出さん。僕はきみの苦痛に歪む顔を見たいわけっちゃうんや、むしろ全くの逆だから。さ、じゃあ、言う通りに準備してくれる? 可愛いモデルさん」


 顕になった首筋が急激に冷えていく。

 私は唇を一度強く引き結び、こくりと頷いて見せた。







 後藤くんのナビに従い観光地の脇にある山道をひたすら車で走る。

 合流した創一の話によると、横田キヨ子がいついなくなったのかハッキリとは分からないらしい。

 最後にやりとりしたメッセージから推察するに、もしかしたら昨晩からの可能性が高く、助手席に座る彼女の兄は一通り状況を語り追えると黙って拳を握りしめて車窓を睨んでいる。お互いの情報を共有し、説明し合ってからずっとこの調子だ。ぎりぎりと歯軋りさえ聞こえてきそうな、暗雲たる殺意を、隠そうともしない。

 気持ちは分かるが、殺意だけでどうにかなるわけじゃない。軽く息を吐き、沈黙を破るようにしてまだ訊いていなかったことを訊いた。

「末の子は? 良二くん。一人にはしてないんだろ?」

「キヨ子がいなくなったことに気づいてから、すぐ警察ンとこ行きました。いまは保護されてる」

「賢い子だな」

「でしょ」車窓からバックミラーに向けた目つきが多少柔らかくなる。「あいつ、俺と違って頭いーから。愛嬌もあるし。ま、どんだけ無能なサツも何かあったら盾くらいにはなるでしょーし……良二は大丈夫すよ」

「そうか」

「っつーか、他人の心配より、だってアンタ……いいんすか。これ」

 創一が煩わしそうに自分の肩の横をつつく。そこには、後部座席からダッジュボードまでを横切る長い弓が鎮座していた。後ろに座る後藤が「スンマセン」と声を投げる。「ないよりは、あった方がいいかなと思って。あ、紺野先生、次右です」

 ハンドルを切る。舗装が悪くなってきたのだろう、車体が大きく揺れた。物ともせず、創一が体ごと後部座席を振り返った。

「あんなー、後藤? だっけか。キヨ子や燿介さんから話は聞いてるけど、お前これ、許されると思ってんのか? 弓道部って俺の時代と一緒なら、大会前日以外、弓矢の持ち出し禁止だろ」

「明日大会なんで」

「は? マジ」

「っていう設定です。でも、俺の勘違いだけで済むなら、紺野先生の責任にはならないでしょ」

「はあ?」呆れのような声を上げた創一だったが、睨みにも似た視線を完全に弧にした。三白眼で目つきは悪いが、破顔すると細い目がなくなり糸になる様は、それなりに無邪気だ。「はは! 大人としちゃ色々咎めなきゃいけねーし、燿介さん困らせようもんなら黙っちゃいねェけど、その度胸はいいな! な、燿介さん」

「俺に振るな」

「まー、先生が目を瞑ってんなら俺は何も言わねえすよ」前を向き直る。先ほどよりは露骨じゃないが、もちろん痺れるような殺意が消えたわけではない。「……キヨ子(あのこ)が無事に帰ってくるための要素は、何でも多い方がいいっすから」

 窓の外では木々が深まり、陽光が遮られていく。

 ガードレールが途切れがちになり、建造物の影も見えなくなったところで、優秀な案内人が言った。

「次も右です。細いけど行けると思う。しばらく道なりに走って、行き止まりで降りましょう。そこの階段をのぼって少し歩いたら、最短かつ安全に目的地に着きます」

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