手直し
報告書をまとめるのは簡単だ。
事実を取捨選択し、起こったことをそのまま記せばいい。
ただ面倒なこともある。
後回しにした感情が出来事を思い返すたびに追いついてくるということだ。それはずっと消えないし、毎度無碍に扱っても必ずまとわりついてくる。
代死人寺野に対しての、あれやこれや。
罪悪感だとひとつに言い切ってしまえるほど単純なものではなく、彼が誰かの代わりに死ぬたび薪を焚べられている気分に陥る。それはもうずっと音もなく燃やされていて、灰は火の勢いに舞っては降り積もっていく。報告書の作成はその灰を振り落とす単純な作業だった。簡単なことだが、一度煤がついてしまっては汚れを落とすのに時間がかかる。
他に教員がいない職員室、滅多に寄りつかない自分のデスクにつき、そうやってパソコンを弄ることしばらく。
仕上げなければならないデータは完成し、あとは弓道場に遊びに行った寺野を迎えて帰るだけなのに、どうにも腰が上がらない。振り払った煤がこびりついて離れない。
T-0671。
それが報告書内での寺野の名前だ。
Tの型番はほかにも全国にいる。それら全て、性別も見た目も中身も違う。
人間と違う点は、細かなことを挙げればキリがないが、最も大きな相違点は死なないこと。
人間は自殺することを許されている生き物だが、代死人は許されていない。……宗教家たちの派閥によれば、全く逆のことを述べられることもあるが。(「人間が自ら命を絶つのは罪です、ですが代死人は人間ではないので罪には問われません! 彼らは神に許された存在なのです」──どこかでいつでも聞く何かの信者談より)
俺は、あいつが本当の死を、二度と目覚めなくなる眠りを心の底から望んでいるのを知っている。知っている上で、仕事をさせている。
罪人に与える拷問のようだ、と思う。
……代死人のことを罪人だと無意識にも判別している時点で、俺はやっぱり寺野のことを人間のように見ていて、自殺するのを良しとしていないんだろう。つくづくこの仕事に向いていない。
辞めようと思ったことはある。
けれどそしたら、寺野はどうなる?
「どうもこうも……」
別の管理者の管理下に置かれて、死に続けるだけ。
もしそうなったら。
出会ったころの、食事の好みもないような無感動な状態に戻るんだろうか?
それはちょっと、いやかなり。
嫌だと感じてしまうのは、管理者にとっての所有欲か何かなのか。
そうだとしたらほとほと嫌気がさす。結局俺も、あいつを物として見てしまっているということになる。さっきは人間のように見ていると考えたくせして、全く毛糸玉のような思考回路だ。絡まりまくって、糸口がない。今日こそは少しでも、絡まった糸の一本でも探して引けやしないかとそのまま黙考するも、されど毛糸玉を蹴飛ばすような足跡が聞こえてきた。
廊下から、歩幅が広く、しかも速い。
遠くから風と振動で窓を揺らしながら駆けてきたその足音は、職員室の前でピタリと止まった。
間髪入れずドアが二回、叩かれる。「失礼します、弓道部の後藤です。紺野先生いらっしゃいますか」
声で誰か分かり、最後まで聞かずに立ち上がってドアまで駆け寄っていた。
とんでもなく嫌な予感がする。右手でドアを開け、左手では白衣のポケットから端末を取り出した。
「後藤くん? 寺野がどうかしたか」
いきなり問われた彼は眼鏡の奥、瞬きひとつで最適解を叩き出したようだった。詰まることなく答える。
「攫われました」
「誰に?」
「フードの男。弓道場にいきなり現れて、砂になって消えました」
会話しながら操作していた左手を見る。──現在地測定不能。寺野からの信号が途切れている。そのまま指先は緊急事態時の対応を試みた。
「分かった。きみは怪我は? 何かされたり、言われたりした?」
「横田さんも、たぶん、攫われてます。この間の滝の、もっと奥にある館にいるって」
「滝? 碧滝のことか。分かった、ありがとう後藤くん。対処は俺がするから、きみは家に帰って──」
「俺の家は橙ノ山にあります」
見上げてくる目は真剣そのものだった。そして彼は右手に弓道の弽をつけ、背中に矢筒を背負っていた。思わず指先が止まる。
「古い洋館なら、心当たりがあります」
「駄目だ」
「でもその様子じゃ、……寺野の場所が分からないんじゃ?」
「今だけだよ」
「後で場所が分かったとしても、案内役は必要ですよね? 洋館へは、去年の台風の影響で道が崩れたままになってて、正規のルートじゃ行けません。俺なら安全かつ近道で案内できます」
「駄目だ。子供三人と大人一人じゃ、何かあったときに俺だけじゃ対処しきれない」
「そんな最もらしい嘘は、」端末から着信音が鳴り響く。彼は大人しく口を噤み、俺が電話を取るのを優先した。
伏せられた眼差しを気遣いだと察したが、着信相手の名前を見てこの場で受信することに決める。
タップした瞬間、相手の声はスピーカーどころか耳に当てなくても廊下に響き渡った。
『もしもし燿介さんッキヨ子がいなくなったんすけどアンタの近くにいたりしねーっすよね!? サツ共は家から誰も出てねえって言ってンだ、ちょっとでも無能公僕を頼った俺が馬鹿だった!! これならやっぱり俺が四六時中ずっと見張ってりゃァ良かったんだ!』
「落ち着け創一」
『アンタが俺をぶん殴ってくれるってンなら落ち着きますけどね、ああほんとはこんな言い方したかねェけど! けどもし! あの子の行方について何か知っているのなら! 今すぐに教えてくんなきゃ俺はッ暴れまくって刑務所送りになってやっかっなァア!』
「森岡ァ……」苦々しい声が出る。電話の向こうで呼気を荒げている後輩は、確かに思い切り殴りでもしなければ昔から止められない喧嘩っ早さだった。溜め息にしては重量のある息を吐き、分かった、と言ってやる。「……脅すな、俺を。分かったから。お前を犯罪者にはさせねーよ。……お前いま職場か? なら迎えに行くから、どうにかして早退してこい。誰も殴るな、蹴るな、言葉だけで会社を出てこい。いいな? 詳しい話は、それからだ」
返事を待たずに通話を切る。
目を戻すと、教師たちの間で優等生だと評判な後藤和彦が、評判通り真っ直ぐな態度で俺を見上げて口を開いた。
「寺野には申し訳ないけどこの場合は人間カウントしないとして。紺野先生と横田さんの兄貴を大人二人、俺と横田さんを子供二人としたら、充分に保護者側は機能しますよね」
「きみ今の聞いてあいつを保護者扱いするのか」
「成人してますし、立派に大人なんでしょう。紺野先生。……俺は場所を知ってるんすよ」
そうだ。彼は場所を知っている。ここで説き伏せても、家に帰るついでに一人で危険へと向かいかねない。
「……あのなあ」再度溜め息。「揃って俺を脅すなって……」
「バレましたか。有効かなって」
「有効だよ。あーもう。分かったよ。親御さんには帰りが遅くなるって連絡しろよ。あと、案内してもらうだけだから。それ以外はない。きみを危険な目には遭わせない。きみ自身、危ないと思ったらすぐ逃げる。約束しよう、それだけだ」
「はい」
彼は真面目に頷く。
しかし重い溜め息には三度目があり、それは俺の車に袋に入った弓が立てかけられているのを視認してからだった。
俺の呻きにも似た溜め息と物言いたげな視線を受け、駐車場までほぼ同じ速度で隣を走っている後藤くんはしれっと言った。
「大会、明日だと勘違いしてるんで」
……クソ優等生め。




