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代死人の寺野くん  作者: 年越し蕎麦
season1
42/62

下絵

 射法八節。

 スポーツにおける弓道の基本は、八つの動きで成り立っている。

 弓道部に所属し最初のころにされた説明だ。最初のころどころか、この基本ができていなければ上達しないのだから最後まで教わる作法といってもいい。弓道は八つの動作でできている。

 

 足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心。

 慎重に、冷静に。心を穏やかにして。

 そうしてこれら全ての動作を行ったとき、的は丁寧に射られる。


 八つの動作を滑らかに行い、頭にひとつの疑念もなく、もし矢が離れた先が的でなければ、最も礼儀正しく命を奪える行為じゃないだろうか。

 ……ナイフや素手なんかより、マナーがいいと思う。


「いま良からぬことを考えてただろ? 僕が的になろうか」

 

 ──ドッ。

 重鈍い音を短く響かせ、17キロの弓から離れた矢は寸分の揺れもなく28メートル先の的を射抜いた。

 おそらく中央からはずれたが、いま弓道場には自分しか練習していないので特に悔しがることもない。的の中央に中ればいい点数が取れる、という規則はないが、まあ、部員がいればそういう遊びをすることもある。

「よォし! ……で、合ってる?」

 入口から投げられた確認に答えるべく、射法八節のうち最後のひとつである残心の構えを解く。

 自分ひとりということもあり、そのまま擦り足で退場することはせず、俺は気軽に入口を振り向いた。そこにはいつの間にいたのか、声音の通り寺野が立っている。「合ってるよ。サンキュ」

「よォし!」矢が中ったときの掛け声をもう一度発してくれた寺野は、立ったまま、「凄いな」とつり目を的に向けて言った。「四本全部中ってる。皆中って言うんだっけ? 拍手するべき?」

「凄いのは寺野の方だろ。よく裸眼で見えるな……」

 眼鏡の下縁を弽をつけた人差し指の背で押し上げる。俺はこの状態でも多少ぼやけ、目を細めてやっと本数を視認しているのに。「拍手はいいや。照れくさいし」

 ばちぺちぱし。

 一瞬何の音か分からなかったが、音のする方を見ると寺野が叩き合わせている掌から鳴っていた。まさか拍手か? たぶんそうだ。壊滅的に下手くそな拍手を披露した寺野は無邪気に言った。

「存分に照れるべきだよ。僕の不意な揺さぶりにも動じず、きみは全部中てた。さすが部長」

「揺さぶり? ああ」

 先ほど、矢が離れるか離れないかのタイミングでかけられた言葉のことだろう。“良からぬことを考えてただろ”──良からぬこと。そんなのはしょっちゅうだ。邪念を持っては中らないとされるこのスポーツで、それで部員の中で一番上手いと言われるんだから、俺の精神は通常通り平穏そのもので寺野にとってはそうじゃないんだろう。じゃないと困る。俺はこの軽い欲求を決して善なるものとは思っていないし、監視してくれる存在というのは本当に有り難いと思っている。おかげで、まだ的しか中てていないし。

「舐めんなよな、寺野。俺を本気で揺さぶりたきゃ、的の真似事でも足りないよ」

「ひゅーう」下手くそな口笛。「じゃあ僕は一生きみを動揺させられないな。的になるのが唯一の特技なのに」

「残念がんなって。いいんじゃないか。動揺がない分、信頼が厚いってことだろ」

「何それ。友だちっぽいな」

「友だちだからな」

「頬の血色を良くするためにさ、ちょっと矢を貸してくれない?」

「何の話?」

「友だちに動揺させられた僕の面を見せてあげようと思って」

「ええと、オーケー。人間なら赤面するほど照れたって意訳で合ってるなら、今度からは、そうだな、下唇でも噛んだら?」

 寺野は思い切り下唇を噛んで見せた。「ほへふぁいいへ」これはいいね。「ほふぇえふぁほほふびひゃひらふぁふへふふ」なんて? 顔を顰めたのを見兼ねたのか、下唇を解く。「最近さ、余計なことばっか口走り気味だから。場の混乱を招かなくて済むね、これ」……ああ、えー。“余計なこと口走らなくて済む”か。

「余計なこと? っつかさ、入ってきたら。今日日曜だよな? 休みじゃないの?」

「そっくりそのままお返しするぜ」

「俺は大会が近いから。……あ、なるほど」

 大会が近いのは弓道部だけじゃない。ほかの運動部も大体にして同じ時期だ。日曜日と言えども、自主的に学校に来ている生徒はたくさんいる。現に数十分前までは弓道場にもほかに部員がいた。「ご苦労様。休日出勤か」

「そー。いま一通り見て回ってきたんだ。ここが最後」

 頷いた寺野はお邪魔します、と律儀に言って靴を脱ぎ、道場内に入った。並ぶ弓立ての前に胡座をかいて座る。カーディガンじゃなくブレザーを着ている格好を見て、ふと寒さを思い出した。

 弓立てに弓を掛け、矢道を背にし、寺野の斜め前に正座して弽を外す。そばに放っていたカーディガンを手繰り寄せ、半袖の体操服の上から羽織った。弓道は弦が引っかかる危険性があるためチャックやボタンのある上着で行ってはいけない。実家のある山はここよりもっと気温が低いので、体操服の下にはヒートテックを着ていたが、昼も過ぎた今の時間になるとたとえ山育ちでも寒いと感じた。続いて水筒を手に取る。「お茶飲む? 最後ってことは、ゆっくりしに来たも同然だろ?」

 寺野はニヤリと両方の口角を上げて「さすが信頼が厚いだけある」と言った。そりゃそうだ。ここを見回りの最後に選んだってことは、俺と話す以外のイベントはない。俺に自殺願望はないので。

 本当なら道場内は飲食厳禁だが、顧問の目がないので問題にはならない。壁際の私物入れから紙コップを探り、それにまだ湯気の立つお茶を注いで渡してやると、寺野は礼を言って受け取った。

「紺野先生は?」

「職員室。報告書まとめに」

「大変だな。あの人って休みとかあるのか?」

「さあ。僕といるとこしかほとんど見たことないからな」

「つまりはほとんど仕事ってことか。大変だ」

「その大変な先生に、余計なことばかり喋って困らせちゃいそうなんだよね」

「戻ってきたなー、話が。何? 余計なことって。いらんことは結構喋ってるイメージあるけど」

「僕ってそんなに不躾?」

「不躾っつーか無邪気っつーか。ブラックジョークに近いことはさ、めっちゃ話してるように見える」

「ジョークにもならないことをだよ」

 寺野はお茶を飲もうとして、息を吹きかけ、まだ熱いと思ったのか飲むのをやめた。俺はそれを横目に水筒のコップから茶を飲む。眼鏡が曇るが、そこまで熱くない。辛い食べ物が苦手だと言っていたし、猫舌の可能性は大いにあった。代死人てほんと。人間の代わりに自殺するだけあって、人間によく似ている。大変おぞましい。おぞましいが、友人としてはかなり面白く、信頼のおける存在だ。そんな存在が、やはり人間らしく細い眉を下げて言った。

「ジョークどころか。言葉が詰まるんだ。“あ”とか“う”とか、そんな意味のない単語を発しそうになって、でもそれは本当に意味がないから僕は心臓が出そうだとか、適当に笑ったりして誤魔化すんだけど。でも本当はもっと、別に言いたいことがあるはずなんだ」

「……なんか悩んでんのは分かったんだけど。ええと、そうなるのは、どういう状況のときなわけ?」

「先生が怪我をしたり、無謀なことをしたときかな」

「それって心配してるってことだろ?」

「そうなんだ。横田ちゃんにも言われた。それは的を射ていると思う。でも、そうだな、何というか」

「的の真ん中は射てない感じ?」

「そうそれ。さすが後藤。やっぱり僕を的にしてみない? きみなら僕の心臓ド真ん中をぶち抜いてくれそう」

「ぶち抜いてやろうか?」

 寺野がこっちを見た。薄い茶色のつり目から感情は窺えない。ただ口許だけは興味からか笑んでいた。それを了承ととって続ける。

「寺野お前さ、紺野先生のこと心配してんのはもちろん、それよりわりと結構、怒りたいんだろ」

「……怒る? あのフード野郎や先生を傷つけた人間に対するものと同じ感情を、先生に対しても抱いてるってこと?」

「いや。あー。代死人てさ、感情のままに怒鳴ったり泣いたりしないのか?」

「基本的にはないかな。仕事に関わるなら()()()()()()。それ以外じゃ敵意や過度な怒りを持つことは許されていない」

「そーいうんじゃなくてさ。もっと子供みたいな……うーん、めんどくさいな。紺野先生のこと好きだよな?」

「好きだよ。え? はあ、うん。とても好きだよ」

 寺野は自分の即答に一瞬顔をしかめたが、嘘ではないことを自認して素直に頷いた。今は好きか嫌いかの判断が欲しかったから深くは突っ込まない。

「じゃあさ、その紺野先生が、誰かに刺されて死んだらどう思う。殴られてもいいし、落とされてもいいけど」

「先生はタフネス・ガイだぜ。滝に落ちても無事だったんだ。それに後藤もこの前言ってただろ、“完璧超人”って」

「でも人間だ。一度で死ぬ。……お前と違って」


 寺野は何かを言おうとした。

 唇が開いて形をとろうとしたが、けれどもぴたりと止まる。それだけでなく視線が俺を通り過ぎ、矢道の方へ向けられた。

 不審に思い振り返る。


 矢道には赤茶けたローブを纏った男が立っていた。

 

 俺が行動を起こすよりも、寺野が俺の前に出て男を睨みつける方が早かった。飲まずじまいだった茶が零れ、盛大に彼の手や膝にかかっていたが、彼は熱さなど感じておらずその背は俺に動くなと言っている。従うほかない。紙コップと水筒のコップが転がる床の上、咄嗟に弽に伸ばしていた手を止め、寺野の後ろから黙って男を観察する。


 俺たち二人に睨まれた矢道に立つあの男は、山で出会したときと変わらず気配がなく、そしてやたら陽気な声を白い喉から発した。

「そんな警戒しやんくてもええやん。おもろい話しとったから、邪魔しやんようにしとったのに」

「お気遣いが空回ってる。本当に邪魔したくないのなら、存在を消すべきだったね」と返した寺野の声も、普段と何ら変わらない。「まさか堂々と学校に姿を現すとは。何の用?」

「弟と違って、意識のない子を攫う卑怯な真似はしやんよ」

「話が通じそうで通じないのが一番厄介なんだ。これなら、言葉もなく襲われる方が対処のしようがある。あなたの弟の方がね」

「やから捕まったんやろ、あいつ雑なとこあるから」

「あなたは違うって?」

「もちろん。前も言ったけど、僕は代死人に興味ない」

「じゃあなぜこの場に?」

「弓道部やったんやね」

 フードの暗がりが俺に向いているのが分かった。目の前にある寺野の肩がぴくりと強張る。

「果物ナイフなんかじゃ足りやんわけだ。それにやっぱり、その代死人と知り合いやった。いいね、きみも興味深いな」

「口を利くなよ後藤。きみがあの変態と言葉を交わしても益はない。甚だ不愉快な気持ちになるだけだ」

「きみと後藤くんが喋るのは有益だって?」

「友だちだからな」これには俺が答える方が早かった。「寺野とのお喋りは楽しい。そんだけで価値ある。邪魔しないでもらっていいすか」

 寺野が黙り込み(おそらく下唇を噛んでいるに違いなかった)対してフードの男は口だけで歯が見えるほどに笑った。森の影の隙間とか廃屋の床下に唇があるなら、あんな感じかもしれない。不気味の具現化。あれが人間なんだから余計に気持ち悪い。

「いいなあ。でも、順番だ。残念ながら。用があるのは人造人間の方」

「僕に興味ないんじゃなかった?」

「仕事には必要なんだ。一緒に来てくれる?」

「行ったらどうなる? こんな急な誘い、あなたに着いてくメリットはちゃんとあるのか?」

「もう一人の友だちに会えるよ」

「なに?」寺野はまた少しの間黙った。表情は見えない。それからおもむろに立ち上がると「……横田ちゃんに何かしたの?」と平坦な声で訊ねた。

 俺はもう一度、床に転がる弽とついでに弓立てに視線をやった。だめだ。弽はつけれたとしても、弓を取るまでに数歩はいる。矢立箱に至っては入口のそばだ、今の状況では距離がありすぎる。走らせた視界に何かが過った。目を戻すと、寺野が後ろ手に指を軽く振っているところだった。“何もするな”か“心配ない”か。どっちもか。お前の心臓、いま変な音鳴らしてたりすんの? 申し訳ないけどさ。敵意とか怒気とか、お前みたいに制御しきれるほど人間できてないんだよな。

「それを知るために、僕ン家においでよ。この前は近くまで来たよね? 滝のもっと奥に館があってさ。古いけど、いいとこやに」

「分かった。連れてってよ」

「よせ寺野、罠だろ」

「罠にかかっても死なないのが僕だからな。言ったろ? 適任だって」

 いつぞや横田さんと交わした会話のことを言っているのだろう。寺野以外に囮として最適な人物はいない。“囮になって襲われるの待って、そんで紺野先生の助けを待つだけ”

 確かに、このまま寺野が攫われれば横田さんがいてもいなくてもローブ男のねぐらごとどうにかできてしまうのかもしれない。今の今まで行動を起こせていない警察なんかよりはよっぽど。けど、そんなに上手くいくのか? 俺たちはこいつの狙いを分かってなさすぎるのに。

 寺野を行かせることは反対だ。

 でも現状、どうしようもない。この弓道場内で誰かの血が流れるのを、寺野は望んでいない。なぜなら十中八九、下手に動けばその誰かが俺になってしまうからだ。

 

 男はナイフを持っている。

 実際には持っていない。鞄や荷物を持っていて、その中に隠しているわけでもない。

 しかしいつでもナイフを取り出し、人を傷つけることができる。


 でなければ山にいくつもの動物の変死体は落ちていないし、横田さんの頬に傷はついていない。

 相手は数式瓦解者だ。倫理の枠に閉じ込めていられなかった、頭の良いイカレ犯罪者。たぶん、指先ひとつで俺の首を崩すことができる。

 人間の死を代わりに受ける寺野にとったら、一番避けたい事態だ。そしておそらく、友人としても。

「……分かった。攫えよ。紺野先生とすぐ助けに行く」

 言うと、男が笑って腕を広げた。

「あは。僕のこと人攫いか何かやと思っとる? 招待しとるだけやのに」腕の中には砂が流れていた。さらさらと落ちる砂の中へ、寺野に来るよう呼びかける。「さ、御友人の許可も得たことだし、遊びにおいでよ、代死人の寺野くん」

 

 寺野は俺にいつもの笑みで応えると、靴下のまま矢道へ下り、男の腕へと近づいた。

 ありすぎる身長差は寺野の体なんかあっという間に覆い隠し、そして、何もかもを砂にして消えてしまう。目を細めても、あるのは二番の的に刺さった四本の矢のみだった。


 跡形もなく消えた二人を見つけようとするのは早々に切り上げ、背を向けて正座する。今度こそ弽を手に取った。

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