調達
頬の傷跡も目立たなくなってきた。
処方してもらった塗り薬も、そろそろ貰いに行かなくて済みそうだ。
あの公園での事件からしばらく。
季節はすっかり秋めいて制服もカーディガンが手放せない時期になってきていた。朝晩は冷え込み、真昼の太陽だけがやけに暑くて、そしてその気温差とともに寺野くんの仕事が増えている。
ニュースでもよくやっているし、学校便りでもこの時期は特に注意喚起されている。『季節の変わり目は自律神経が乱れがちです、手遅れになる前にお近くの専門機関への受診をご検討ください。もしくは、より近くにいる代死人、代殺人を頼りましょうーー』
この間、繁忙期だね、と学校便りを読みながら後ろの席にいる寺野くんに話しかけたら、私が回したプリントを早速折り紙にしてつまらなそうに遊んでいた寺野くんは「まあね」と口端をあげて頷いていた。「まあでも、バーゲンセールみたいなもん。普段よりは、いいよ。みんな死にたいと薄ら思ってて、僕はそれをまとめて持ち帰ればいいだけだから」「……ひょっとしていま、結構死にたい?」学校では定期的に全校集会が行われている。少し前にもそれがあって、それは健康診断とかカウンセリングみたいなもので、まあ、簡単に言えば生徒一人一人を紺野先生と寺野くんが診察すると言うものだ。心が弱っているか何かしらの問題があったら、寺野くんの出番。この時期は、やっぱり結構寺野くんの出番が多かったんじゃないかと思う。(曖昧な表現なのは、診察してもらってもいつも『心身共に健康』の判が押されるからである。よかった。寺野くんとは楽しい友達でいたい)
「いいや」寺野くんは首を横に振って言った。「こんな大安売りじゃあ、身にもならない。自殺衝動にまでは陥らない、大体のひとは抱きしめるだけで済むし」
仕事内容について深く訊こうとは思わなかった。気にはなるけど、それはあんまり重要じゃない。だから代わりにもっと気になることを訊いてみた。
「寺野くんてさ、ハグとかキスとか、したことあるの?」
「しょっちゅうあるぜ。まさか、ええと、知らなかった?」
「ううん違うよ。仕事でのことじゃなくて……」ここまで言って、はたと気づく。「ごめん。セクハラだった? 嫌な気持ちになるんだったら、別の話にする」
寺野くんは不器用なのか、しわくちゃになったほぼ萎んだトマトみたいな折り紙をする手を止めて、私の目を見つめてきた。元から上がっていた口角が、徐々に角度をあげていく。白い歯が見えた。尖ったところのない、綺麗な歯並びだ。目元もニンマリ細くして、至極嬉しそうに言う。「僕が人間だったら、きみの手を握って脈を測らせて、そして脈拍と同じ温度のハグをするんだろう。たぶんね。これってセクハラになる?」
ならないわ。私は素直にそう答えた。寺野くんは益々嬉しそうにして、折り紙に再挑戦していた。
日が経てば経つほど、このときの寺野くんの発言が頭の中で大きくなってくる。
寺野くんが人間だったら?
……人造人間て、人間にはなれないのかな。
だって人間が人間じゃなくなるのは、あっという間で、きっと簡単なのに。
「やあ、横田キヨ子ちゃん。覚えとる? 僕のこと」
その簡単なことをやってのけそうな男の声がしたのは、家の中でだった。
悲鳴はやっぱり出せなかった。ただ息を呑んで布団から跳ね起きようとして、失敗した。触っていた携帯が手から滑って落ちる。
目の前にフードを目深に被った顔があった。
硬直する。指先のすぐそこにある携帯すら取れない。一体いつから? どうやって? どうして私の部屋にいるの?
夕暮れの公園で見たあの恐ろしい男が、いま、突然目の前にいる状況に、理解を求めてはいけない。本能で察する。ーーただ逃げなきゃ。
男は畳に跪き、起き上がれないでいる私の顔のそばに手をついた。布団が体重を受けて、男の手の形に大きく沈んだ。
「こんばんは。準備に手間取ってさ。もっと早くきみを訪ねるつもりやったんやけど……」
「た、……訪ねられてなんかない。玄関から、入ってきてもいないのに」
「あは」
犬歯が見えた。
口許だけで笑った男はもう片方の手を伸ばして私の顔を触った。頬の傷跡を、爪先で引っ掻く。
「きみは恐怖を感じても気丈やね。一種の防衛本能かな? 派手に抵抗しやんようにして、相手がエスカレートしやんよう振る舞っとる。ちゃう?」
「……」
「慣れとるようにも見える。嵐が過ぎ去るのを知っとるみたいにさ」フードの奥の暗闇が私を見つめている。「きみの兄貴は嵐を吹き飛ばしてくれた? 逆かな。兄貴が嵐を連れてきた?」
体が勝手に動いてくれたら。
こんなひと、殴り飛ばしているのに。
私にはそれができないと言う実感に、ようやく泣きそうになって目に涙を溜めた。喉が震える。「私たちの何を知ってるんですか」
「全部」
男は事もなげに言った。
「モデルのことは全部知り尽くして描きたい。それが僕のこだわり。さあ、ついてきてくれる? キヨ子ちゃん。嵐が来る前に。きみも全部を吹き飛ばされたくはないやろ?」
「い、いやだ。大声を、あげます」
「上げてもいいけど」
顔が近づいてくる。頬に触れていた手を離し、次に私の前に掲げた時にはクレヨンが握られていた。使いかけの、赤いクレヨン。
「きみの小さな弟はぐっすり眠っとる。絵も見たけど、あれは将来有望だね。僕が言うんやから、間違いない。起こしてもいいの? せっかく明日は休みなのに。ゆっくりお絵描きしたいんちゃう?」
クレヨンの先を、私の頬にあてがう。ちょうど傷跡をなぞって、ぐりぐりと押しつけられた。「かわいいね。初対面の時みたいに、怪我させたりはしやんよ。僕だってお宅に配慮くらいは持っとるつもりやし、こんな夜中に騒ぎたくはない。どうする? 声を上げるのはきみの自由やに」
表面張力を超えた涙が溢れてこめかみに伝い、耳の穴に落ちてきた。くぐもった声が「泣かんといてや、まだ早いよ」と慰める調子で言ってくる。
怖い。
気持ちが悪い。
それ以上に、弟や兄にこんな目に遭ってほしくない。
そう考えると、すぐだった。昔からそうだ。覚悟さえ決まれば、ほかのことはどうだっていい。
「家族には、何もしないでください」
「いいよ。きみが来てくれるなら」
「おやすみの挨拶だけは、させて。そうしたら、どこへでも行きますから……」
「いいよ」
男が体の上から退く。
私は一度だけ深く息を吐いて、携帯を手に取った。真上から男の見えない視線が注がれている。メッセージアプリを立ち上げて、横田家3兄弟のグループに『たぶん明日はお昼まで寝てると思う』とだけ送る。良ちゃんは寝てるから、既読はつかないとして、創一さんは最近ずっと私の学校へのお迎えのために仕事を持ち帰っているから、今もリビングでパソコンに齧りついているはずだ。数秒して既読がつく。『了解。起こさないようにするけど、ドタついたらごめん』履歴には似たようなメッセージばかり残っている。横田家のルールのようなものだった。お互いのプライバシーや安全な睡眠を脅かさないように、報連相を大事に。明日、創一さんはいつも通り朝から仕事だ。寝起きの悪い兄は物静かに起きられないだろう。『お仕事頑張って。良ちゃんは、冷蔵庫の残りのご飯、朝に食べてね』スタンプも送ろうとして、真上から「あ」と声が落ちてきて指が止まる。
恐る恐る見上げると、フードの暗がりがこっちを見下ろしていた。
「そのスタンプ、きみらの好きな映画のやつやんな? へェ、ちゃんと映画通りの異界語で作られとる。これは『おはよう』これは『ありがとう』これは『お疲れ』それから、あは、『助けて』」
きみはどれを送るの? と動いた口の動きにすら、背筋に震えを走らせる。
唇を噛み締め、相手を真っ直ぐ見上げてから言った。
「……寝る前の挨拶なんて、ひとつしかないです」
スタンプを迷わず送る。『おやすみ』そして携帯の画面を閉じた。
男はまた口許だけで笑い「じゃあ行こう」と布団のそばに垂れ下がっている無精紐を握って部屋の電気を落とした。