準備期間
「この三連休は兄と弟と家で映画三昧でしたよ、朝にも寺野くんとお話してたんですけど、私なんかより寺野くんと紺野先生の方がよっぽど心配されちゃいますって」
と眉をさげて見上げてくる横田キヨ子という学生はどう見たって兄である森岡創一とは似ても似つかない控えめさで「お茶いただきます」と麦茶の入った紙コップを手に取った。
保健室の外は既に日が暮れ、グラウンドで活動している野球部と陸上部の活発な音だけを届けている。横田ちゃんが保健室にやってくる前に手当した陸上部部員のカルテをしまい、ついでにデスクの片づけをしながら、「あいつ何て言ってた? 山でのこと」と問うと彼女は軽く咳払いをし、喉を整える素振りをした。それから一オクターブ低く言う。
「“この世で最も最強な男を挙げろと言われたら僕は間違いなく紺野先生の名を挙げるね。水に弱そうなのも、結局のところ猫みたいでチャーミングに映ってしまう。ええと、人間の目からしたら、たぶんだけれど、そうなんだろう”」
「やめてくれ、恥ずかしい」
「“あのひとの欠点を挙げろと言われたら、それももうただひとつ。この僕! 代死人の管理者をしていることだけが、大きなデメリットだ”……」ンン、咳払いし、横田ちゃんは声をもとに戻した。「私は、そうは思わないんですけど」
「いや、いいよ。周りやあいつがどう思おうと、」それは俺には関係ない、という言い方は何かマイナスな誤解を与えかねないと思い、言葉を変える。「きみがあいつのこと友達だと思ってるんなら、それだけが一番大事だから」
「でもほかにも大事なことがありますよ」
「ほかにも?」
「困っている友だちは、なるべく助けてあげたい、とか」
「……寺野が困ってるって?」
「たぶん。寺野くん、最近なんだか……」
彼女は紙コップから離した手を、自分の頬へと当てる。指先が擦った頬に、もうガーゼはないが、皮膚が裂けた痕が薄い桃色として残っている。それを見ていると火種が燻るような感覚に陥る。子どもを傷つけた罪は重く、到底許せるものではない。あの野郎の腹に穴を空けたのも山でなければ立派な犯罪だが、そうだと理解している上でも理解なんてものは感情の前ではゴミに等しく、未だ腹の虫が治まらなかった。
「私が怪我させられたのも、紺野先生が山で……自分から危険に突っ込んで行くのとかも、結構、不安だと思うんですよ」
「あいつが?」
「はい。たぶん。そんな感じがして。困ってるんだと思います」
山でのことや、ここ最近の寺野の様子を思い返す。“困っている”あいつの時たま見せる妙な笑顔をそう表現するのは、的確だと思う。
誰かの代わりに自殺することが存在意義のあいつにとっちゃ、周りで自殺を伴わないいざこざを起こされるのは困る以外ないんだろう。どうにかしたいと思っているのなら、なおさらだ。
そういう時のために、管理者がいるんじゃないのか?
「……だから今日はちゃんとお迎えを待ってるんだな。ひとりで保健室来たときは何事かと思ったけど」
「いやー、へへ。寺野くんももちろん困らせたくないし、あと、やっぱりお兄ちゃんが……」
「心配性?」
「うーん。何かあったときに、一番無理しちゃうのがお兄ちゃんだと思ったら、大人しくしていた方がいいかと思って」
「きみの方が心配してるし、しっかりしてるわけだ」
「えへへ」彼女は照れを隠すように短い前髪から覗く額を手で擦った。「紺野先生と寺野くんも、お互いをすごく心配しているんでしょ。だったら、あんまり、危ないことは……」そこまで言って、遠慮がちに口を閉ざす。代死人とその管理者が何のために山まで危ないことをしに行ったのか、その目的やローブ男に襲われたことはおそらく寺野も話していないだろうが、説明されずともこの子は大方察していて、そしていま俺に気を遣わせてしまっている。
デスク上の元インスタントコーヒーの瓶を手繰り寄せ、それを差し出しながら俺は言った。
「生徒をあらゆる危険から守るのが教師の仕事だからな。横田ちゃんが気に病むことは何もないよ。きみの心配も大事にしたいし、寺野のことは俺が守るから、安心していい」
横田ちゃんは瓶と俺の顔を交互に見てから、またいただきますと言って瓶の中からひとつ飴玉を手に取った。俺はそこから三つ四つ摘まんで、追加で彼女の手のひらに落としてやる。落としそうになったのを慌てて阻止した横田ちゃんは、ありがとうございますと笑みを見せた。
「寺野くんが最強だって言う紺野先生がそばにいるんだから、やっぱり心配なんていらないのかも」
「それはね。ほんとーに買い被りすぎだと思うよ……」
横田ちゃんの後ろにある壁掛け時計を見る。寺野が出て行ってから、一時間は経とうとしていた。
連休明けの人間は自殺願望が高くなる傾向がある。仕事用の端末にまだ彼が目覚めたというアラームは鳴らない。
本当に。
どの口が守るだなんて言ってんだか。




