これが山だよ寺野くん 下
大浴場から出ると濡れた衣服が乾くまでは、と浴衣だけでなく空いた和室まで与えられたもんだから、いよいよ婆さまの息子に対しての不審が大きくなってくる。
とは言え僕は出された和食を頬張りながら「丁寧に下拵えされてるみたいだよね」と随分むかしに読んだ有名なお話をなぞらえて言った。「犬を呼んでこないと。化け猫に美味しく食べられちゃうかも」
普段床に座らない生活をしているくせに、机を挟んだ真正面に難なく正座している先生は、僕と同じく遠慮なしに食事しながら「どう料理しても美味しくなさそうだけどな、お前」と本気か冗談か分からない返しをした。もぐり、僕は味の染みている煮物を噛んで飲み込んだ。おいしい。
「それを何とか美味しく調理するのが、先生の手腕じゃないか」
「食われたいのか?」
「まだ食べられて死んだことはないからね、どんなもんか気になる。もしかしたら再生不可能になって待ちわびた天使様の腕に抱かれちゃうかも。ああ、でも、そうか。捕食者の血肉になって生き続けるとしたら地獄だな。その場合の僕の意識ってあるのかな?」
「やめろ。飯が不味くなる」
口ではそう言ったものの先生はもう少しで完食しそうだった。
「ごちそうさま」
健啖家にして一口が大きいにしろ、先生にしては早くに手を合わせてそうやって食事を終えると、綺麗に空になった器を隅に寄せて、まだもぐもぐ食べ続けている僕をじと見つめてきた。もぐもぐ、もぐ。なんの視線だろう? 瞬きせず見つめ返す。食事を急かすタイプではないので、早く食い終われという無言の訴えではあるまい。もぐり、もぐ。ごくん。……ということは逆か? 僕は迷い箸をしたあと、しいたけを箸で摘まんで先生の口許まで持っていった。先生はちょっと訝し気な顔をし、しいたけを食べた。咀嚼。嚥下。
「お前しいたけ嫌いだっけ?」
「ううん。なんだ、違うのか」
「何が」
「足りないのかと思った。高野豆腐は譲れないから、しいたけならいいかと思ってあげたんだけど」
「阿保。お前の分だろ、ほいほいやるな」
理不尽では? 「じゃあいまの視線は何を言ってたの?」
「何か言ってそうだったか?」
「間違いなくね。けど、分からないな。日本語に翻訳してよ」
「“お前が怯えるほどだ、警戒しよう”」
僕は盛大に顔をしかめて見せた。
先生はたとえ食事中でも仕事熱心だ。仕事道具である僕の様子を逐一観察し、少しの異常も見逃すまいとしている。その先生の頭を占めている急上昇トピックはやはり旅館息子に対する僕の態度だろう。
僕もこの説明しようのない居心地の悪さを晴らしたい気持ちはあるが、本音を言うとあのフード男について話し合いたい欲の方が強い。あの男のためにわざわざこの山まで来たのに、こんなわけの分からない比較的どうでもいい問題に直面しているわけにはいかない。いちばん大事な問題以外は脇に置いておくべきだ。
「目を逸らしていいことだよ、それは。ついでに足も崩していい。僕が食べ終わるまでゆっくりしてさ、食べ終わったらすぐ出ていこう。そしたら不快不明瞭不気味な旅館のおっさんとはおさらばだ」代わりに本命の暴悪で暴虐な暴漢との問題が待っているわけだが。うん。暴漢だと分かっている上でマシだと思えてくるあたり、やっぱり僕はよほどここの何かに怯えているらしい。少なくとも、フード男は実体があった。ほとんど人間をやめているように見えたけど、あの暴漢の心臓は人間のものだった。「いくら警戒したって、今日はもう、先生の足技が火を噴くことはないよ。きっとね」
そう言って食事を再開した僕に、先生はだといーけど、とあまり信じていなさそうに言って足を崩した。特殊なギミックが施された靴は服と一緒に預かってもらっている。乾くまではなどと悠長なことはせず、まあ、濡れたまま帰って家でもう一回温まった方がいいだろう。僕は噛むスピードを少しだけ上げた。
食事を終え冷たいお茶を飲み、一息ついたところでさっさと落ち着けていた腰をあげる。
素足に竹スリッパを引っかけて部屋の外へ出ると、先に出た先生に腕で止まれと示された。何だと先生の向こうを見ると、あの息子がいる。廊下の奥で、どう見たってこっちを待っていた体勢だったのに、ふいと顔を背けて角を曲がって行ってしまう。僕はうげ、と口を曲げた。
「屋根からぶら下がる泥水みたいなおっさんだぜ。いまの見た?」
「寺野」
僕は口の悪さを咎められたと思ってすぐに反省しようとしたが、先生がおっさんの消えていった奥をじっと見つめながら「あのひとは人間か?」と訊いてきたので謝辞は出なかった。「人間だよ」何を突然、と反射的に答えてから、ゾッとする。本当に?
「いや……人間だよ」僕は曖昧になりながらも言い直した。「心臓は動いてる。脳もある。視神経も感じる。人造人間の波動は出てない。人間だよ。あのフード野郎よりは、……」じゃあどうして、この僕が、こんなに、戸惑っているんだ。「……まずい。あんまり自信なくなってきた」
「そうか」
「そうかってなに。先生どうしてそんなに余裕なのさ」
「気分がいい」先生は言ってから、伝わらないと思ったのか言葉を足した。「お前が分かりやすく狼狽えているのが、わりとな。だから余裕でいられる」
「待って。もしかしてぼく、被虐されてる?」
「なんで? 俺の庇護欲が正常に機能してるって話だろ」
「エッ」言語機能にバグが生じたのかもしれない、一瞬考えてみた。すぐさま首を振る。「いや、そんな話してないと思う」
「なんでもいいよ」先生は面倒になったのか話を締めにかかった。「何か起こっても大抵のことは俺が何とかしてやる。お前はそーやって弱気になってろ」
僕はまた何だかおかしな感覚に陥った。
刺したり溺れたりしたらすぐ死んでしまう先生が、一体何をどうしようっていうんだろう、もしかしたらそんな高慢ちきな感覚なのかもしれない。でも、まただ。あれだ。たぶん横田ちゃん曰くの“ウワーッ”だ。……心臓を口から出せたらどんなにいいだろう? 鼓動の音や脈の動きで感情を理解してもらえたらどれほど楽なんだろう。僕には一生分からない。
でもその分からない感覚を、先生は『弱気』と称したんだから、僕はいまおそらく先生にとって圧倒的に弱者という立ち位置にいるに違いない。先生は僕を守りたいと思っていて、そしてそれは代死とは全く別の何かからなのだ。代死以外のことは、僕は門外漢なのだから。大人しく管理者の指示に従っとけばいい。
「わかった」
大人しく頷き、「服貰ってくるから待ってろ」の台詞にも頷こうとして動きを止める。なんだって? 「僕をひとりにするのか? 守るつもりならそばにおいておけよ。約束もしただろ。やっぱり加虐趣味?」
「あのな」先生は半ば笑いながら振り返った。「子どもみたいなこと言うな。いや、いーけど。そうじゃなくて。あのおっさん、気持ち悪いだろ。あんまり近づかせたくないんだって。分かれよ」
「ふーん。まあ。そう。分かってあげるけどさ」
「部屋ン中で大人しく待ってろ。いいな?」
「……いいよ」
先生は僕の頭を犬相手みたいにわしわし掻き混ぜると、すぐ戻ると言って旅館息子の後を追って行ってしまった。取り残された僕は乱れた髪をそのままに和室に戻って、襖をぴたりと閉じる。空の器が行儀良く並ぶテーブルの前まで歩き、座布団に座り直した。
言われたからには、お茶でも飲んで大人しく待っていようとグラスに新しく冷たいお茶を注ぐ。
ごく、ごく。
お茶を飲み上下する喉仏を、不意に後ろから誰かに触られた。
ごくん。
ナメクジでも這ったような感触だ、僕はお茶を吐きはしなかったものの、癖ですぐさま痛覚を切って心臓に集中した。ああ、後ろにいるひとは死にたがりではない。殺したがりでもないし。僕の鼓動は至って正常、何の狂いもない。そしてとんでもないことに気づいてしまった。後ろにいるのは、人間じゃあない。
グラスを持つ手が自分の手じゃないみたいだ。
僕はお茶の残ったグラスを置こうとして、見事に失敗した。ガタン。倒れたグラスと身動ぎたかった足がテーブルにぶつかって音を立てる。
きゅ。膝に零れたお茶より冷たい何かが、首を絞める真似をする。これは、人間の指だ。もう何度も体験して知っている。けれどそれならどうして、血潮の熱さを感じないんだろう。背後にのしかかられるまで気配を感じなかったんだろう。──心臓がないからだ。
それは僕にとって大いに恐ろしい問題だった。
暗闇に手を突っ込んだどころか、全身が真っ暗な穴蔵に落っこちていくよう。
「なるほどね」──だから怯えていたんだ。
人造人間は、人間がいないと成立しない。
自分の根源を揺るがす存在が、真後ろにいる。
適切な対応がわからず、かと言って飄々と立ち上がるには僕の足は軟弱すぎた。
喉を這い上がった指が、口の中に入ってくる。そのまま後ろに引き倒され、畳に後頭部を打ちつけた。痛みは遮断していたが、脳が揺れた。その揺れた脳を直接かき混ぜようとするみたいに、口の中の指が上顎を擦ってきた。「おえっ」食べたもん全部出そう。
「出せ」
と言って僕を引き倒し口内を弄っている無法者の顔はあの旅館息子と同じだったが、声は一度沼にでも落としたような濁った発声だった。あのおっさんではない。あのひとはちゃんと人間だった。疑ってしまったのは、こいつがいたからに違いない。……何を言われた? 出せ? 言葉の意味を理解するのに遅れ、げろを? と理解したころには指先が喉まで入っており何も言えなかった。見上げた顔をただ睨みつけるしかない。出せと言われたら出せないこともないが、仰向けでげろを吐くのはただ苦しいだけなのでできることならやりたくない。というかどうするんだ、ゲロなんか出させて。生憎と僕は人の生死に関わらないそういう変態趣味に付き合える寛容さを持って造られていない。
「貴様は人間じゃないな」
蛙みたいな目玉をしてそんなこと言うなよ。いいや、偏見か。反論を変えよう。心臓がない者の言う台詞じゃないぜ。繋がらない視線だけでそう訴える間に指が喉奥まで入ってくる。いよいよ吐き気がして指を噛み締める。白目の汚れた目玉がぐんと近づき、鼻に生臭い吐息が降りてきた。
「なぜ貴様のような者がここにいる? 人でもなし、機械でもなし。我らとは比べものにもならん醜き半端者めが。我が領域を侵すとは甚だ遺憾だ。なりそこないが、奪ったものを返せ」
奪ったもの? そこで僕はピンときて、海に落ちた水滴を探す作業を始めて一瞬で終えた。落ちたばかりだったから、波紋がまだ広がっていたのだ。あのばあさまだ。老女の自殺願望を吸い取ったことを言っているのだ。それを、返せだって? もしこの国に蔓延る宗教マニアや信者たちが崇める神という存在が全て実在して、僕の目の前にいるこいつが僕が普段心から望んでいる死者を等しく迎え入れてくれる神様と同等の生き物だとしても、それを許されていない僕にとっては余計惨めな気分にさせるだけだった。つまり、返せない。代死人の存在意義は代わりに自殺することなのだから、たとえ神相手でも邪魔をさせてはならないんだ。
悔しさで歯を食いしばる。ついでに口内の指を噛みちぎらんばかりに力を込めた。相手が人間じゃないのなら、職務妨害への対応として多少の攻撃性は許可されている。ああ、けれどもどうしてこんなに残念なんだろう。人外にすら認められない僕は、きっとこの先天使様の腕に抱かれることもないのだと確定じみた現実を突きつけられたからか。そうなったら本当に、僕の受け入れ先は一体どこにあるって言うんだろう?
「さっさと出せ。不愉快だ。それとも引き摺り出してやろうか」
男の口がぱかりと開き、そこから長細い舌が伸びて僕の口元まで垂れ下がった。
僕は目を見開いた。
異様な姿に迫られたからではない。男の真後ろに人影が立ったからだ。
来てくれるだろうと確信してはいたが、あまりに静かに僕たちを見下ろしているから驚いた。
背後に立ったのはもちろん先生だ。男の首根を掴むと、力のままに引き剥がし、そしてぞんざいにぶっ飛ばした。
人間じゃないにしろ、成人男性の体格を模した生き物が襖を倒しながら廊下に転がる。
先生は浴衣の肌けた腕をぐるぐると回し、「不愉快なのはそっちだろうが」と低く吐き捨てた。
僕は呼吸のしやすくなった喉で酸素を取り込みながら、先生の後ろ姿をひたすら見上げる。
肩で息をしているし、スリッパは履いたままで、よほど急いで来てくれたのが分かる。振り返り、跪くと、僕の背に手をあてがった。
「おっさん追いかけて問い詰めたらこれだ。悪いな寺野、やっぱり一人にするべきじゃなかった。平気か? 怪我は?」
僕が答える前に、廊下で這いつくばって痙攣している生き物ーーそれはもう人間の形をしていなかった。服を着た大きな蛙のようだーーのそばに駆け寄ってきた、正真正銘人間であるあの旅館息子が先生に向かって悲鳴を上げた。
「何てことを! ア、アンタ自分が何をしたのか分かってるのか!?」
「こっちの台詞だろ。ひとの連れに何してんだ」
「つ、連れっ? それは代死人だろう! 私たちはそんなモノ認めていない!!」
「そうか。いいだろ、別に。俺のなんだから」
先生は真摯な眼差しで言った。
「俺が管理して、俺が所持しているんだ。アンタ方が認めていようがいまいが関係ない。山のルールに触れたと言うなら申し訳ないが、ここは治外法権だよな? ならひとのモンに勝手に手出されたのはこっちも同じだ、仕方ない、暴力で解決しましょう」
旅館息子は顔を真っ赤にして絶句した。それから、出ていけ! と喚き始める。先生はそれを無視して僕を労る手つきで起き上がらせ、もう一度「平気か?」と訊ねてきた。
「へ、」いき、と答えようとした。少し考え、答えを変えた。「心臓がドキドキするかも」
先生は面食らった顔をしたあと、眉根を寄せた。「そんなに殺意出てたか? 気をつけてたんだけどな」ボソリと言う。
僕が面食らう番だった。本当は心臓は一度も跳ねあがってなんかいない。
少女漫画は僕だけじゃなく僕らには遠すぎるみたいだ。そしてホラー展開になるには、きっと先生がタフすぎる。




