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代死人の寺野くん  作者: 年越し蕎麦
season1
35/62

数式瓦解者 七

 まさか本当に川に落ちるだなんて思ってもみないだろ!


 証言通りの格好をした男に先生が突き飛ばされ橋から落ちるのを目にした瞬間、僕は盛大にそうやって叫び出したい気持ちに駆られたがまず冷静にそばで眠る老婆の様子を確認し、その心臓が穏やかに生きようとしているのを正確に判断してから川に飛び込んだ。

 先生が落ちた音が鳴ってから数秒後のことだった。

 剥き出しの岩肌を滑る滝は白く、幅はそこまで大きくないものの、先生が落ちた滝壺は広く、そして上から見ても深かった。僕が飛び込んだ川は腰までの深さだったが流れはそこまで速くなく、何とか前に進むことができた。そうしながら、橋の上を見る。フードの中から路傍の暗がりのような顔がこっちを見下ろし、またね、と血に濡れた唇を動かした。全身砂になって消えていく。僕はそいつが冷たい風に舞う前に中指を立てて掲げてやった。

 足が滑る。

 海と比べ、川は深いところと浅いところが極端に分かれていると何かで聞いたことがある。滑ったと思ったら一気に肩あたりまで水深が増した。

「先生!」

 声を上げても返って来るのは激しい水音だけだ。流されて来てはいない。川の水は透明度が高く、そうでなくともこの速度なら長身の人間が流されて来たら絶対気づくはずなんだ。

 理解している滝壺の構造が焦りを渦巻かせる。

 僕は死にたい輩を生き永らえさせる人造人間であり人命救助ロボットじゃない、この状況でできることはひとつだけだった。管理人に緊急事態が発生した場合のみ使うことが許される救難信号がある。それに頼るしかない。

 信号を発するミクロレベルの装置が埋め込まれている左耳に手をやろうとして、それでも足だけは勝手に動いて先生を探そうとしていて、そうして全く馬鹿々々しいことに見事に深場に落ちた。頭まで沈む。息ができなくなる。流れていく水とは違い下に引きずり込んでくる水力に咄嗟に抵抗しかけたが暴れるのをやめる。

 まずい。だめだ。

 このまま死んでもいい。

 先ほど婆さまから吸い取った自殺願望がじくじくと心臓をときめかせている。

 違う違うそうじゃない。

 でもそしたら、だってそうしたら。

 瞼をぎゅっと瞑って期待している心臓に黙ってろと念じる。そうしたら、僕は先生に置いていかれるんだぞ。


 僕はジュリエットみたいにはなれない。たとえ先生が死んじゃっても。


 再び耳に伸ばそうとした手を、しかし強い力で引っ張られた。

 ごぼ、と開いた口から空気が溢れる。


 口が開いたのは驚いたからで、ついでに同じく開いた目ももっと見開かせた。ぐん、掴まれた腕ごと体を引っ張り上げられ、水面から顔が出る。

「せ、」呼吸を数回失敗し、ひどく咳き込んだ。「せんせい」


 僕の体を抱えているのは紺野先生だった。


 先生は僕を片腕で抱いたまま「そのまま大人しい要救助者でいろ」とよく分からないことを言った。「暴れられると、二次災害になる」水に落ちた場合の浮かんで待てが最善であることを仄めかして来るが、いや待ってよ、一次被害者が何言ってるんだよ。

「せ、先生、泳げないんじゃなかったの」

「得意ではない」

「苦手なんだろ」

「足があんまり動かなくなるだけだ。あと、天地と左右が分からなくなるだけ」

「それ溺れるって言うんだぜ」

「お前だろ」

「違うよ僕は――」先生を助けようとして、……助けようとして? 僕は自殺志願者しか助けられない。いいや助けているつもりなんかない。むしろ逆だろ、死にたがっているのに無理やりに生かすなんて絶望だ。誰より身に染みて分かっている。「――先生が溺死するかもと思って、それで」

「飛び込んだのか。ありがとな」言いながら、先生はあんまり動かないらしい足を動かして川岸に向かう。「それに悪かった。お前に勝手な行動すんなって言っときながら、俺が勝手し過ぎた」顎下の水面が波打つたびに濡れた顔をしかめている。僕はその顔色を見て結構無理してるんじゃないのかと思った。血の気が失せている。

「先生、いいよ。泳ぐよ。離して」

「お前じゃ頭浸かるぞ」

「えっ先生いま足ついてるの」

「今のところは。滝のもっと近くはヤバいな。あれは死ぬ」

「ってことはここの水深は170ちょっとってとこか」あの婆さまなら簡単に死んでいただろう。いい死に場所だ。邪魔されにくくて。

 お前身長170もあったっけ、呟く先生に四捨五入したら170いくけどとこの状況でどうでもいい会話をするのはきっとお互いのためだった。けれど水に対する恐怖と死に対する期待を誤魔化すためのそれは少しで終わった。僕の浮いていた足が川底に着く。

 先生は僕の腕を掴んだまま近くの岩場まで行き、僕を先に川岸に上がらせる。続いて先生が上がるのを手伝い、長い脚が完全に水から出たのを見届けてその背中に手をやった。安否確認を口にしようとした。意識的に呼吸を深めようとしている全身ずぶ濡れの先生はどう見ても水が苦手だった。

 なのに先生は僕の肩を掴むと「平気か?」と訊いてきた。

「え?」

 先生の険しい視線を受け止めながら「あ、ああ」と遅れて言葉を理解し頷いてやる。肩を掴んでいる手首に指を添え、僕は言った。「脈拍、呼吸共にたまげてるだけで正常、特に死には面していない。頑強だぜ先生、あなたは平気だよ」

「は?」

 先生は思い切り眉根を寄せたあと「そうじゃない。馬鹿。違えわ」とまるで仕方がないやつでも見るように笑った。「お前だよ。あいつに何もされなかっただろうな」

「なに?」

「俺が落ちたあと。大丈夫だったか?」

 僕は今まさかとは思うけどそのまさか、もしかしなくとも、心配されているのか?

 ぐっと口を噤んだ。

 その瞬間、噤んでいなければ何かが口から出てきそうだった。内臓か? 超次元的な、たとえばB級映画に出てくるエイリアンとかに寄生された覚えはないので(そもそもそんな高次元な存在に接触された場合きちんとその記憶が残るかどうかは議論の余地あり)たぶん一番感覚的に近いのは内臓だと思ったのだけれど胸に手を当てるまでもなく内臓は正しい位置に正しく収まっている。この感覚、前にもあった。ショッピングモールのときだ。先生が僕を庇って怪我をしたとき。僕は先生を馬鹿だと思った。でもそれは心配しているってことで、横田ちゃん曰く不安と混じって「ウワーッ」ってなってるってことで、なら今の僕の口から出そうなものは「ウワーッ」ということになる。

「ウワーッ」

 僕は言った。

「何だか胸から血が溢れて来そうな感覚だ。どうしてあなたが僕の心配をできるのか、不思議でしょうがない。逆じゃないのか? なぜ?」

 先生は驚いた顔をした。

「なぜって」

 それからまたあの仕方がないやつでも見るような眼差しで「保護者だからな」と言う。

 それを聞いた僕はとうとう自分の胸に手をやって血が染み出てきていないか、内臓が骨と皮膚を突き破って出てきてやしないかを確認するも、当然、そんなバグは起こっていないのだった。謎だ。

もしかしたら何か改稿するかも。

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