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代死人の寺野くん  作者: 年越し蕎麦
season1
34/62

数式瓦解者 六

 器用に岩を伝いおりていった寺野は無事に老婆の座る岩場まで辿り着いた。

 彼女は寺野を見、寺野も彼女を見た。

 水の音で何も聞こえやしないが、代死人は穏やかに口を開き何やら話しかけ、そして隣に座ってか細く皺の目立つ手を両手で握った。俺からじゃ見えなかったが、徐々に白髪頭を懺悔するように俯けた老婆は泣いているふうだった。寺野は彼女の丸まった小さな背を撫で、手を握り、時折何かを囁いている。その触れ合った皮膚から遺伝子情報を読み取り神経を遡って相手の気持ちを深く落ち着かせている。死にたいと思わないように。

 ただの洗脳だとか根本的解決にはなっていないとか、倫理に反してるとか。

 年寄りが相手にもなってくると、むしろ虐待なんじゃないのかとか。

 

 そんなのはどうだって良かった。本当に死にたいのなら病院に行って正式な手続きを踏めばいいだけの話だ。俺は俺が酷く身勝手な人間だと知っている。ただ目の前で自殺する人間を見たくないだけだ。


 寺野が言っていた通り、経口吸収ではないため時間がかかるだろう。今日死ぬようなものでもないとも言っていた。

 二人の様子を橋の上から見守りながら、知らず息を吐く。それが安堵の息だと気がついて顔をしかめる。自殺をする人間を見たくない。でも、寺野は人間じゃない。何度も、何度も。あいつには死んでもらわなきゃ困るだろう。それが仕事なんだから。

 だが溺死だけは勘弁してくれと心のどこかが弱音を吐いているのも事実だった。だから余計に安堵している節がある。いま死なないのなら、溺死する可能性は限りなくゼロだ。


 冷えた空気を渋面に感じながら、老婆に体温を分け与えるように寄り添って座っている寺野を見る。穏やかな顔をしているが、内心では遠い死にじれったくなっているに違いなかった。あいつはそういうやつだ。誰より死を望んでいるのに誰からもそれを赦されていない。死を本当の幸いだと思っている。


 国語の授業で習った、と嬉々として言ってきたことがあった。

 むかしの文豪が書いた未完成の有名な童話、銀河鉄道の夜の話だ。

 人造人間もひとが書いた物語を理解し好き嫌いの感情が生まれるのか、と素直に驚いた記憶がある。寺野はそれから言った。“カムパネルラになりたい。それか、ロミオだ。間違ってもホームズにはなりたくない”そのときの寺野は時間があれば読書をしていた。普通に物語を面白がっているふうだったが、その言葉に俺はどこかズレを感じた。“なぜ?”“だってホームズになったら、蘇って来なきゃ駄目なんだろ。僕はロミオのように永遠の愛ってやつのために死にたいし、カムパネルラのように銀河鉄道に乗って石炭袋のひとつになってしまいたい。そしたらどんなに幸福だろう”“……ジョバンニやジュリエットの幸福は?”寺野は俺の問いに釣り目をきょとんとさせて答えた。“知らない。それは物語の外だもの”

 出会って間もないころの会話だった。

 いまも同じ受け答えをするんだろうか。

 記憶のなかの寺野といまの寺野は少し違う気がする。子供が成長するように、どこか人間らしく、感情の芽を大きく、それからいくつも枝分かれさせていっているような気がしていた。本人もその変化に戸惑い、たまに困惑しては言葉を詰まらせている様子がある。

 死んだときに起き上がって来さえしなければ、ただの人間だろう。寺野はそうなりたいともうずっと言っている。それがあいつにとっての、国語の授業で取り扱われるほど答えのない『本当の幸い』というやつなのだ。けど、だからって、


「……ひとを助けて川に沈むなんて真似は、止してくれよ」


 ほとんど声に出ていない呟きだったが、その呟きを拾った者がいた。


「カムパネルラみたいに?」


 たった今までの自分の思考を読んだかのような返事に反応が一瞬遅れる。

 岩場に座っている寺野は神経を集中させて老婆に寄り添い、こちらには気づいていない。もちろん寺野の声ではなく、そしてその返事はすぐそばから聞こえていた。俺はゆっくりと隣を振り向いた。赤茶けたフードつきのローブを纏った、背の高い男が立っている。

 いくら物思いにふけっていても、警戒は解いていなかった。いつの間にこんなに近くに?

 気配がなかった。


「本当にでかいな」  


 それが第一の感想だった。

 横田ちゃんの証言から180は超えているだろうことは知っていたが、あの子からすれば大抵のやつがでかく見えるんだろうなと高を括っていた。なるほど俺よりでかい。さぞ怖かっただろう、と怒りが瞬時に燃えたものの、燃えたそばから制御し冷静を努めた。いまここで怒ったり、争ったりするのはまずい。寺野の邪魔をしたくない。


「あんまり、驚かんのやな。僕のこと知っとるん?」

「ニュースになってるからな。フードを被った不審者がいるって」

「不審者って分かっとっても驚くもんやん、普通」

 男はこっちを向いて歯を見せて笑った。ちょうど、その白い歯が俺の目線の高さにあった。身長差は10センチ程、覗き込めばフードに隠れた顔が見れるだろう。見ようとは思わなかった。見える気がしなかった。街灯の射さない溝の底を覗き込もうとは誰も思わないのと一緒だ。

「ゾッとするな」

 水の音が俺たちの声を掻き消してくれていた。そうでなくとも、お互い、まるで眠る前の話しかけ方だった。この男もなぜか代死人の邪魔をしようとは思っていないのか至極穏やか、会話だけが不穏に塗れている。

「普通から逸脱したやつがそれを語るのか」

「逸脱したからこそ、元の枠組みを知っとる。もうそこには戻れやんけど」

 男の向いていた顔が橋の下へと移るのに焦りを覚えた。こいつは寺野を探していた。そして見つかった。こうもあっさりと、予兆もなく相手の領域に捕まったのだ。

「代死人の寺野くんやんな」

 白っぽい唇が断定の響きを持って言った。

「弟が蒐集しとったうちの一つ。そんできみはその管理者の紺野先生」

「それが何だ」

 橋の下では老婆が眠りに落ちようとしていた。

 傾いた上体を寺野が支え、着ていた自分の上着を脱いで老婆を包んでいる。年老いた彼女から死がゆっくりと遠ざかり、寺野の鼓動の一部になっていく。

「僕は弟と違ってそこまで興味はないんよ、代死人ってやつに。けど、あいつがあんまり欲しがっとったからさあ」

「勝手に話しを進めて大丈夫か? お前の弟なんて知らないかもしれないんだぞ、こっちは」

「まさか。会ったやろ、やけに目が細くて髪の短い、生意気そうな顔した子どもにさ。だいぶお宅の代死人を可愛がったと思うんやけど」

 脳裏に、再生もできずに血だまりに倒れ伏して口端を歪めていた寺野の姿が過った。身体の内側で燃えた怒りが音もなく灰になり血管に染みていく。ゆっくり、呼吸に合わせて拳を握る。

「生意気そうな、じゃない。クソ生意気だった。兄貴の面を拝んでやりたいくらいには」

「あっは。拝ませてやろうか? わりと似とるんやに、これが」

「それは、ぜひ」

 優しく横たえられた老婆が完全に眠ったのを確認した寺野が顔を上げた。

 先生、運ぶのを手伝って、そんなような言葉をかけられるのを予想していたが、こっちを向いた寺野が珍しく目いっぱい釣り目を見開いて「せ」と最初の一音を発したところで意識を隣の男へ戻した。

 もう邪魔にはならない。

 握った拳を相手の顔面に叩き込んだ。

 きちんと人の骨を打った音と感触がした。

 おそらく二メートルはある巨体が後方に倒れ古い橋を軋ませる。すかさず相手の腹に左の靴底をめり込ませる。こちらに殺意はなかった。しかしやけに冷静にこのまま殺してやろうかとも思った。俺にはそれができる。できるから、管理者なんてものになれているのだ。その気なんてなくても、人体のどこをどうすれば相手が死に至るのか、事務的に動くことができる。

 だから寺野の心臓はいま少しも変な動きはしていないんだろう。なら、セーフだ。

「悪いがお前たち兄弟にはかなり腹が立ってるんだ」

 轟々と流れる水の音がまるで熱さを伴っているようだった。

「うちの生徒にも手を出したろう。あんな優しい子の顔にも傷をつけた。暴力は罪だが、それを分かった上で俺はお前をボコボコにしてやりたいと思っている。けどこうして姿を見せたということは、何かを望んで出て来たってことだよな? 何が狙いだ」

 腹を踏みにじる。その感触も人間のものだったが、鼻面を殴られた男は痛みを感じていないのか呻きもせず顔を上げた。フードは外れておらず、相変わらず面は拝めなかったが、長い前髪が頬にかかっていた。鼻と口から流れる血を舌で舐め、白い歯を赤く染めて歪みなく綺麗に笑っている。

「いいなあ、紺野先生。きみの血も美味そうやね」

「血が狙いか? 兄弟揃って」

「まー、簡潔に言うと、そうやな。でもなるべく、僕は全部欲しい」

「てめェの血でも啜ってろよ」


 ドンッ、特殊なギミックを施してある靴底から衝撃波と火花が放たれる。

 男の腹に穴が開き、血が噴き出た。靴底が体内を踏み潰しびしゃりと血と肉片に濡れた橋を擦る。腹を足が貫通しているのに男は笑って言った。

「そう急ぐことないやん。今日は挨拶しようと思って声かけただけ」

「挨拶? なるほど。じゃあ、さよなら」

 今度は顔に向けて靴を踏み下ろした。確かに男の顔面は衝撃波によって崩れたが手ごたえがなかった。血の代わりに飛び散ったのは細かな砂であり、瞬く間に男の形をしていたものが土くれになっていく。舌打ちをする。逃した。


「先生!」


 寺野が叫ぶ。

 それとほぼ同時に背中をざらついた悪寒が這いのぼった。振り向くと腹に穴の開いた男が、血に濡れた唇を笑みにして立っていた。俺が折った鼻からとめどなく血が流れている、そこだけは人間らしく見える。臓器がちぎれているくせにどこからそんな楽観的な声を出しているのか、男が「お返し」と言って俺の腹を押した。

「僕にも日程があるから、今度は不意に来やんといてね。じゃ、また」


 そのまま力で突き飛ばされた。

 橋から落ちる。

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