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代死人の寺野くん  作者: 年越し蕎麦
season1
33/62

数式瓦解者 五

 綺麗すぎる山の空気は街で暮らす人間の肺には少し染みてむしろ痛いくらいだ。

 まあ僕は人間じゃないんだけど。

「あんまり受け入れられてる気がしないな。犯罪者は受け入れて人造人間は受け入れられないなんて、天に近いくせに山も不平等だぜ。誰にでも平等にある死すら許されないんだから、やっぱり天国も地獄も僕にはないんだろう。僕の受け入れ先は一体どこなんだ?」

「俺だろ」

「『ドキッ』とかいう効果音言った方がいいよな? 僕の心臓じゃあ鳴らせない音なんだけど」

 ――お前今度は何に影響されてる? この前暇つぶしに読んだ少女漫画。誰も死なないから売り文句には申し訳ないけどドキドキしなかった。そうか。読者層にお前を想定して作ってないだろうからな向こうも。自殺と殺人の伴う恋愛なら理解できるんだけど。それもうサスペンスだろ――ぐだぐだ話しながら山道を上る。

 橙ノ山(ここ)には夏の端だけが残っているようで気温は秋じみていたしほとんどの木々も秋を吸収していた。

 夏はもう自然に吸い尽くされすぎて死んだんだ。いいよなあ。


「後藤が教えてくれたとこってこの辺だよね。毎日こんな坂道行き来してたら、そりゃ陸上部並みに走れるよ」


 最寄りの無人駅、そこの駐車場に車を停めてから結構歩いてきただろう。先生に連れてきてもらった山の空気は澄み渡って、そして鋭利だ。これなら街のスモッグやガスに包まれていた方が身体に合う気がする。

 それはやっぱり神に背いた存在も同然の僕だからなのか、先生はむしろ穢れのない空気に受け入れられているようだった。


「速いのか? 後藤くん」

「めちゃくちゃ。あと球技も強いし、泳ぎも得意だ」

「すげーな。ああ、だからプールから引き揚げてもらったのか」

「いやあれは友情関係による利害が一致したからだよ。あいついいやつだよ、ほんと」

「……一般人の後藤くんに協力させたこと、まだ渋ってるからな。本来なら俺が怒るだけじゃ済まなかったんだぞ」

「でも仕方なかったろ?」数か月前の真夏日に飲み込んだプールの味を思い出しながら顔をしかめる。不味かったし、やっぱり溺死は好きじゃない。「だって先生泳げないし」

 先生も道路脇の雑木林に向けた目を不機嫌に歪めてみせた。

「プールぐらいなら泳げる」

 そうなのかなあ、僕ははじめて自分が溺死したときの記憶をまざまざ掘り起こし、そのときの先生の蒼白した顔を思ってああやっぱりなるべく溺死はやめようと薄っすら考えた。プールぐらいなら泳げる、という言葉に嘘はない。なかった。でも、先生はきっと水が苦手だ。水か、溺死体が。


「ま、安心してよ。こんな山の中じゃ死に方も限られてくるし、そも観光地に行かなきゃあんまし人と会わないだろ。集中して血液マニアの兄さんを探せるぜ」

「車ン中で俺とした約束忘れてないだろうな」

「先生の言うことを聞く」

「ああ」

「先生のそばを離れない」

「ああ」

「勝手に行動しない」

「ああ。頼むからいい子にしてろよ」

 僕はいつでもいい子だろ、ニヤッと笑いながら言い返す。先生は嫌そうな顔をしてどうだかと言った。

 まあ、たとえ先生の手を煩わせないいい子でいたとしても、そんなのは不審者(むこう)から否応なく接触されたらいい子か悪い子かなんて関係なくなる。運よく遭遇できるとは思っていないがもし背の高いフード男を見かけたら僕は間違いなく好奇心旺盛のただのクソガキになるような気がしていた。出くわしてからじゃ、先生の言うことを素直に聞けるかは分からない。

 何せ染み渡る水のような怒りを僕に齎した存在だ、あの横田ちゃんの頬を傷つけ、後藤に余計なことを言った(何を言われたかは知らないけど、きっとそうだ)あまり好ましくない存在だ、もし遭遇できたときのことを考えると自分に死ぬこと以外の何ができるわけでもないのに何かをしでかしたくて堪らなくなってくる。やっぱりいい子ではないんだろう。


 しばらく後藤から伝えられていた動物の変死体があった場所の付近を巡ってみたが、その間の山中は静かなだけで鳥の鳴き声すらしなかった。


 空気は冷たいが日中の陽射しはまだ汗ばむ熱を孕んでいる。少し休憩しようという話になり道路を上った先にある温泉街に向かう途中、僕の疲れ知らずの心臓が微妙に跳ね上がった。立ち止まる。先を歩いていた先生が立ち止まり視線を彷徨わせる僕に気が付いて「どうした」と訊いてくる。

 

「誰かが――」

 自分の心臓に手を当て、意識を集中させると、やっぱり心臓はどきりと脈打っていた。

 ガードレールの向こう側に彷徨わせていた視線を先生へと向けるものの、まるで僕の心臓から真っ直ぐ見えない矢印でも伸びて誘導するように焦点を先生の奥へと固定させる。ガードレールの終わり。そこには脇道があって、そして古びた看板が立てかけられていた。


『碧滝 この裏登山道を真っ直ぐ→』


 看板が示している矢印がそのまま僕の心臓の訴えと重なった。

「――死にたがってる。でも、ほんの少しだけだ。衝動的じゃない。どうする?」

 これが街中ならば気にもとめない自殺願望だ。代死人とて死にたい輩全員の代わりになってやれるわけじゃない。ある一定のレベルを超えると心臓が早く代わりになってあげなさいと喚いてくる。だけどこれは喚きにもならない、呟きだ。

 紺野先生は僕の視線を追って看板を目にした。読み方は、あおたき、だろうか。とにかくそこの山道を行けば滝に着くのだろう。お子様の足で約三十分、と丁寧に書かれてもいる。ということは、先生と僕の足なら……。

「山に代死人はいない」

 それが答えだった。

 紺野先生は躊躇わず矢印に沿って進んだ。僕も頷いて続く。




 整備されてはいるが滝へと続く崖路は土が湿っていて靴の裏がよく沈んだ。たっぷりと森のにおいを吸った地面を踏むたびに噎せ返りそうになる。不快感だ。

 たまに付きまとってくる蝿や小さな虫を手で払いながら歩き続ける。やがて大量の水が流れる音が聞こえてくる。温度がぐんと下がり、肌寒いくらいだった。

 拓けた場所に出る。短い橋がかかっていて、そこまで行った。目の前では轟々と滝が流れ落ちており、落ちても死なない程度の高さだったが滝壺は深く青緑に揺らめいていた。飛沫が白く飛び散り、混ざり、川になって流れていく。

 ここまで来ると確かに心臓は急いているみたいだった。でも人影はない。まさかもうあの滝壺の中じゃないよな。

「寺野」

 先生が呼んだ。行ってみると、橋のそばに岩を足場にして川に下りられる場所がある。なるほど、真夏だったらここは子どもたちの良い遊び場所というわけだ。

 そして寒くなると大人の良い自殺場所になる。


 川下の方にある岸近くの岩に年老いた女のひとが座っていた。

 白髪頭の、今にもあの水しぶきに散ってしまいそうな細いひとだ。

 今日は死なないだろう。

 でも明日や明後日はそうなるかもしれない。

 左胸を押さえる。甘く鼓動し痺れている。ちくしょう、と残念がった。死ねないもどかしさ。

「行ってくる」

「平気か」

「たぶんちょっと時間かかるかも」

 僕は先生を振り返って「先生こそドジって川に落ちないでよ。平気?」と訊いてやった。先生は垂れ目を瞬かせたあと、仏頂面になって俺のことはいい、阿保、と罵った。その顔はやっぱりいつもより白い気がした。気がしただけで、本当は山の影がそう見えさせただけかもしれないけれど。

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