数式瓦解者 三
むかし飼っていた犬の首を絞めたことがある。
殺そうと思ってそうしたわけでも、嫌いだからそうしたわけでもない。むしろ可愛いあのミックス犬のことは大好きだったし、彼は大人しい小型犬だった。
ただ、気になってしまった。
この無害で人懐こい生き物の首を絞めたら、どうなるんだろう?
結果は、あの大人しくて人懐こい子犬に噛みつかれこちらが数針縫う怪我を負うだけに終わった。
それから、彼が寿命で死ぬまで二度と懐かれることもなかった。
でもそれで良かったと思う。
悪いことをしたという自覚も覚悟もあったから、もしもう一度仲良くなることができてしまったら、俺はきっとまた同じことをしてしまう。
ただ、あのときの疑問はいまもずっと胸の内側か頭の隙間にこびりついて離れてくれない。
※
鹿が死んでいる。
それ自体は大して珍しくはない。
死に方が異様だ。
車に轢かれたわけでも、ほかの動物に襲われたわけでも、猟師に撃たれたわけでもない。
「また首を斬られてる……」
これで今月何度目だろう? 山のあちこちで動物の変死体が落ちている。首を斬られていたり、または臓器が外まで引きずり出されていたり、明らかに刃物を使った傷口からはなぜか血が一滴も流れていない死骸もあった。
山には変人が多く住んでいると言うし、こんなこと、ニュースの一場面にもなりはしないだろうが、気分は良くない。夏も終わりかけと言えど生き物の腐る臭いとそれに集る害虫の動きは活発だ、死んだ鹿の甘酸っぱい首筋から何か小さな虫が出てくるのを見下ろし、いい加減ここを離れようと腰を上げる。
鹿の首を斬ったらこういうふうになるのか、と頭の隙間から冷静な自分の声がする。
では弓で射ったら?
弓を。
持っていなくて良かった。
大会前日しか持ち出せない弓と矢と、弽なんか持っていたら、そしたら俺は一体何をしでかすんだろう。
的を射ったら「よォし」と掛け声が上がるけれど、的じゃなくても上がるのか?
「上がるわけない」
そんなのただの人殺しだ。
人を殺すことを想定している時点で、やっぱり俺もこの山に住む変人のひとりに違いない。
死んだ鹿のそばを離れ、雑木林を抜ける。登校途中、異臭に誘われ、わざわざ様子を見に行った俺も、あの害虫と何ら変わらないんだろうな。歩道に置いておいたリュックを担ぎ、そのまま最寄り駅までの道を下ろうとつま先を向ける。
最後に何となくもう一度見ておこうと雑木林を振り返ると、いつの間にか背後に暑苦しいローブを被った背の高い男が気配もなく立っていた。
男か?
男だ。白い首に喉仏がある。それにこんなに背の高い女は滅多にいない。
それしか分からない。
相手は自分より遥かに背が高い。なのに顔が見えない。口と、鼻だけだ。
不審者だ、相手をそう判断しすぐに後退る。しかし赤茶けたローブから覗く手に、刃こぼれした大きなナイフが握られているのを見てつい口が開いてしまう。
「アンタがやったのか? 鹿も、猿も、イタチや猪も」
訊かれた不審者は薄い唇を笑みの形にした。
「こんちは」
その口から飛び出してきた声は存外陽気だし、挨拶を一番に言ってくるあたり礼儀正しいとも言えなくもない。警戒しつつ、こちらも軽く会釈する。
「……ちはっす」
「うん。僕がやった。きみ、その制服って片墨高校のやんな? 僕も訊きたいことがあるんやけど」
男はあっさり認め、くるくるとナイフを弄び、あ、と声を零す間もなく失敗し指を斬った。斬った指がぼろぼろと砂のように崩れていく。皮膚片は地面に落ちると砂利と見分けがつかなくなった。
それを黙って見ていた俺は更にゆっくり後退り、「何すか?」と訊ねる。熊と同じ対処法だがおそらく大声を出すのも急に走って逃げるのも悪手だろう。相手の興味が失せるのを待つしかない。本能的に。そんな気がする。
「僕には弟がおってさ。しばらく音信不通やったんやけど、調べたら何と刑務所におることが分かったんよ」
「へぇ。それは大変ですね」
「まーいいんよそれは。悪いことをしたら報いを受ける、当然やんな? 少しは反省するべき。僕に黙って自分ひとり楽しむなんて、許されやんやん」
「はあ、そうですね」
「で、その弟が捕まる前にむっちゃ執着しとったんが代死人なんやけど」
「はあ」
「その中でも片墨高校の代死人がお気に入りやったらしくて」
「はあ」
「押収されやんように厳重にコレクション保管するほどにさ。僕も気になっちゃってさー、どんなんなん? 片墨高校の代死人の、あー、寺野丈浩くんやっけ?」
あいつの下の名前そんなんだったのか。友だちなのに知らなかったな。(というか友人だけど“代死人”という意識が強すぎて下の名前なんか正直どうでもいいという周囲の人間と同等の考え方だった、例に漏れず俺も。あいつのことは人間として見ていない)
「どうって、さあ。普通の代死人だと思いますけど」
「うーん」
男は相槌とも唸りともつかぬ反応をすると、またナイフを弄びながら、ほいじゃあもう一個質問していい? と首だけでなく体ごと傾いた。
「どうぞ」
「その高校にさ、横田キヨ子って女の子、おらん? おるはずなんやけど。その子、何色が好きかなあ。分かる?」
「さあ。知らないっすね」
「そっかあ」男は残念そうに傾けていた体を脱力させた。「ありがとね。もういいよ。お礼にナイフでもあげようか?」
「いえ、結構です」
「そう? きみはその鞄の中に入っとる果物ナイフで我慢できるん?」
そのとき一瞬どきりとした。
すぐに胸を落ち着かせる。
「入ってないですよ、そんなの」
男は唇の形だけで笑った。
「実際には、そうなんやろう。でも死んだ動物を見る目は、そんなナイフじゃ足りやんかったけどね」




