最後の晩餐の最後っていつなの?
ぶちゅる。
ひどい音を立てながら相手の死にたい気持ちを吸い取っていく。
思いのほか口を深くくっつけすぎたらしい、舌と舌が触れて、相手のまどろんでいた瞳に一瞬だけ強烈な嫌悪が迸った。
あしまった。
ぶぢゅうう。猛烈に吸い取る。もっと吸い取る。唇を離す。
気を失った相手をそっと床に横たえる。自分と相手の口許を拭う。ああ最悪だ。
「昼間はあんまり死んではいけない、昼間はあんまり死んではいけない」
声に出して自己暗示しながら体育倉庫を出る。
四限目終わりのチャイムが鳴り、静かだった校舎が騒々しくなっていく。体育館から疲れた腹減ったと喋りながらたくさんの生徒たちが出てくるのを横目にし、ああそうだ早くお昼ご飯を食べなくちゃと思った。食べてそれから死んだ方がいい。心臓が一刻も早く死にましょうとがなり立てている。
どうやら夜まで待てそうもない。
寺野のあの模範的に健康的な頬に血がのぼることは基本ない。
代死人の人間とは違う造りをしている脳みそは感情と直結していない、つまり血液を循環させる心臓が余分な働きをすることはないし、代死に関する物事以外に過剰な脈拍を刻むこともない。よってあいつが口で「驚いた」と言ってもそのとき心臓は少しも鼓動を速めてはおらず、平素と変わらず滑らかにただ動いている。
そのくせ死に関わると蒼白にもなるし発汗もするのだから、代死人とはとことん死ぬためだけに生きている。
だから昼休みに頬を赤くした寺野が保健室のドアを開けて入ってきたとき俺は思い切り眉をひそめたし、つい舌打ちもしそうになった。しなかったが。反対に彼はにやりと口端を上げて見せる。
「先生、そんな顔で生徒を出迎えたら怖がられるぜ」
「お前にだけだよ」
「僕の特権だな」
言いながらドアを閉め、俺のデスク向かいに座る。ほかには誰もいないのに珍しいことだ。大体いつも、俺たちしかいないときはベッドか外に通じる掃き出し窓付近のソファに座ることが多い。それも益々顔をしかめさせる一因になった。
「お察しの通り」
寺野は飄々と切り出し、手に持っていた今朝俺の作った弁当をデスク上に広げ始める。
「いまとても死にたくってさ」
箸を持った手を合わせ、いただきます、と言ってから昨夜の残りの肉じゃがを口に運んだ。死にたいと言った同じ口で「やっぱりすごく美味しい」と昨日も聞いたことを言う。
「……我慢できないのか?」
苦々しい気持ちそのままに書類仕事をしていた手を止め訊く。そばにあったマグカップを掴もうとしたが、空だ、諦めて自分も引き出しから弁当を取り出す。同じようにいただきますと言ったあと、咀嚼し終わった寺野が口を開いた。
「できそうで、できない。いや、してるよ、いま」
「だろうな。お前顔真っ赤だぞ」
「恋してるみたいに?」
「そんな素敵なものじゃない」
「素敵なものだよ」
死ぬってことは、と本当に恋をしているみたいに釣り目を細めている。
何かに似ているな、と思った。猫かもしれない。でも猫だってもっと表情豊かな気がするし、猫に比べればこいつの目はどことなく作り物めいている。泣くこともできて瞳孔も収縮する、視神経の繋がった鼈甲みたいだ。その目が参ったように笑う。
「ただ今日はちょっと失敗した」
「何?」
「もちろん故意にってわけじゃない。恋だけに」
「うるせえ」
「こんなつまらないダジャレで時間稼ぎするくらいには、切羽詰まってるんだよ」
彼は殊更ゆっくり卵焼きを口へ運び、もぐり、噛み締めた。
俺も弁当に手をつけながら、真向かいの代死人について考える。
こいつは別に、許可を求めに来ていない。
神経が感情に左右されない体にあの特殊な血液がのぼって皮膚を赤く染めるほど死にたがっているのだ、本来なら昼間だとか俺の言いつけだとか関係なく代死するはずだ。上気した肌のこめかみに薄っすら汗すら滲んでいる。言葉通り、切羽詰まっている。
ならなぜわざと悠長に昼飯なんざ食ってるんだ。
「失敗って、何を」
「結構、代死人に嫌悪感持ってるタイプのひとでさ」
ぱく、ぱく。寺野は続けて白米を食べる。よく噛んで、飲み込んでいたが、食べるスピードは上がっていた。ごくん。
「そんで、まあ、ちょっと舌が合っちゃってさ」
ぱくぱく、ぱく。
咀嚼。
嚥下。
「とんでもない拒絶だった。そりゃあそうだ、あのひとにとったら僕は安らぎを与えてくれる天使や死神でも何でもない、人間の形をした化け物って意味では同じなんだろうけど、何だろう、感覚的には地面這いずるムカデとかミミズとか、そういうものに対する不快や嫌悪を持ってた。よくあることだね」
「それで」
「それで、そう、そんな人にほんとにうっかり余計な接触しちゃって。べろじゃなかったら良かったんだけど。そしたら飛び降りとか手首とか、スタンダードな方法で死ねたんだ」
寺野は飯を掻き込んだ。
大口開けて食べ、飲み込み、そうやって全て平らげると、辛抱強く待っていた俺を見てだからさ、と言った。
「これは最後の晩餐にはならないけれど、そうだったらどんなにいいかって思ってる」
ごちそうさまでした、手を合わせ、弁当を片付ける。その仕草の延長線上でデスク上にあるペン立てからカッターナイフを取ると刃を折り、その刃を口に入れた。
ごりっ。
静かな保健室に身の毛のよだつ音がし、寺野の笑んだ口から血が溢れてくる。
ゆっくりと腕で口を覆い、大量の血と一緒に刃を手に落とすと、そのままデスクに突っ伏した。
俺は寺野のつむじを見下ろして、噎せ返る血のにおいを吸い、重苦しい溜め息とともに吐き出す。
「お前な、もっと分かりやすく、……」
舌を斬って死ぬ前に、せめて美味い飯が食べたかったからここに来たって、言えよ。くそったれ。




