ソーイチくんとヨースケさん
「ヨースケさんは俺のこと虫けらを見る目で見ないんすね」
「見てるだろ、わりと。俺は暴力的なやつは嫌いだよ」
「そんでも面倒見てくれるじゃないっすか」
「保健委員だからな」
たとえ保健委員でもついさっき喧嘩してきたばっかの不良生徒を平然と手当てするやつ、アンタしかいねーっすよ。言いたかった口は脱脂綿を押しつけられたことでイテッと悲鳴をあげるだけになる。鼻の奥で血が固まっているせいで消毒液のにおいも感じない。
先輩と言っても年齢の違いは一学年だけのはずなのに実際はもっと大人びて見える――それも教師や親なんかより頼れるもっといい大人だ――燿介さんは顔色ひとつ変えずに血だらけの傷口を消毒していった。ガーゼを貼る手際も慣れきっている。処置なんて保健医の仕事なのに、そいつからこの保健室を任されるくらいには、このひとはこういうのに向いているし信頼されている。このひとが卒業したらどうしような、と思う。きっとどうにもならないことばかり増えてそれで案外あっけなくおっ死んだりするんだろう。ヤケだ。
「歯は折れてないだろうな?」
「ないっす。けど、相手のは折った。折ったっつーか折れたっつーか」
「……」凛々しい眉を思い切りひそめ、俺の手に視線を下ろした。「バカだなお前。素手でいくなよ。見せろ」
「注意するとこそこっすか」
「そりゃな。俺はお前の親や担任じゃねーんだ、何が悪いかなんていう価値観は教えないよ。自分で見つけろボケ」
「……怒ってるんすか?」
「たりめー」
「喧嘩したから?」
黒々とした目で睨まれ、首を竦める。男前の凄味だ、目つきの悪い俺よりよっぽど怖い。
「すんません」
「違う。……喧嘩は、お前の自由だ。大抵のことの、何もかもが。けど、俺はな、他人を傷つけるやつが大嫌いだ。それ以上に、自分を傷つけるやつはもっと嫌いだ。気分が悪くなる」
「それは、すんません」
「俺の機嫌なんざ気にしなくていいよ」
「……僕がすっげえ嫌われてるって話っすよね?」
「まさか。その逆だろ」
「逆ぅ?」
「俺はお前のこと仲良い後輩だと思ってんだ。あのな森岡、そんなやつがわざと自分を傷つけてみろ。腹も立つ。それに心配も。けどさっきも言ったように大概はお前の自由だから、べつに謝らなくていい」
「……それは、」ガーゼで引き攣れる表情筋でニカッと笑う。「喧嘩やめろって直球で言われるより効くっすわ」
「やめるのか?」
俺は皮のめくれた手でサムズアップして答えた。「今度からは武器使います」
「脳筋野郎」その手を掴み素早く消毒していく。「これ以上酷い怪我すんなよ」
うす、と形ばかりの返事をして痛みに耐える。このひとがいなくなったら、誰かに暴力をふるう回数が減ったりするんだろうか。いやそれはない。怪我をするのが嫌ならこんなふうにはならないはずだし、そもそも自分の短気な性格が変わるとも思えない。
そしたらやっぱりいつか誰からも手当されずに死んじまいそうだ。たとえば、ドラマか何かに出てくるような、子どもを純粋に心配する優しい親がいたら、少しは何事もマシになっていたかもしれない。そんなのはいないのだからやっぱり全部どうしようもない。
しかもこうやって優しくしてくれる先輩がいたとしても、結局はそういう状況に陥ったら脊髄反射のように暴力的になって歯止めが利かなくなる。自分は一生このままなんだろうか?
「燿介さん」
「何だ森岡」
「僕のこのすぐカッとなる気性、たぶんですけど治んねー気がするんすよ」
「おう」
「だから、せめて、何つーんですかね。優しい親とか理解してくれる教師とかそんなのは望まねーすから、せめてストッパー役がいてくれたら」
それだ。
本当は寄り添ってくれる親も正しい教えを説いてくれる先生もいらない。
ただ時々そばで、待ったをかけてくれる存在がほしい。
「……でもそんな存在、よっぽどの怪力ゴリラじゃないと無理っすよね。どうすか、燿介さん。アンタ馬鹿みたいな力してるし。ストップかけてくれたら、俺こうして怪我しないっすよ、たぶん」
「暴力は嫌いっつってんだろ。御免だよ。それに俺が卒業したら無意味だろ、それ」
「そーなんすよねー」
じゃあもうダメだ。
だってそういう場でストップをかけてくれる人間なんて、どういう立場なのか想像もつかないんだ。
※
「お前な、未成年をひとりでこんな時間に出歩かせるなよ。俺らが学生ン時とは桁違いなんだぞ、物騒さがよ」
「分かってるっすよ、だから上司殺す勢いで会社出て来たのに、したら可愛い妹が男二人に挟まれてるんすよ!? そりゃちょっとカッとなるでしょ」
普段なら僕の席である先生の車の助手席に座っている横田ちゃんの兄は、そこでくるりと頭を後部座席――つまり僕の方――に向けると明らかに敵意のこもった目つきで「ごめんな、突き飛ばして」と言った。
僕はうっかりその顔つきに似合う台詞って殺害予告くらいだよと口走りそうになったが先生と横田ちゃんの手前を考えて素直に頷くだけに留めておいた。
横田ちゃんが隣で小さく「ごめんなさい、お兄ちゃん。紺野先生と寺野くんも……」と申し訳なさそうにしている。
この兄妹の似てなさ加減と異なる苗字の謎を解いてみよう、代死人にインプットされている生徒の複雑な事情を脳みそからつい癖みたいに掻き起こそうとして、やめた。代死するわけでもないのに、無駄な手間だ。かと言って「血が繋がってないんだっけ?」とうろ覚えに訊ねるには僕にはデリカシーが備わりすぎている。空気も読める。
そうやって何とか黙りこくる(だって今にもこの口が興味本位に喋り出しそうだ)僕を見ていた敵意満々の眼差しは、ちょっとの不服だけを残して柔和に僕の隣へと注がれた。
「キヨ子、俺は別に怒ってないからな、怒ってないけど、今度は絶対待ってろよ」
「うん。でもだって残業だって」
「僕が迎えに行くって言ったらぜってェ迎えに行くんだから諦めて待ってろ。待ってて欲しいんだよ、僕が。叶えてくれるよな?」
「……」横田ちゃんは子どもみたいに唇をむっと突き出し、渋々といった様子で頷いた。「わかった、叶える」
「よし」
それから運転している先生へと向き直る。「すんませんでした、燿介さん。ご迷惑おかけして」
「まーいーけど」
ナビが左折を促し、先生はハンドルを切る。送り届けるために入力した兄妹の家は、彼女が横着して危ない近道を選ぶほどには、ここから少し距離があった。「お前が──兄貴が注意してくれるってんなら、俺が教師らしく何か言わずに済むしな」
「アンタ教師向いてないっすよ」
心底、というふうに横田ちゃんの兄が切り出した。
「しかもあの代死人の管理者! 燿介さんそんなん絶対似合わねぇ、だってアンタあーいうの真っ先に嫌いそうな、」
「森岡」
あ、話をわざと遮ったな、僕は大人しく後部座席に納まりながらお行儀良く心の中だけで思った。
それが僕に対する配慮なのか僕と仲の良い横田ちゃんに対する配慮なのか、はたまたその両方かどっちでもないのか、何にせよ、やっぱり先生は親しい人間から見ても代死人の管理者に向いていないようだ。紛れもない事実ってわけだ。
「何すか」
むすっとした彼に対して先生は飄々と訊ねた。
「横田って呼んだ方がいいか? 苗字どっちだ?」
「今は横田創一っす。森岡のままでもいいすけど、……いややっぱ嫌だ。横田で」
「横田くん」
「いっ」声に毛虫でもついてそうな発声の仕方だった。「何でくん付け?」
「妹さんのことは横田ちゃんて呼んでるから」
「んじゃあ、普通に名前で呼んでくださいよ。創一でいいす。たまに名前呼びだったでしょ」
「創一」
「何すか燿介さん」
「俺がこの仕事向いてないってんなら、今度飲みにでも付き合え。いま喋るには時間が短いだろ、お互い」
「言いましたねっ?」分かりやすく声が弾む。「連絡先くださいよ、約束っすよ。破ったら学校に乗り込みますからね」
「分かってるよ。ハハお前、創一」
先生は本当に楽しそうにひとしきり笑うと、声だけでそうと判断できるほどおそらく絶対笑い皺のついた垂れ目で続けた。
「変わってねーなー。目つき悪い男がすっ飛んで来たと思ったらまさか……ははは」
「年食ったらちょっとはマシになるかと思ったけど、全然っすわ」
「俺もだよ。……武器とか使われなくて良かったわ」
一拍、沈黙が落ちる。
けれどすぐに助手席の彼が先生の方へ身を乗り出しニヤッと凶悪な笑みで囁いた。「俺ね、キヨ子を襲った数式瓦解者、ちゃんと金属バットで殴りましたよ。野球少年から分捕ってね。あの時妙に冷静に、素手じゃダメだって分かった。アンタのおかげっす」
僕は隣の横田ちゃんを見た。横田ちゃんは神妙に頷いた。
察していたものの結構やんちゃなお兄さんらしい。そしてそのやんちゃなお兄さんと仲が良いらしい先生は、たぶん、僕からじゃ表情が見えなかったけど、同じくらい物騒な笑顔で「馬鹿。俺をお前の暴行の一因にするな。よくやったな、ボコボコか?」と訊いた。お兄さんは残念そうに首を振る。
「そうしたかったけど。まー相手はほぼ人間やめてたし、すぐ砂になっちまいました。それに、」
「それに?」
「キヨ子に止められたんで」
今度は二拍、沈黙が落ちた。
それから、車のスピードが落ちた。ナビが目的地に近づいたことを知らせる。
「そうか」
僕が聞いたこともないような声で先生は相槌を打つと、すぐに先生らしい声で「未成年に無茶させるなよ、ボケが」と口悪く言った。
無事に横田兄妹を家に送り届け、いつもの席で大人しくシートベルトに締められながら、ひとまず、僕は途中だった食事を黙って再開する。
しかし喋ることより食べることを優先するこの口でも、色んな訊きたいことの中でこれだけは先に言っとこうと先生の横顔に喋りかけた。
「なあ先生。僕の下の名前、丈浩って言うんだぜ」
「ん?」先生はちらと僕に一瞥くれたが、まるで分かってなさそうに「ああ、そうだな」とすぐ前を見た。運転に集中しないとこの国じゃ何が起こるか分からない。
僕もいざって時にすぐ飛び出して行けるよう、前に視線を戻しながら言った。
「タケヒロだよ、たけひろ」
「知ってるよ。どうした?」
「はーやれやれ。……分からんちんだぜ」




