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代死人の寺野くん  作者: 年越し蕎麦
season1
25/62

世間は狭い

「ようお嬢さん、こんな時間にひとりで何してるの。ニュースは見てる? 最近、片墨高校の女性徒が数式瓦解者に襲われた事件があったろ。幸い命に別状はなかったようだけど、犯人はまだ捕まってないし、そも生徒には夜間外出禁止令が出てる。それをなぜこんな時間にひとりでうろついてるんだい、危険極まりないよ」

「ひえっ寺野くん? ……寺野くんだ、びっくりしたあ」

「寺野くんだよ」


 背後から声をかけられた横田ちゃんは寸の間びくりとして硬直していたが、声から分かる通りそれが僕であると視認した途端あからさまに体の力を抜いてみせた。安心したように「お嬢さんって、初めて言われた。びっくりした」とはぐらかすように言ってはにかんでいる。

 立ち止まった彼女の隣へ歩み寄りながらも、僕は不思議になって首を傾けた。


「その様子から察するにちゃんと今の状況が危ないって分かってるんだろ。どうしてこんな時間に外に出てんのさ」

「うん。ちゃんと防犯ブザーと催涙スプレー持ってる。効くかは分かんないけど……」

 彼女は背負っていたリュックを後ろ手でポンと叩いた。学校で使っているものより一回り小さく身軽そうだが、背負ったまま開けられそうな箇所はない。僕は半目になった。

「それってすぐ取り出せるのか? いざって時にすぐ使えないと意味ないぜ」

「あ。そうか。そこまで考えてなかった」

「あのなー。……ウワ、今のすっごく紺野先生みたいじゃなかった? こーいうのは先生の役目なんだよ、どこまで車停めに行ってるんだ一体」

 横田ちゃんを見かけたはいいものの、こうして車が入り込めない裏路地に危機感を持っているくせして入っていったおかげで僕だけが追いかけ、先生は車を安全に駐車できる場所を探さざるを得なくなった。安全な駐車場っていうのは鉄食虫が入り込めなかったり魔術的防犯がなされていたりとにかく路上なんかに停めたら高確率でどこかしら変貌を遂げる愛車がそうやって破壊されないようなところだ。

 そんな表通りからのネオンが届かない狭く暗い路地で、横田ちゃんはなぜか困った表情を浮かべる。

「……紺野先生もいるの? それは、そうよね。学校帰りっぽいし」

 僕は制服で横田ちゃんは黒のズボンにシンプルなTシャツとスニーカー姿だった。そして近づいて分かったがそのくたびれた衣服から大変いいにおいが漂っている。――揚げ物系。

「でもきみ、ちゃんと申請してるだろ」

 僕の脈絡のない言葉に多少面食らったふうだったが、すぐに理解したらしい、またへにょりと眉が下がる。

「うーん。学校からバイトの許可は下りてるけど……」

「外出禁止令が出てる中でのバイトが不味いってことは自覚してるんだ?」

「してなかったら、紺野先生がいることにドキッとしないよ」

 意地悪ね、寺野くん。ちょっと唇を尖らして拗ねたように言う横田ちゃんは丸きり観念した子どもみたいだった。

 意地悪だと言われた僕は心外だよと声を上げ、別にきみを追い詰めたいわけじゃなくて、と前置きする。「ただ僕は、あれだよ、ものすごく心配してるってこと。きみが教えてくれたから分かってくれると思うんだけど……」

「分かるよ。私もこんな時間に友だちがひとりで出歩いてたらかなり心配する」

「……それを分かっててとぼけてる横田ちゃんの方が意地悪じゃないか?」

「バレたかあ」

「真面目そうな見た目によらず悪戯っ子だぜ、ほんと」

「それと似たようなこと、」横田ちゃんはつい口を滑らせた顔つきをして、そのまま止めることも不自然だと思ったのか何てことないふうに続けた。「……言われたな。最近」

「へぇ、誰に?」

「あのー、ほっぺの。不審者に」ぽりりと左頬に貼られたガーゼを掻く。「“見かけによらず、おっちゃくい味やな”って。その時は意味が分からなかったんだけど、調べたら三重弁らしくって。いたずらっことか、そんな意味なんだって。……わたしO型らしいよ。真に受けるわけじゃないけど、知らなかった」

「へぇ。……」僕は黙って少し考えたあと、言った。「待って。味って何?」

「え? ええと。ごめん。てっきり知ってるものかと」

「いや、知らない。事件について知ってるのはニュースの内容そのまま。で、味って?」

「えーと。その……舐められて……ほっぺを。ちょっとだけ」

「舐められたっ?」

 ある程度予想していたとは言え僕は素っ頓狂に訊き返して「それって傷口をってことだよな? 血を舐められたってことか? 何だよそれ、思った以上にやべーやつじゃないか。やっぱり全然大丈夫じゃないよ、横田ちゃん」と畳みかけてしまった。そして自分の発言に些か首を傾げてハッとする。血を舐めてソムリエじみた言動をするやべーやつ? 僕知ってるぞそれ。――血液マニアだ。

 以前ぼくを襲ったあの若い男を鮮明に思い出す。ああいうタイプのおぞましい輩にこの横田ちゃんが襲われたと思うとまた胸から血でも染み出してくる感覚になり、僕は自分の心臓に黙ってろよと念じた。代死人にとって一番厄介な感情がこの怒りだった。

 畳みかけられた横田ちゃんは慌てたように手を振る。

「私は大丈夫。ほんとだよ。お兄ちゃんが助けてくれたし」

「そのお兄さんは今日は迎えに来てくれたりしなかったの?」

「ほんとはそのつもりだったんだけど。残業らしくて」

 残業反対! 僕は心のなかでデモを起こしそうになった。「それでひとりで帰ろうとしたってわけか」

「うん。ここ通ると近道だから……」

「送ってくよ。先生が」

「えっ、悪いよ」

「気にするなよ、生徒を無事に送り届けるのも先生の仕事だろ。とにかくさ、こんな手狭い路地から出よう。カビ生えそう」

「で、でも……」

「手首掴まれて連行されたくなきゃ大人しく着いてきた方が身のためだよ。僕の手いまたぶん海苔の残骸だらけだから。きみの手もそーなるぜ」

「海苔?」


「夕飯の途中だったからな」


「あ、先生」

「悪い。遅くなった」

 降ってきた声に振り向くと安全な駐車場を見つけるのに苦労したのか多少辟易している様子の先生が立っていた。横田ちゃんがぎくりと身構え、それに気づいているはずの先生は何も咎めずに表通りを指さした。「夕飯の途中だったんだ、俺たち。大人しく送られてくれると助かるんだけど」なるほどな、と僕は思った。そう言えばよかったのか。

「こ、こんばんは、紺野先生」

「はい、こんばんは」

「えと、あの、じゃあ」律儀に挨拶した横田ちゃんは窺うように僕と先生を交互に見やり、ぎこちなくぺこりと頭を下げる。「お言葉に甘えて……お願いします」

「決まりだな。少し歩かせて悪いけど」

 あっちだ、言った先生はさっさと路地を出て行く。僕は横田ちゃんと目を合わせ先に行くよう促すと、一番最後に裏路地を出た。


 かび臭さから解放され、うるさいネオンの灯りが頬を照らしつけてくる。眩しさに閉じかけた瞼は、けれどぴくりと痙攣して見開かれた。

 心臓が一瞬、苛烈なまでに飛び跳ね、血液を猛烈な勢いで逆循環させたからだ。――明確な殺意! 代死人はすっこんでいなさい! なぜか細胞の警告が音羽の声で脳内再生されたが、すっこんでろも何もその明確な殺意がこっちに真っ直ぐ向いているんだからどうしようもない。

 僕が先生! と声を上げるよりも、背後からその殺意が駆け寄ってくる方が速かった。


「キヨ子!」


 そうやって僕を吹っ飛ばす勢いで押しのけ、横田ちゃんの肩を掴み引き寄せたその殺意の塊は、当然ながら人間だった。

 僕よりほんの少し背が高く、長めの前髪から覗く目は三白眼だということを差し引いてもおそろしく凶悪だ。

 着ているのはビジネススーツなのにそれが余計に不良に見える。いや、先生くらいの年齢に見えるから不良とかじゃなくヤクザとかだろう。どっちにしろ優しそうなタイプではないってことだ。

 けれどもそんな男の登場に僕が慌てなかったのは横田ちゃんがすぐに「お、お兄ちゃん!」と叫んだからだしお兄ちゃんと呼ばれたそのひとが「キヨ子お前な、迎えに行くって言っただろーが怒るぞさすがに!」「お、怒らないで」「怒んねーよ! 雷が落ちそうな感覚だけどな!」と彼女を僕たちから庇う仕草をとったからである。

 突き飛ばされてたたらを踏んだ僕の腕を掴んでいた先生を睨みつけると、横田ちゃんのお兄さんは「もしかしたら親切心か何かかもしれないっすけど僕はこの子の兄なんで、どんな状況だろうともう遅い時間だしこのまま帰らせ……」と息せき切っていたのを、突然、ぶちぎった。口を閉じる。三白眼の細い目を更に細くして先生を見つめている。

 僕も先生を振り仰ぐと、先生は先生でポカンとしていた。半開きの口が「お前もしかして、」と言う。「森岡か……? 森岡創一?」


 横田ちゃんの兄で、そしてどうやら先生の知り合いらしいその男は、三白眼を目いっぱい見開かせた。


「燿介さんっ? ……え、じゃあよくキヨ子の話に出てくる紺野先生って、」


 アンタのことだったんか、呟いたあと、雷のようだった殺意が瞬く間に消え去った。

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