ショッピングモォーール! 下
また心臓が逆向きに回転している。どうやら今日は死にたい輩より殺したい輩の意志の方が強いらしかった。聖なる日曜日になんてことだ。僕は向かいに座る音羽に目を向け、同業者として「手伝おうか?」と一応訊いた。
「結構よ。代死人は引っ込んでいて」
つんけん。
「かわいくない子だぜ」
「それでも結構」音羽はつんとそっぽを向いて椅子から危なっかしく下りる。
「おい待て、なんの話だ」先生も腰を浮かし、予想がついている顔をした。嫌そうな顔だ。
「心臓がむかむかするの」音羽がポシェットをかけ直しながら言った。「誰かが誰かを殺したがってる。あたしの仕事よ、誰にも邪魔させない。あなたたちもひどいけど、あたしも悪いことをしたと思ってるわ。本当にごめんなさい」まつ毛の長い大きな瞳がイートインスペースの一点を見つめている。「でもそういう話は、また後日改めて、あたしの管理者を交えてしましょう。あなたたちも見回りに戻った方がいい。ジュースもありがと」じゃーね、音羽は椅子の間を縫って行ってしまう。残されたオレンジジュースの表面を、水滴が伝ってテーブルに落ちた。
立ち上がった先生はほとほと参ったというふうに黒髪を掻き混ぜた。「ちょっと……待ってくれ。なあ寺野」
「なんだい先生」
「あの子もあれをやるのか」
「あれって」
「殺されるために、あんな小せェ子が、見知らぬ人間とキスを?」答えを知っているはずなのに、認めたくなくて口にしている。
「ああ」僕はそんな先生の心情を慮ってスムーズに答えやる。「まあ、そうだろうね。ハグでもできなくはないけど、経口吸収が最も効率的」慰めも言っておこうと続ける。「でもほら、何時間も見知らぬ人間とハグするより口に一発ぶちゅってかました方が刹那で済むじゃん」注射と一緒だよ。
先生は怖い顔をした。
垂れ目で、女子生徒の会話にのぼっていた『顔のいい先生ランキング』上位に入るらしいこのひとのこういう無表情に近い態度は、大変に怖い。僕がよく見るのは無愛想な顔か仏頂面か苦痛を堪えている顔か、まあとにかく女子生徒たちの言うような顔は滅多にお目にかかれないのだけれど、それと同じくらい無表情はレアものだ。いつも、わりと何かしら感情のうるさい顔をしているのに。
「紺野先生?」
「反吐が出そうだよ」靴底を床に擦りつけながら低く言う。「あー、この際だから言っとくけど、俺はお前の、たとえ人助けでも、問答無用のキスシーン見てる時怖気が走る」座ったままの僕の頭をぐしゃぐしゃ乱暴に撫でてくる。「いや、勘違いするなよ、別にお前に怖気が走ってるわけじゃなく。やり方を定めた連中に対してだ。分かるな?」珍しく、自分の考えを僕に理解していてほしい響きを持っている。「ウン」僕は大人しく頷いた。褒めるように手が髪を混ぜる。子ども扱いをされている。
僕は先生の考えていることをよく想像して考える。先生は人間で、優しく、人権もなければ墓も用意されず埋葬だってされない人造人間を、こうして人権のある人間のように接する時がある。時がある、というのは、管理者としての立場があって、その立場にいるから僕をみすみす死なせているわけで、普段はなんとか管理者の位置に立っているしそれが仕事で普通のことなのに、そのことにも罪悪感を抱えている、ということだ。
けれど今の先生の言葉は完全に人間同士の会話だった。
紺野先生個人の、寺野に対する言葉だ。
「つまり先生」僕はくしゃついた髪を直しながら彼を見上げた。「先生は本当は、大人として全力で子どもを守りたいんだね」そしてすっくと立ち上がる。「でも立場がそれを許さないんだ。なんてがんじがらめでかわいそうな人だろう」
「おい」
「ところで僕はあのクソ生意気な音羽チャンよりうんと年上だ。製造年月日的には知らないけど」
「そうだな。おい、なんだ」
「そして僕には代死人としての使命はあるけど概ね立派な立場はない」
「おい、寺野」
「更に先生が人間らしくぶっちゃけてくれたから僕もぶっちゃけると、僕はどうやら先生に怪我してほしくないみたいだよ」
「は?」
「というわけでだ」先生に向かって指パッチンして人差し指を向ける。「今度は助けに来なくていい」僕は脱兎の如く駆け出した。
後ろで先生が声を上げている。聞き取る暇はなかった。ショッピングモール内は相変わらずうるさいし、音楽は陽気だし、誰かしら死にたいと思っているし、殺したいと思っている。心臓が勝手なことをしてはいけませんと喚き立てている。よしよし。僕が黙らせてやるからちょっと待ってな。
スペースの中央寄り、ウォーターサーバー近くの椅子に座っている男性に、音羽は話しかけていた。その男性は見るからに目つきがおかしくて、殺人直前インタビューをするならこういう人が的になるだろうというどんよりした異様な空気を纏っていた。先ほどの女性が比でないくらい心臓が一際大きく主張してくる。なるほどよほど殺したがりらしい。
男はテーブルに黒いリュックを置いていた。チャックの開いた隙間から、この国でわりかしメジャーな銃が覗いている。わりかしメジャーな、ちょっと法を犯せば手に入るハンドガンだ。一応銃刀法違反なるものがあるので。
あの銃を使って手当たり次第に殺人衝動をぶつける間際だったんだろう、音羽に声をかけられ、目を見つめられて、男は顔つきを虚ろにしている。
音羽の小さな手が男の顎に伸びた。“あたしを見て” そうすると見てしまう。海外映画のあの摩訶不思議なキスシーンのように夢見がちに引き寄せられてしまう。男は身を屈めた。
僕は二人の間に駆け寄った勢いのまま腕を差し込んだ。テーブルに手をつき、もう片方の手で男の顎を掴んだ。驚いた音羽が怒りの声を上げた。
「見るのは僕だ」
構わず男と目を合わせる。「一度僕を殺してみて、それで殺意が消えるかもしれない」僕に殺意をどうこうする力はなく、これは完全に職務妨害で、ただ先生に怪我をしてほしくないと思ったのと同じくらい、小さな音羽が死ぬ姿を先生に見させたくなかった。そうなったら、先生はたぶん泣きそうな顔をするだろう。
そういう顔は、音羽の管理者がするべきだと思う。
「殺したくないか? 心臓はここ、脳みそはこっち。喉でもいいぜ」僕はひとつずつ自分の急所を示していく。男が銃を掴み、押しのけていた音羽が僕の腰を殴った。
ところが銃が持ち上げられるより男の横面に靴底がめり込みテーブルを巻き込んで倒れた方が早かった。けたたましい音を立てて周囲から悲鳴が起こる。音羽が叫んだ。「なんてことをしてくれたの!」
先生は蹴り倒した男の肩を爪先で小突き、その際薄く煙が上がり、身悶えていた男が力をなくして静かになった。肩口に弾薬のようなものが刺さっている。先生はバランスを崩してふらついたが、なんとか踏ん張って靴裏を床に擦りつけた。
ワッと喚いている音羽が男に駆け寄り、僕も唖然として先生へ歩み寄る。「な、何したの?」
「蹴って麻酔撃ち込んだ」
「そりゃ、見りゃ分かるけど」
「お前今驚いてんのか?」
「かなりね」とは言え僕の口端は不格好に上がっていたと思う。「なんであんなことしたの」
先生は包帯の巻いてある手で僕の頭を乱雑に撫でると、ぶっきらぼうに言った。
「大人は子どもを守るべきだから」
そんなことは。
れっきとした人間同士のルールだ。
僕には、僕たちには適用されない。
「先生は……、」なんだ? この先に相応しい言葉があるような気がしたが、口から出てきたのは本心からの称賛だった。「馬鹿だと思う。やっぱり」
先生は仕方なさそうに笑い、誰が馬鹿だ誰が、と僕を小突いて言った。