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代死人の寺野くん  作者: 年越し蕎麦
season1
13/62

地下鉄

「地獄だ……。天国があるか地獄があるか論争はほんとこーいう時べらぼうに無駄だなって思うよ先生。電車に飛び込むやつはきっと気づいちゃったんだぜ、今自分の立ってる場所が地獄だってことに。僕も飛び込みたい。とにかく地獄(ここ)から逃げ出したい、さもなければ布団に帰りたい死にたい」

「……我慢しろ」

「ひどいぜ先生」

 大体地下なんていう狭くて暗くて空気が生温くてまるで地獄を連想させるところにこんな大量の人間がいるから良くないんだ、ぶつくさ言いながら僕は隣に並び立つ長躯にもたれかかった。「電車に確実に吹っ飛ばされるタイミングっていつかな」僕がぼそりと言うと、もたれかかられた先生が腕をがしりと掴んでくる。「轢かれるのにも結構技術がいるだろうな。確かめるなよ」ぐぐと力をこめてくる。「下手に死なれて部品回収するのは手間だ」ぶっきらぼうに言われた。要するに、代死をするわけでもないのに死んでくれるなという意味である。

「合点承知の助」

 僕は気の抜けた声で返事しつつ、やはり気怠くはあるので更に先生に体重をかけた。腕を掴んでいた手の力が緩まる。

 地下鉄の中は人間や人工知能でごった煮だったし、アナウンスや鉄の擦れる音でひどくうるさい。おまけに朝なのか夕方なのか夜なのか分からない微妙な色の天井灯で薄暗く、地上に繋がる出入り口や線路から吹き込んでくる風は湿って鉄くさい。そして早朝のこの通勤時間、ほとんどの人間は本気まではいかなくとも薄っすら、意識のそとで、無意識不随意、死にたいと思っている。まさに地獄。その衝動的ではない誰しもが大体は持っている自殺願望も、こんなに大量に感知しては僕の気分も悪くなってくるというものだ。心臓の回転がそれに反応してどきりどきりと戸惑う。死にたいならもっとハッキリ死にたいと思ってほしい。じゃないと僕も死ねない。

「僕電車きらいなんだよ……しかも地下鉄……中々来ないししんどいよ」

「……悪いと思ってる」

「今のは八つ当たりだから、別に謝らなくていいんだ。致し方ないことだったし、というかむしろ先生が八つ当たりしてもいいくらい」

「じゃあ帰り酒買ってっていいか? 夕飯つまみだらけになるけど」

「デスペでつき合おう」

 はあー、どちらともなく溜め息を吐いて、お互い体重をかけあった。というのも、僕だけでなく先生にとっても今朝は最悪なのである。

 とその時、人の声に似せた機械音声が、鉄食虫の発生により電車が遅延するとホーム中に知らせ渡った。ぐんと人々の機嫌が下降する。げえ、僕も唸って胸を押さえた。心臓の鼓動が更に戸惑っている。「鉄食虫だってさ先生」「今年は暖冬だったからな……」と返した先生も盛大に顔をしかめている。

 春になると食欲が旺盛になる鉄食虫。この虫が中々に厄介で、そして僕らが今地下鉄を待っている理由だった。今年はニュースの鉄食虫発生予報がことごとく外れたせいで予防が間に合わず、アパートの駐車場に止めていた先生の車ががじがじ食われたのである。ボンネットは小さな穴だらけだったし、鉄を食って満足したのか甲虫らしい鈍色に輝く背中をぴかぴかさせて、小さな虫たちはのんべんだらりと寝そべっていた。先生は顔を覆っていた。その隣にいた僕の足に、鉄を溶液して食うための口で齧りついてきてショックを受けたように引っ繰り返る鉄食虫もいて、僕も顔を覆わざるを得なかった。鉄食虫は基本人間を襲わない。つまり僕は食用として間違えられて、挙句に不味いわちくしょうと吐き戻されたわけである。ひどい。

「明日には車、直ってるかな?」

 僕が弱々しく訊ねると、先生は不機嫌な面持ちで直ってなきゃ困ると言った。修理屋のじいさんに電話をしたみたいだけど、あの人はただの機械を直すことに関してはわりかしずさんな面がある。一抹の不安が過る。明日も電車通学なら、僕は迷わず、一週間かけても修理が間に合わなそうなバラバラ死体になることを選ぶだろう。それほど破壊されたらいっそリサイクルされて寺野という意思は永遠に死ねるかもしれない。そっちの方がいいな。うん。

 また機械音声のアナウンスが流れる。

 もうあと二、三分で電車が来るらしい。良かった。人々が苛立ち紛れの安堵を漏らし、僕と先生が自分たちの並ぶ列からはみ出さないように姿勢を正した時、僕の心臓が一際大きく跳ね上がった。心臓がこう言っている。――死にたくって急いでいるんです!

 鼓動が高鳴り、血液を熱く循環させ、まるできっと、これが恋をしているみたいな感覚なんだ。

「寺野、」

 列から外れた僕に先生は声をかけたが、すぐに察したのかああクソと悪態を吐いて僕を見守った。それが先生の仕事で、事が起こったあとの処理を確実にしなければならないから。だから僕は僕の仕事に専念できる。

 別の列からふらりと離れ夢見がちにヒールを鳴らす女性の腕を、がしりと掴んだ。

 振り向かせる。僕より年上、身長の低い彼女は僕を見てサッと顔を強張らせた。僕は笑って手を伸ばす。

「おはよう。お姉さん。ところで僕を見てくれよ」

 彼女はか細い悲鳴を上げて僕の腕から逃れようとし、周囲もそれにざわついたが、点滅しない犯罪ランプにああ代死人の代死行為かと野次馬に徹すか、あるいは無関心に戻っていった。僕は彼女の顔を掴んで上げさせた。「僕を見て。そう。お化粧が綺麗だね、でもごめんなさい」膝を折って逃げようとするスーツ姿の女性に覆い被さる。「今からその化粧が崩れるかも」

 そして僕は開いた口に口を押しつけて、心臓の高鳴りを助長させた。

 まつ毛の長い瞳が見開かれ、痙攣し、僕を映す。目の周囲の化粧は粉っぽく、何か一生懸命に彼女の肌に馴染もうとしていた。唇がぬるりと濡れている。ああ、口紅だ。それも厚く塗られている。僕は心の中だけで眉をひそめた。口紅が塗られている口にキスをするのは、あまり好きじゃない。不必要に湿った感触は、死を受け入れているのにリップひとつでそれを拒まれている感覚に陥るからだ。一番は何も塗っていない女の子の柔い唇だけど、これならガサついた男の唇の方が気分がいいなと思ってしまう。

 とはいえ、この人は今朝も習慣か意図的か、頑張って化粧をしたのだろう。

 それを踏みにじる勢いで唇に吸いつき、彼女の体から強張りが溶けて意識が混濁するまで顔を掴み耳を塞いでいた。たとえ自殺願望だとしても、自分の中から強い意思がひとつ消えていくのはそれなりに負担がかかるものだろう。

 そうして彼女は涙を一筋流して、くずおれた。ちゅぱっ。離れた唇から間抜けな音が鳴る。

 僕はその体を支えてやりながら自分の口元を腕で拭い、彼女の口紅伸びた赤い唇もごしごし拭ってやった。余計に赤が伸ばされ不格好に掻き消える。震動。膝をついた駅の床が自堕落で遅刻常習犯な電車の走行音を拾い上げる。――間もなく二番線に電車が参ります……レバーの内側でお待ちください……。

「先生」

 傍らにしゃがんだ先生に目配せし、おそらく口紅の移っている口でにやりと笑って見せる。心臓が大いに高鳴っていた。

「電車に確実に轢き殺されるタイミング、検証してくるよ」

 先生はまどろむ女性の肩を支え、立ち上がった僕を見上げて心底嫌そうな顔をした。

 

 僕は線路に向かい、下がっているレバーを潜り抜けて飛び下りる。暗い地下、奥からこの駅に止まるためにスピードを落とした機械仕掛けの列車が姿を現す。歯車の噛み合った窓からこちらを視認した車掌は、一瞬慌てた様子を見せたが、中の感知器がなんの警報も示さないことにほっと息を吐いたようだった。心なしか、スピードを上げたようにも思う。有り難い。

 僕は自分の立ち位置を確認し、満足してその時を待った。先生の方は見ないでおいた。


 あと六秒ちょっと。どきどきする心臓を押さえ、僕は目を閉じる。地獄から抜け出すには、これが手っ取り早い方法なのだ。

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