無防備だよ寺野くん 下
「あー……」
声が出るか確かめて、げほっごほっ、咳き込む。咳き込んだ際、包丁が刺さっていたはずの腹がずきりと痛んで、また顔をしかめる。自分は壁を背に座らされていて、腹には包丁ではなく注射器のようなものが突き刺さっていた。「うげ」グロイ。
それからざっと周囲に視線を巡らす。地下室だろうか、窓がなく、天井の蛍光灯が眩しく部屋の陰影を濃くしている。紅茶色の壁に、扉は鉄製のがひとつ。テーブルや本棚があり、雑多に物が溢れ返っていた。うん。完全に知らない場所だ。
埃っぽく湿っている空気に、咳をもう数回。
両手は後ろ手で縛られている。身じろぎ、僕がそうやってしている間ずっと目の前で見下ろしてきている相手を、首を動かしてようやく見上げた。逆光。
「……誘拐されたの?」と僕。
訊くと相手はふんと面白そうに鼻を鳴らし、しゃがみ込んだ。
目線が合った暫定誘拐犯野郎は見事に知らない野郎だった。茶に染めてある痛んだ短髪に、細い眦。ただその顔は若く、先生より年下、というか大学生くらいに見える。恰好もパーカーにジーンズとラフだ。
そーいえば、といつぞやの朝を思い返す。
ニュースの内容。派手な犯行をするくせに捕まらない吸血事件の犯人。先生の注意。
マジかー、と思った。
思ってまた、あることに思い至りマジかと顔をしかめた。そーいうことは先に言って貰わなきゃ、困るぜ先生。
「何を考えてる?」
と唐突に茶髪の彼が訊いてきた。
「……色々」僕は答えた。「僕のたまげ顔を見られたあなたはラッキーだねとか、今日は楽しい気分で終わりそうだったのにとか、先生早く来てくんないかなとか」喋る度に腹がしんどくて、一旦区切る。「……あと、あなたは誰でここはどこかなとか」
「確かに悲鳴は上げてたけど、あれ驚いてたのか? 分かんなかったな」
「失礼なやつめ」相当驚いてたさ。
「でも、怯えがない分、代死人ていいよな。扱いやすい」
パニックになられちゃ堪ったもんじゃねーんだこちとら、面倒だし、言った彼は無造作に僕の腹から注射器を抜き取った。痛いは痛いので、一応ぐうと呻いて抗議する。注射器の中には赤黒い液体が入っている。
「それ、どーするの」
彼はそれを揺らしながら、にんまり笑った。
「一度、集めてみたかったんだよ。代死人の血を」
誘拐した時点でやばいやつだが、頭の中で『わりとやばいやつ』のカテゴリにこの青年を分け入れる。
「集めて、どーするの」
「集めて、それだけ。俺、血液マニアなんだ」
『わりとやばいやつ』から『とんでもやばいやつ』に移動させる。
針穴の開いた腹から、血がしみしみとシャツに染みている感覚がする。「……血が止まってないんだけど。なんかした?」これくらいの怪我なら、すぐ塞がるのだ、いつもなら。
彼は集めたその僕の血を眺めつつ、気のない声でああと答える。
「ちょっと薬打った。抗凝固薬をアレンジしたやつ」
『犯罪級にやばいやつ』だ。ただし悲しいことに、代死人に対する犯罪行為は法的に裁かれてくれない。そのための先生なのに、たぶん、まだこの場所を特定できていないか、色々政府的にやることがあるんだろう。役職に就く人間はこれだから、と生意気なことを考える。分かっている。先生が一番その役職に辟易しているって。
「じゃああなたは、あれかな、大学の薬学部の人?」
血液マニアという点について深く突っ込んだらあんまり楽しくなさそうだし、まあそういう趣味の人もいるだろうと思ってスルーする。
「独学だよ。大学なんて面白くないとこ、行ってられないしさ……」彼は注射器を弄って指の先にぴゅうと血を出すと、「うわウワうわ」その先の行動を察した僕が声を上げるも、察した通りに指に出した僕の血をぺろりと舐めとった。「ウワーッ」信じられない思いで身を引く。後頭部を壁にぶつけた。
もごもごと口の中で血を転がした彼は、細い目を眇めてなるほどと言った。
「味は人間と大して変わらないんだな。舌がピリピリする感覚があるから、スパイス的だ。ふうん。あ、でも後味は甘いな……やっぱ普通のと大して変わらん」
「血液ソムリエなの?」
「血液マニアだ」
彼は立ち上がった。
そうして何かの資料や理科用具なんかがはみ出しているテーブルから、小型ナイフと木槌、小瓶を両手に抱え戻って、再びしゃがみ込む。
「ま。大人しく収集されてよ」
そう言って僕の手首の拘束を解いた。
※
代死人はよく死ぬ。
人間の死にたい感情を吸い取って、一日に何度も死ぬことができる。
逆を言うと、人間の死にたい気持ちがないと、死ねないということだ。
つまり、拷問をされても、それが拷問として意味を成すかは、その代死人の性格による。
そして僕はあまり意味を成さない方の代死人だった。
死ねない状況で一定以上の痛みを感じると感覚が鈍るようにできている。
スプラッタ系も見るのは得意だ。
心臓を貫くか、脳を破壊するか、その両方かをしないと意識が飛ばない僕は、がっつり血まみれで倒れ伏して傍目から見たら死んでいる恰好でも、まだしぶとく息をして、事態を垣間見ている。
別に痛いのが好きなわけではないので最初の方は抵抗と抗議を繰り返したが、左手の甲にナイフを床まで突き刺されたところでアッサリやめた。そして早々に痛覚を鈍らせた。死ねないのに痛いなんて絶対に嫌だからだ。僕にそーいう嗜好はない。
血液マニアの誘拐犯である彼は、マニアらしく妙なこだわりがあるんだろう、部分別に血液を収集していった。左脚、右脚、腹に背中、首と頭。注射器を刺されたり刃物で切りつけられた部分から、だらだらと血が流れ続けている。
収集した血液の詰まった小瓶たちを矯めつ眇めつ、彼は今、部位別にラベルを貼っている。テーブルでその作業をしながら、時折、ぶつぶつとひとりごとを零している。――これはいつ腐るかな、酸っぱくなるのはいつだろう、人間の血とも比べて解析してみないと……。
「あのさ、」
僕は掠れまくった声をかけた。
「例の吸血事件、あなたが犯人なんだろ。逃げなくていいの?」
彼はこちらに目も向けずああと生返事で答える。
「お前の管理者が来るまでは、もう少し作業するよ」
「随分悠長なんだな」
「まあな」
会話がそこで終わる。僕は先ほど、マジか先生、と思ったことを再度頭に浮かべていた。
いつからかは分からない。ひょっとすると攫われる前かもしれないし、攫われた後かもしれない。
僕は囮にされているんだろう。
これは確定だ。でなければ、GPS信号を発している僕は、未だにここで血を流していない。とっくに迎えあがられているだろう。正式に正確にこの犯罪者を捕まえるための準備時間、こうして血だらけになっていてくれということだ。
一度代死人を襲いかけて逃げおおせているのだから、相当な逃げわざを持っているんだろう、彼は。じゃないと現在進行形で血液マニアなんてやってられないはずである。
「自分が捕まるとは思わないのか?」
げほっ、血の味のする咳をし、訊ねる。彼は得意そうに唇の端を上げた。
「捕まるようなこと、してないからな」
自分がやばいやつだという自覚がないのかあ、僕は諦めの心境で瞼を閉じた。正直血の流し過ぎで全身が重怠かったし、疲れて眠気もあったものだから。
少し眠って脳を休めた方がいいかもしれない、そう思ってまどろみに任せようとした時、床にくっつけた耳にうるさく地響きが届いた。
ぱちりと目を開ける。震動がやまぬうちに、また地響き。部屋にひとつしかない鉄扉の方へ顔を向けると、重厚で冷たいそれが、外側から衝撃を食らったようにひしゃげていた。
ひゅーう、僕のへたくそな口笛と、血液マニアのチッといううまい舌打ちが同時に吐かれる。彼は「予想してたけど、乱暴だ。もう少し集中させてくれてもいいのに」と愚痴りながら小瓶を集め麻袋に突っ込んでいく。テーブルに乗る資料もいくつか手繰り寄せ、別の袋に乱雑に落としていく。
そして三度目の衝撃音が響き渡る。
鉄扉が弾け飛んで床に激突した。
舞った埃と本棚から落ちた紙類、跳ね飛ぶ僕の血溜まり。
「ら、乱暴だ」
跳ね飛んできた血に顔をしかめ思わずそう呟くと、倒れた鉄扉を、しゅうしゅう煙を噴き上げる特殊ブーツの足裏で思い切り踏みつけた先生が、垂れた目をこの上なく不機嫌に歪め僕を映した。
派手な登場をし僕を睨み見下ろしたわりには何も言わず、先生はふいと犯罪者の方へ顔を向ける。
「……どうも。うちの寺野がお世話になったようで」
「いや、」
それでも青年はまだ身支度を整え続けていた。
「むしろ世話になったのはこっちの方。いい収集になった。ありがと、紺野サン」
「虫唾が走るな」
シンプルに感想を告げた先生は煙草を消すみたいに靴裏を擦りつける。じゅう、と鉄が焼けている。
血液マニアの彼を上から下まで観察し、白衣のポケットに手を突っ込んで背中を丸めた。「しかも思ったより若い。大学生か? 将来大事にしろよ」
「不確かな将来より今を楽しむ方が重要だろ」
それは分かる。
先生もとりあえずといったふうに頷いた。
「……そうだな、それは自由だ。けど今を楽しむのはいいが、だからって人を傷つけるな」
「そいつ人じゃないだろ」
「誰もそこのクソガキのことは言ってない。俺のことだよ」片足を上げて足首を回す。「過負荷で骨やられそうだった」
「僕のこと心配してないのか?」茶化すように突っ込むと、「黙ってろ寺野」と足を踏み下ろして咎められる。これはかなり機嫌が悪い。はあい、僕は大人しく口を閉ざして見守りに専念した。
袋の口を縛って抱え上げた青年が、片手でテーブルの上から何かを掴み取る。
ボールペンだった。それを器用にくるくる回しながら、壁に向かって歩いて行く。足取り軽く、先生に話しかける。
「しかし管理者の紺野サン。アンタ俺を取っ捕まえる権利を持ってないだろ」
「ああ。それは俺の仕事じゃない」
「だよな。じゃあ俺は、ここらでお暇させてもらうよ」くるりと僕を振り向いた。「いい血液だった。協力ありがとう」……協力させたの間違いだと思う。
彼はまた壁に向き合うと、ボールペンでがりがりと何かを書いていく。ここからじゃよく見えないが、どうやら数式のようなものだ。先生が舌打ちをした。おおう。溜め息はよく漏らすが舌打ちは珍しい。ご立腹甚だしいご様子。
がりり、書き終えボールペンを仕舞うと、壁に手を当て「じゃ。良き血液ライフを」と言ってぐにゃりと歪んだ壁に体を押し込んだ。
まるで不躾なティースプーンで掻き混ぜられたような紅茶色の壁に飲み込まれていく彼は、最後に唇の端を上げ先生に手を振る。そして消えた。あとはもう歪んでいない元通りの壁と、血だらけの僕と、苛々している先生だけが取り残された。
「……なるほど」
静かな部屋で僕は感嘆する。「数式瓦解者なんだ、あの人。そりゃ大学なんて行かないわけだ」そしてその天才的な部分があるために、血液マニアなんていう妙な性癖を持ってしまったのかもしれない、と考える。天は二物を与えずだ。
魔術と科学的要素を併せ持つ輩だったから、中々捕まらず、一番無防備な間の僕を攫いに学校へ出入りできて、そうして今僕は血だらけになっているんだろう。
「あの人ちゃんと捕まる?」
訊くと、傍にやってきた先生が床に膝つけて頷いた。
「ああ。……あいつの移動先を見つけるのが手間取った」つまり彼の行く先は警察に包囲されているということだ。「悪かった」先生は謝った。「お前を囮にした」……わざわざ言わなきゃいーのに、と思う。
「まーいいよ。そこまでひどいこと、されたわけじゃないし」
「……クソ野郎」
「お口がお悪いぜ先生」
白衣の裾が血に濡れていく。
僕の頬やナイフの打たれた手から変わらず流血しているのを見て、凛々しい黒眉をひそめた。「血、とまらないのか」
「あー、うん。なんか薬打たれたみたいで」
先生はまた、何か口汚いことを口の中だけで呟いた。
「立てるか。自己修復は?」
「両方とも無理だね」
「分かった」襟に仕込まれた通信機器に、連絡を取る。相手は修理屋だろう。いくつか簡潔な会話をしたあと、通信を切って、僕の左手に突き刺さっていたナイフをぞんざいに抜いた。「ぐう」一応、呻く。磔が解かれた僕は起き上がろうとし、体の下敷きになっている右手の惨状を思い出し動きをとめた。
「先生スプラッタもの得意だっけ?」
何を隠そう右手の中指は、ナイフと木槌の容赦ないコラボのせいで皮一枚で繋がっている状態なのである。教えはしなかったが、先生はひどい有様を想像したのか、眉間の皺を深くした。
「大嫌いだな」
「じゃあ見ない方がいいよ」
「今更だろ」
「夢に出ても知らないぜ」
僕は体を起こした。血でべちゃべちゃに濡れた制服が重い。右手の中指がぷらんと揺れた。先生はうげ、と声を上げた。「痛くないのか」散々僕が血を流す姿を見てきただろうに、おかしなことを質問する。やはり先生は先生だ。「痛覚切ってたからね」「あいつ妙なマニアの上に加虐趣味もあったのか」「いや僕が馬鹿にしたから、ちょっと腹立ったんだと思うよ」こーやって、と穴の開いた左手で拳を作り、中指だけを彼の消えた壁に向かって突き立てて見せる。ミドルフィンガー。
「……行儀が悪いぞ寺野」
「先生のが移った」
「馬鹿言え」あーもう、先生が苛立って髪を掻く。「お前はなんでいつもそうなんだ、もう少し自分を」不自然に言葉が途切れる。言っても仕様のないことを飲み下すように喉仏が動く。その言葉の続きは、自分を大切にしろ、か。僕は考えて困り眉になる。先生はどうしてそう管理者に向いていないの、そんなんじゃ疲れてしまうよ、考えるだけに留めて僕も飲み込む。先生が続けた。「……そんなに怪我させるつもりはなかった」
その言葉も大分、先生の優しい苦痛が滲み出た言葉だ。
仕方ないなあ、僕は思った。仕方ない先生だ全く。
「今日はさー」
腕を伸ばし、支え立ち上がらせてもらいながら、白衣がじわじわ赤くなっていくのを見つめる。
「今日は、楽しい気分で終わりそうだったんだよ」
昼間の、横田ちゃんとの会話が耳の奥で蘇る。
浮かれトンチキになるのが恋で、バカ沈みするのが愛。
一番無防備で好きな時間のあと、先生を見て、バカ沈みする。僕は。
なら僕はやっぱり恋愛経験済みなんだろう。
「だから夕飯はなんか美味しいもん作ってよ」
ふてぶてしく言って見上げると、顔をしかめた先生が、そーいう注文が一番困る、と僕を見下ろした。それはきっと、一番よく見える立ち位置だった。