寺野くんと紺野先生
「なあ先生、悩みがあるんだ」
「なんだ寺野」
「今日も僕は死ねない」
胸元に彫刻刀が根元まで突き刺さって、そこからじんわり紺色ブレザーを濃く染めている寺野は、汚らしい工芸室の床に倒れ伏したまま、どうしよう、と呟いた。
喉からひゅーひゅーと正常ではない息を漏らし異常なほど真っ直ぐな瞳で見上げてくる彼の傍に跪き、どうしよう、と呟かれた先生は、そうだな、と呟き返した。
「今日は諦めた方がいい」
少しの沈黙の割には、この言葉はもう随分昔からかけてきたもので、二人の間では最早恒例になっていた。
「なんでなんだろう」
そしてもう随分と昔から聞いてきた言い分が訥々と語られる。
「なんで僕は死ねないんだろう。今日こそは、と思ったんだ。今日こそはこの心臓止めてやろうと、一番鋭利な彫刻刀を選んで、そこがヴィーナスの彫刻、美しい目玉のその一点を削り取るように、とすりと突き刺した。そこが鍵穴のように、ぐさりと深く食い込ませた。死後を夢見て。なのに僕を待っていたのは美しくもない変わらぬ工芸室に、開いた扉から入ってきた先生。僕は一体いつになったら天国で天使様の腕に抱いてもらえるんだろう」
いつ聞いても叶わぬ夢を見ている寺野の瞳は恐ろしいほど真っ直ぐで、美しくて、そして無感動だ。胸に刺さっている刃物が呼吸に合わせて上下し、まるでそれが通常通りのような顔をして抜かれるのを防いでいる。その通常通りを、先生はいつもやっているように慣れた手つきで、引き抜いた。
「ぐう」
寺野が一応といったふうに呻き声を発し、それから溜め息を零して目を閉じる。
先生は赤黒い液体を数滴零した彫刻刀を白衣で拭うと、丁寧に机の上に置いた。
「立て」
そして命令口調とは裏腹になんだか泣き出しそうな、いや泣き出しそうな幼い子供を見守る親のような優しい眼差しで寺野を見下ろし、手を差し伸べる。寺野はその手を取った。
造作もなく立たされた寺野の制服を叩きながら、先生は代わり映えのない報告を、それでも感謝の意を含んだ声音で言う。
「お前が代わりになった、立川。憑き物が落ちた顔して帰ってったよ。とんと見たことがない笑顔だった。生きたくなってきた、ってさ」
「そう。良かったね」
ぽんぽん、背中を払っていた手が頭に置かれた。
「また、死んでくれるか?」
「死なないけどね」
先生が何かを言おうとして、やめた。たぶんありがとうか、ごめんなか。どっちもかもしれない。
「……なんの異常もないな?」
「ないよ」
「ん」
白衣の内衿に埋め込まれた通信機器に口元を寄せて、事務的に言葉を紡ぐ。
「こちら片墨高校T-0671担当、紺野です。自殺志願者更生終わりました。腹部に穴が空きましたが、修理するほどではありません。はい、自然に治るでしょう。はい、はい……失礼します」
彼の頭に置いていた手を、今度は自分にやって、髪をぐしゃぐしゃ掻き乱して、「帰ろう」工芸室から出て行った。
寺野は穴の空いたブレザーと、机に置かれた彫刻刀を一瞥して、壁際に並べられた石膏像の一つ、ラオコーン像を見つめた。
苦悶の表情を浮かべている男。
「いいなあ」
心の底からの憧憬を述べる。
それから、工芸室を出て、先生のあとを追った。
この一話だけ、掌編集『SSSSs』にも載っています。