VS司法の鬼姫ジェミリア・アステア・バルバトス
別室で待たされていたのは一時間ほどだった。
多分、短いのだと思う。
二、三時間はかかると思っていた。
僕を子供と軽んじて面会を簡単に済ます気なのか。
それとも代官が仕事熱心で有能なのか。
「うぉい! ジェミリア。俺はコイツに疑われている。お前の旦那で、大領主の息子だと証明してくれ」
だから、そこは疑ってはいないと言っているのに。
ジョナサンは執務室の扉を蹴って開けて入ると、早々に中の人に助けを求めた。
女性がため息まじりに立ち上がる。
執務室の机の椅子を譲ったようだが、ジョナサンはそこではなくソファーを選び、寝転んでダラけ始めた。
僕に座らせてくれる気はなさそうだな。
……もしかして、僕がソファーに座らないようにか?
大丈夫だよ。
さすがに勝手に座ったりしないよ。
相手はお貴族様なんだから。
この状態でソファーに座ったら、庶民如きが貴族と対等のつもりか! とか言われるんでしょ?
一応、僕も軍人やっているんで、こういうのは慣れているんだよ。
高天ヶ原の上層部にも面目だのしきたりだのと目鯨立てるメンドイ人たちがいるから。
待合室でも、執事っぽい人もそう。
ジョナサンが来ても座ったままでいる僕に一瞬とはいえ不快感を表していたものね。
ジョナサンがギロッと睨んだらそのあとは黙々と給仕こなしていたけれど。
いい塩梅に豪華過ぎない執務室。
権力者って悪趣味な人が多いんだけど珍しい。
この女性がアステア群村の代官か。
ここに来るまでに女の人を見かけている。
でもここまで接近した女性はこの人が初めてだ。
ちょっとドキドキする。
綺麗な人、だと思う。
栗色の瞳と同じ色のサラサラと長いストレートヘア。
立つ姿は大女優さんみたい。
デキる秘書な雰囲気を全身から出している。
眼鏡が似合いそう。
微笑んでいるけれど営業スマイルだ。
どこか冷たい感じもする。
若いとは言わないが……。
ん? シワを目で探していたら睨まれた。
えっと、おばさん……ダメ?
まだ綺麗なお姉さんの部類……ならOKらしい。
和服のように胸元で重ねるタイプの上着。
腰帯の下は機動性を重視したレギンスにブーツ。
露出は少ない。
服が身体にフィットしているのでボディラインがはっきりとわかる。
黒を基調とした衣装のせいで全体的に黒豹っぽいイメージ。
金細工が美しい黒い鞘に納められた長剣は錫杖のようにも見える。
格好良く携帯できるのは脚が長い人だからだろう。
文官より武官といった出で立ちだ。
格好だけではない、それが感じられる。
ジョナサン、ガラドルさん、そしてこの代官。
この場で戦闘になった場合、僕は三人を相手に勝てるだろうか。
「わかったよ。お坊ちゃんなんでしょ? スッゴイデスネ〜。ってことは、この規模で村なんて言い張る狡い政策はジョナサマが行なっているの?」
「『ジョナサマ』ってなんだ? 言っておくが、アステア群村の狡い政策は俺じゃねえよ! ああいうのはこのジェミリアとマニャラの仕業だ。大体、この俺に法の隙を突いた悪知恵なんか出せると思うか?」
ちょいスベり。
ジョナサマ、日本語が混じると伝わらないか。
ジョナサン呼びは敬っているみたいで嫌なのに。
しかもお前、本名もネイサンって……。
「うん。確かに無理だね」
「なんでそこはすんなり受け入れたんだよ! お前が俺のなにを知ってんだよ!?」
「ジョナサンはツッコミ大好きなおっさんでしょ。奥さん二人もいるんだもんね? ゴブリンといい、本当にどいつもこいつもツッコむの本当好きだよね、この世界の野郎どもってさ」
「ハイ、そこまでよ。少年。子供がよく知りもせず下品なことを言うのはおやめなさい。聞いていて気持ちのいいものではないわ」
あ。そうだった。
ゴブリンは女性相手には禁句だったな。
せっかく先生が事前に注意してくれていたのに忘れていた。
直感した。
僕はこの人が苦手だ。
僕は人見知りするタチではないんだけど、なんとなく逆らえない感じ。
ジョナサンが口の動きだけで、バ〜カ! と言ってくる。
器用に代官が振り返るとスッと顔を戻した。
もしかしてお前もこの人が苦手なの?
自分の奥さんなんだよね?
「失礼。挨拶が遅れたわね。初めまして、少年。私はジェミリア。ここに居られるバルバトス大領主の第一子ネイサンの妻、ジェミリア・アステア・バルバトス。そして、このアステア群村の代官を務めている者です。ネイサンとガラドル、二人の紹介は要らないわね?」
「はい。えっと。こちらこそ失礼致しました。初めまして、フドウ・スグルです。僕のいた国の名乗りは、姓が先、次に名前の順なります」
「ジェミリアには普通に挨拶して話すんだな。ってか、家名があるのか。初めて聞いたんだが?」
家名ってほどのもんじゃない。
僕は基本苗字を名乗らない。
僕以外いないのに苗字なんているのかな。誰がつけたんだか。
「お前に話す必要ある? 家名はあるけど、別に僕は貴族じゃないよ。僕のいた場所では苗字……家名が必ずつくんだ。平民でもね」
「少年。一応、相手はこの地の次期大領主です。弁えなさい。口が悪く気さくで気品が微塵もないけれど、彼はバルバトス領の民、十万人を代表する者の息子なのだから」
……む、礼儀に厳しいキツい口調の女教授タイプか。
もしくは女弁護士。
やっぱり苦手だ。
「……跪け、と?」
「いいえ。言葉を選びなさいと言っているの。ネイサンがそれを許し、一個人として、私的に少年と接しているときなら、その態度でもいいでしょう。彼もそれを喜ぶでしょうし。でもね、他人の前で公的に貴族として対峙している今はダメよ。少年は今、バルバトスの領民十万人全員と対峙していると考えなさい。圧倒的不利な数の相手の前で彼らの代表者一族の者を軽んじている、たった一人の自分。少年のそれはそれを理解した上での言動?」
「…………」
「私は返答を求めたのよ? 無言に付き合うほど、暇を持ち合わせてはいないの。代官ってこれで結構激務なの。自分が子供だと思って甘えがあるのかしら? でも、親でも知り合いでもない他人にとって少年はただの人間。年齢と見た目で見下されることはあっても考慮はしてはもらえない。それが世の中の、今の少年に対する認識よ?」
「領民全員を相手にしているつもりはありませんでした。ごめんなさい」
ジョナサンがなにか言いそうだったけれど、ジェミリアさんがなにか目配せをして制す。
僕をからかう気だったに違いない。
ジョナサンはそれを受けてつまらなさそうに、フン、と顔を背け、そのままソファーに横になってしまった。
うぉい! ちょっとぐらいフォローしろよ。
「『御免なさい』? あら。私、少年に『許せ』と命じられたのかしら」
……む。むむむ。
くそっ、細かいな。揚げ足取られた。
「謝罪を受け入れるかは相手の気持ち次第。不快な思いにさせられた上、謝罪を受け入れるのは奇特な善人か、またはその相手に対して特別な感情を持っている人くらいね。基本的に損失を超える補填を提示しなければ認められないものよ。自身の今の状況を理解しているのかしら?」
「……現在、天球のどっかにあるアステア村の騎士団本部の騎士団団長の執務室において、大領主の御子息と代官、アステア村所属の親方、三名を相手に面談中。僕の所有する戦利品の貸し出しとその後の扱いについては取引、あとゴブ……魔物の討伐を証明する物を所持しているので、その褒賞金を要求している。……そのつもりです。ジャズとレンダの治療費は請求する気はないので結構です」
あの治療は頼まれてやったわけではなく、僕の都合でおこなったもの。
それで連中の負担になったら、さすがに後味が悪いからね。
「……そう。理解していないのね」
ん? なにか間違った?
「……と、言うと?」
「少年は、現在この国どころか、我々の知るどのコミュニティにも所属をしていない。そう報告を聞いているわ。『タカマガハラ』という少年が所属するコミュニティは我々と連絡を取ることが可能かしら? 具体的には『タカマガハラ』は我々にあなたの身分やこちらの安全を保証してくれるの? あなたの身の安全を保証する必要が、義務が、我々にあるのかしら?」
「う。連絡を取るのは無理です」
「……理由は説明しないのね? では、あなたの自国での身分、安全を保証する義理は我々にはないわね。そもそも、あなた、この地に立ち入るための許可証を提示しないのは何故かしら。手続きはどこでしたの? もし紛失したのなら確認を取って再発行してあげてもいいわ。代金はいただくけれど」
「…………」
「戸籍とは、コミュニティに所属する者の貢献、労働や納税に応じて相応の法が定める権利を行使できることを保証するもの。戸籍を持たない、コミュニティに貢献していない少年は権利の行使を一切保証されてはいないの。法では戸籍のない者は人に非ずなのよ。今の少年はこの地で定めるあらゆる法の恩恵の対象にならないわ」
「……それは、預けた戦利品をネコババする、そう宣言しているのですか? 簡易的なモノとはいえ書類を交わしましたよ。バルバトス領民十万人を代表する大領主の息子、ネイサン・ウルド・バルバトス様と!」
リュックからジョナサン……いや、ネイサンと交わした書類を取り出して見せる。
書類は渡さないし、彼女も手を伸ばさない。
書類の内容を一瞥して(あの目の動きは速読だ)、ジョナサンを見る。
ジョナサンはニヤッと笑って返した。
彼女は呆れたような顔を一瞬して、スッと元の冷たい顔をこっちに向けた。
「こちらはそうしようと思えばできると言っているの。その書類も、少年の身柄も」
「この村からつまみ出す気ですか?」
「それだけではなく、許可なく領地に滞在している少年を捕らえることもできるのよ。支払えないのなら奴隷とすることもね。荒らされた土地の権利者にその気があればだけど。そして、その権利を阻害することはそうそう許されない。上位権限である国からならなんらかの要請はできるけれど、自治体には拒否権がある」
「……はぁ。僕の人権は無視ですか?」
「人権は他者によって保証されるものよ。少年の思考には思想と事実が混ざっているわ。人権は税を払っている者に税を受け取った者が権利を保証しているだけのもの。主人に税金を肩代わりしてもらっている奴隷以下の存在なのよ。コミュニティに属せない者というのは」
「……その人権はどうやって手に入れるんですか?」
「少年の場合だと、コミュニティに貢献して戸籍を作ってもらう必要があるわ。少年は十歳なのよね。なら十年間と今年のぶんの税金を支払って申請するの。普通は戸籍を持つ親が、生まれた月から十歳になる間までの子供のぶんの税を支払って戸籍を申請するのよ。戸籍を持つ者は申請する権利を持っているから。そうすることで初めて『人』と認められる。戸籍を持つ者なら少年を自身の子として申請、もしくは婚姻……この場合、少年を夫として申請すれば保護することはできる。でもそれは難しいと思うわ。申請した者は、以降、少年のぶんの税金を払い続けなければならない。少しでも不足すれば自分も戸籍を抹消されるリスクがあるから。身内がいるのなら彼らも連帯で失うの。一人一人個人計算ではなく、家族全員の合計で税を満たさなければいけないわ。……わかるかしら?」
「……例えば。五人家族で、税が一人金貨五枚だった場合。必要な税は金貨二十五枚。もし金貨二十枚しか用意できない場合、家族四人ぶんと一人金貨五枚未納と計算するのではなく、五人全員が金貨一枚未納とされる? コレ、民に徒党を組ませないための法ですよね?」
「うふふ。そうよ。仕組みとその意図については正解。実際の税額は違うわよ? 親が生まれた子を捨てる主な理由ね」
「個人計算でも捨てる親は捨てるんじゃないですか?」
「捨てるわね。法の誕生には制定された時代の背景があるのよ。戦争で奴隷が欲しい。今すぐ金が欲しい。食糧難で人口を減らしたい。その頃に作られた法なのでしょうね」
法の施行、周知伝達、改正。
電話もネットもないこの世界では統一も大変だろう。
一度発行したらそうそう変えられない。
だからこういった悪法が設立されたらシャレにならない。
ここはそういう世界か。
本当にクソな異世界!
「……結局、お金ですか?」
「戸籍を管理する者が戸籍を用意することに応じるなら、それで済むわね。でも少年は戸籍がないから、少年自身には戸籍を請求する権利がない。それに土地の権利者はその土地内の全てに権利を持っている。人ではない者が勝手に持っているモノも土地の権利者の権利物。それを『返却』させ、さらに窃盗行為として罰することができるのよ」
「横暴が過ぎるでしょ!」
「脱落者を救済するための法ではないのよ。より多く税を得るための法。コミュニティが脱落者を活用するための法であり、税収の邪魔になる者を排除して、効率よくコミュニティを守るための法よ。善意を当たり前と思うのは美徳だけれど、それを他者にまで無償で求めるのは少年の悪いクセね。他者の善意に対して口にする『有難い』という言葉の意味を今一度よく考えなさい」
そのニュアンスは日本語と通じるんだな!
「冒険者ギルドは? 回避手段があるんじゃないですか?」
「確かに冒険者ギルドを頼り『流民』の保証を得る方法でなら、最低限、人として認められるわね。冒険者ギルドは国とは独立した『領土を持たない国』。クエストを受注する際、所属する自治体に利益の一割を先払いで納めることで『流民』としての権利を国に保証させている」
「ならギルドに逃げ込みますよ」
「残念だけれど、少年の場合、オススメしないわ。登録は有料なの。手持ちがないと借金をして登録することになる。子供が受注できる範囲の仕事ではその借金はまず返せないのよ。一年もしないうちに利息で借金が増えて奴隷にされてしまう。自由を奪われ彼らに扱き使われるのがオチ。荒れくれ者揃いの冒険者たちを相手に少年奴隷がする仕事は想像できるわね?」
イヤだ。する気はない。
想像もお仕事もだ。
先生なしで残念なお知らせ来たよ。
キャラを被せてくるなよ。
『高天ヶ原特別保護指定生物』である先生から持ち味を奪うことは子供法で固く禁じられているんだ。
段々、腹立ってきた。
お前、子供法で極刑決定だ。
真昼間なのにLEDイルミネーションライト全身に巻きつけて、街角で自作ポエムでも朗読していろよ!
「冒険者ギルドはね、元は奴隷に堕ちる寸前の人たちが、奴隷堕ちを回避するために徒党を組んでできた組織なの。冒険者ギルドの『流民』の身分を保証する『流民章』は、奴隷と違い腕だけで形こそ違うけれど、原理は奴隷に用いられる隷属印と同じモノ。共同体を主人とした奴隷になることなのよ。少年は組織に忠誠を誓えるの? 利き腕に刻まれる『流民章』は『ギルドの総意』で腕の自由を奪う効果を発揮する。激痛を与え、ショック死させることもできるわ。所属した者は逆らえない。契約解除は可能だけれど、違約金とギルドの審査がいる。優秀なコマをギルドがそうそう解放すると思う? そして国や自治体が冒険者ギルドに関わっていないと言い切れる? 国にとって冒険者は日雇い出来る兵なのよ。それに今じゃ冒険者ギルド自体が奴隷を運用する人員派遣組織になっているわ。街の働き口を一手に集めてね。合法な闇組織よ、アレは」
ここまで酷い冒険者ギルドも珍しい。
この異世界、本当に要らないオリジナリティに溢れているな。
「…………」
転移型異世界人には予想以上に過酷な世界設定だよ。
もうコレは殺しにかかってきている。
ダメだな。ここから逃げ出さなければいけない。
ここで先生と待ち合わせの約束しているのに。
「……で。僕をどうするのかな?」
闘気を全開!
執務室の数十倍の容量の闘気が密室を圧迫する。
部屋のソファー、机と椅子が壁に叩きつけられ、棚の書類やペン、文鎮など小物は壁へ押し潰される。
圧迫に耐えれなくなった部屋で一番脆い窓ガラスが割れて圧を外に逃した。
ジョナサン、ガラドルさん、ジェミリアさんの三人はその場で僕の闘気に耐えた。
……さすがだ。
ジェミリアさんもやれる人らしい。
本当に武官なんだな。
全身身体強化されている。
闘気が体内に練られていてはジャズたちのようには拘束できない。
僕はフェミニストなんかじゃない。
女の子は僕らより狡猾で凶暴な生き物だ。
ましてや、相対している状態で手加減はしないよ。
三人を相手取って殺害するための行動を数十種、いつでも実行可能な段階に。
闘気と身体と思考に渾身の殺気を込める。
この威嚇で諦めてほしい。
でなければ、最悪の場合……までは付き合えない。
誰か一人でも迎撃条件を満たした時点で実行するよ?
「『黒姫・深き永世眠り』」
「……!?」
ジェミリアさん……いや、ジェミリアの言葉に応え、下げたままの漆黒の長剣からなにかが立ち込める。
長剣の周りがなにかしらの干渉を受けている。
はぁあ!? ふざけんなよ!
詠唱はどうしたんだよッ!?
執務室に溶けていく闇。
僕の闘気の光に照らされた部屋に、窓の外より一足早い夜のとばりが降りていく。
闇の発生源はジェミリアの周囲。
霧のような闇をドレスのように奇しく幾重にも纏い、そのヴェールを靡かせる。
……黒いドライアイスが気化しているかのように。
それはゆっくりと空間を満たし続け、こっちに迫ってくる。
……闇。
嫌な予感しかない。
闘気で吹き飛ばそうと振るったけれど、侵攻を防ぐことができずに透過する。
「くそ! やっぱりか!」
実体のない闇は物理的干渉を受けない。
なのに!
なんだ? この変な抵抗感は!
闘気流はジェミリアたちに届かない。
こっちは透過しているのに防がれている。
……防がれているというか、無効化されているのか!?
…………。
違う。
見たぞ。
闘気流に巻き込まれた筆記具がゆっくりと動きを緩めていき、ジェミリアの闇のヴェールに触れた途端、その場に停止したのを。
……加速力が奪われている!
物理防御無効と加速力の減退効果。
くっそぉっ!
ベクトルを与える闘気の性質と相性が悪い。
とっさに闘気で隔てたものの、あっさり透過してきた黒霧のヴェールに直接触れてしまった。
んあああっ!?
意識が奪われる。
自分の輪郭が溶ける感覚。
倦怠感……強烈な睡魔が襲う。
物理防御無効と減退効果、さらに無力化!?
ちょっと足に触れただけだぞ!?
なんでだよ。
足に僕の意識なんてないハズなんですけど!?
頭にあるもんだと思っていたよ!
闘気を無視するタイプ。
しかもよりにもよって一番危惧していた精神系の魔法!
さらに無詠唱……!
やっぱり無詠唱もあったのか……。
本当に、いやなことにだけテンプレだな!この異世界。
ヤバい。このままだと僕、本当に奴隷にされちゃう!
マズ……イ。
これ、症状の継続どころか進行効果まであるじゃないか!
触媒が空気か空間かはわからないが、この場は既に彼女の力の領域。
部屋はさっきよりかなり薄暗くなっている。
半分、僕の瞼が重いせいでもあるだろうけど。
闇の濃度が増すほどに効果も強くなるようだ。
回避しようがない。
部屋を出ようにもガラドルさんが出入り口を防いでいる。
開いた窓も彼女の背後。
部屋の壁を破壊するか? 今更だけれど、そこまですると完全に交渉決裂だな。
せっかく知り合った人たちと対立することになるのは残念だけど。
闘気を一旦パージ! 全力で再チャージだ。
こうなったら加減はしていられない。
全力で『地獄の三警鐘』を。
ジャズやレンダたちが脳裏に浮かぶ。
くそっ!
「…………ッ!? 」
足下が崩落するような喪失感を感じて、全身から汗が噴き出る。
なんでだ!? なんで一気に症状が悪化した!?
ダメ……だ。急激に意識が溶けていく。
身体も弛緩して、せっかく集めた気が中途半端に闘気となって零れていってしまう。
一瞬何故かジョナサンが視界に入った。
目が合って戸惑った顔をされる。
部屋に溢れる溜めていた闘気の奔流。
制御を離れているため、ただの排出。
突風程度で威力はない。
闘気の喪失感、それが睡魔に味方してしまう。
とうとう闘気を全て手放してしまった。
途端に襲う睡魔の勢いが増す。
さっきから何故だ?
追い討ちを……仕掛けてきた様子はない。
もしかして、僕の闘気、これに多少の抵抗効果はあったのか。
身体制御……いや違うな。
じゃあなんなんだ。
…………。
瞼が重くて、勝手に閉じていき視界を暗くしていく。
………………。
暗く……。
そうか。
バカだ、僕。
やりようは……あったんだ……。
多分、これの弱点は闘気の……『光』……だ。
…………。
「やめろ! やり過ぎだ、ジェミリア……!」
「……ふう。いやいやいや。どう見ても正当防衛でしょう、今のは。あなたの大事な美人な奥さん死にかけたわよ? この暴走っぷり。この子、ルルドによく似てるわね。あの子並みに危険な子だわ。少し挑発しただけであの殺気よ? 震えちゃった。でも実力に比べて考えが足らないわ。理解してちょうだいよ。何故、気づかないかな、少年。大貴族と法的に丸裸のまま接触を取っちゃうその迂闊なところを指摘してあげていたの。キミに恩を売っていたのよ? 私」
…………。
瞬きの間に視界が斜めに。
……ジョナサンが僕の右腕を掴んでいた。
……もうまともに立ってすらいないのか、僕。
殺されるのかな。
それとも奴隷にされる?
悔しいな。油断はしていなかったのに。
……でも、好きにすればいい。僕の負けなんだから。
殺そうとした。なら、殺されるのは仕方ない。
…………。
…………。
……先生。
…………。
僕、死に……たく……。
…………。
「アステア群村への所属を許可し、籍を与えます。以降、スグル・アステアと名乗りなさい。ゴブリン討伐への助力。我らアステアの至宝である大事な未来の護剣たちの救助と治療。アステア群村の政を任されている私、ジェミリア・アステア、バルバトスより皆を代表し、心より少年に感謝を。これらへの褒賞と謝礼は、少年の年齢十年と今年のぶんのアステアへの納税、少年が損害を与えた罪や執務室の修理代金、私への慰謝料諸々を差し引いて支払いましょう。褒賞と謝礼だけでは多分足が出るけども、戦利品のほうは馬鹿貴族が抵抗しているから少し時間をもらうことになると思うの。それまで仮の借金になるわね。その間、とりあえずウチで働いて返済してもらおうかしら」
「容赦ねえな……お前。泣かしてんじゃねえよ」
「本当の優しさって理解してもらえないモノなのよね。……少年は世の中と身の程をもう少し知っておいたほうがいいわ。じゅうぶん強いのでしょう。だけど、自惚れが過ぎる。嵌められてしまえば、竜でさえ危ういのだと思い知りなさい。世界は、現実は、人は、少年が想像しているより残酷なのよ?」
濡れた頬を撫ぜられる感覚を最後に僕の意識は落ちていく。
「……可愛いもんだな。寝ていれば」
「あなたは随分と懐かれたわね。昔っから子供ウケがいいのよね、羨ましい」
【六大法典】
元々アヌビスが記した真王法典があり、それを主軸に六つの王朝が時代ごとに改編していったもの。
真王法典は神界の法、六大法典は真王法典に倣った人界の法、という扱い。
天球の人界は、アヌビスに後継を任された血族が治める六王国とその属国・同盟国が六大法典のいずれかを布いており、その分布によって文化は大きく六つに分かれる。
真王法典か六大法典に従わぬ者は神界の法に仇なす蛮族、魔物の一種として扱われる。
各法ごとに特色がある。
奴隷の扱い。
・人権ごと義務を放棄し他者に全てを委ねた人ならざる者。富める人の手足。クチナシ。(グランディア法典)
・前世今世での大罪の穢れを負う人ならざる生まれながらの受刑者。穢れ。(旧皇国法典、寺院教典)
・牙なき者。爪なき者。その血を受け継ぐ仔。獣の誇りを穢す者。死すべき者。(獣王国法典)
六王家の一角、グランディア公国は、グランディア王国滅亡後に旧王国領主たちが興した小国の集まり。
公国盟主であるグランディア公王家は元公爵家。初代グランディア王妃の弟の血筋に当たる。
公国はグランディア王家の滅亡を認めておらず、代々の公王の娘を不在の王の妻、王妃としている。
六王家はアヌビスより人命を司る王権を授与された六人の末裔。
六王家の滅亡=各血統民の死である。
グランディア民が生きている以上、グランディア王家の血は絶えていない。
他の五王家は公国の主張を認めざるを得ない。
【アグニス】精霊火鳥を祀る一族。
赤髪、赤眼、浅黒の肌が特徴。火を纏っても焼かれず、死なないといわれている。
真王法典や六大法典とは異なる独自の法を守っている。
古くより六王家によって蛮族と見做されて迫害を受け続けており、族滅の危機にある。
アグニスの多くは迫害と純血が穢れることを避けて人里離れた森など僻地で隠れて生きている。
赤髪や赤眼を持つ者は冤罪で火炙りにされたため、天球では赤髪は珍しい。
近年では六王家を弾圧する好機とみた寺院によって保護された。
苛烈なる寺院の護手『赤鬼衆』として悪名を轟かしているのは保護された者たちの末裔。
現公王の祖母がアグニスの民の出であり、公王の娘は燃えるような赤髪。
【バルバトス領】
ヌコ族の王族と噂される大領主リベリオンが治める地。
不在の領主に代わり、その義息グランディア王家の末裔のネイサンとその妻ジェミリアが代官を務めている。
かつては死砂海が広がる不毛の大地だったが、豊穣の地アステア樹海を発見して以降開拓が進み、現在は大陸内外の流通の基盤となる一大生産地となっている。
公国に属してはいるが、実質、独立国で、グランディア法典を基に独自の法を布いている。
ただし、歩く横暴居座る治外法権こと他国の貴族が事件を起こせば、六大国に配慮する必要があり、貴族が属す国法典とグランディア法典が適用される。(貴族側の国とグランディア公国の利益不利益によって決まる)
バルバトス領としては自領民と他国民・他国貴族の衝突は極力避けたいというのが本音。
【ガルム寺院】天球に蔓延る一大宗教。
真王(=導師アヌビス)とその昔、真王の域に至ったとされる悲運の旧皇国皇子ガルムを祀っている。
真王法典を曲解させた教えを説き、皇子ガルムを死に追いやったかつての六王家の大罪を責める。
彼らは六王家が祀る真王と皇子の信徒であり、真王や皇子の代弁者を自負する者。
創始者は皇子ガルムの兄で、退位した旧帝国の老皇帝が後世の六王家を諌めるために組織したもの。
高僧の多くは六王家から追放された出家者。出自、境遇から六王家を憎む者が多い。
六王家をもってしても扱いづらい存在。
奴隷を穢れとして扱い、貴人(貴き人、真人へと到る素質と資格を有する者)が触れてはならぬと説く。
結果、王家秘伝の隷属術を占有し、人かならざるかを問う成人の儀を代行して取り仕切り、奴隷市場を牛耳ることで王侯貴族から労働力や財を奪っている。
劣悪極まる奴隷たちの境遇の元凶にして、奴隷の天敵。
真王の再来を請い願う狂信者ばかり。