戦鬼
「くそっ、なんだあの戦鬼、強すぎるっ……下がれ、下がって守りに徹しろ!」
リギア王国の若き騎士クライフ・リーエルは、部下達に距離を取るよう指示した。
そもそもが、積極的に攻勢に出る作戦ではない。
魔王が死ぬまで……魔王が勇者に倒されるまでこの戦線を維持し続け、少しでも多くの魔物をこの場所──魔王城の前に広がる平原に釘付けにする。
それがクライフたち騎士の役目だった。
なるべく長く戦い続けられるよう、最小限の犠牲で済む戦い方をしてきた。
敵が引こうとすれば圧力をかけ、押してくれば柔らかく受け止める。
そういった用兵に優れているからこそ、クライフは平民上がりであるにも関わらず、一小隊の指揮を任され、この戦いに参加していたのだ。
うまくいっていた。
作戦は成功したと誰もが思い、魔族に勝利した後の世界に希望を馳せていた。
しかし、その希望は崩れつつある。
「いいか、あの戦鬼には近づくな! 近づいてきたらその分下がって距離を開けろ! 魔術を使えるものは、重装兵の後ろから魔術を撃ち続けろ! 魔術が使えないものは弓! 弓がなければ石でもなんでもいい、落ちているものを拾って投げろつけろ!」
原因は、一体の戦鬼だった。
もともと、やけに強い個体がいると思って注目はしていた。
体が他の戦鬼よりも一回り大きく、力も強い。
普通ならば緑色であるはずの肌も、その戦鬼は黒く、変異種か上位種だと思われた。
しかし、戦い方は戦鬼の例に漏れず、力任せで単純なものでしかなかった。
剣は棍棒のように振り回すだけだし、盾は馬鹿正直に攻撃を受け止めるだけ。
簡単に倒せる相手ではないが、この戦に臨んでいるのは歴戦の勇士ばかりだ。
押さえ込める。そのはずだった。
「駄目です! 魔術が盾で弾かれています! 投石も効果なし!」
「くそっ!」
手がつけられなかった。
どうしてこうなったのか、まるでわからない。
ほんの少し前まで、あの黒い戦鬼を含めた戦鬼部隊を、完全に押さえ込むことができていた。
何人か怪我人は出たものの、命を失うまではいかず、少しずつだが数を減らすことが出来ていたのだ。
このまま倒しきれる。
そうクライフが確信した直後、異変が起こった。
戦鬼達が、いや、この戦場に存在する全ての魔物達が、急に動きを止めたのだ。
あれほど明確な殺意を持って向かってきた魔物達が、糸の切れた人形のようになった姿は不気味ですらあった。
突如として訪れた、魔物たちの自失。
状況は飲み込めなかったが、このチャンスをふいにするほど無能な者はここにはいない。
各部隊は、機を逃さず攻勢に打って出た。
クライフも自分の小隊に突撃の号令を掛け、動きを止めた魔物達を屠っていった。
戦鬼達も次々と倒れていく。
これまでの苦労はなんだったのかと思うくらい、兵士達は容易く戦鬼を仕留めていった。
そして、いよいよ黒い戦鬼を貫こうと、槍兵が槍を突き出した瞬間。
槍兵の首が飛んだ。
頭を失ったことが分からないのか、槍兵の体は動きを止めない。
心臓が頭に血液を送ろうと、噴水のように血を吹き上げ続ける。
前に進もうとする足は止まらず、一歩、二歩と血を振りまきながら歩き続け、三歩進んだところで、ようやく槍兵は倒れこんだ。
一瞬にして、空気が凍った。
今までの粗暴な戦い方から一転して、戦鬼の動きはあまりにも鮮やかだった。
そして、もたらされた死は、あまりにも凄惨だった。
しかし、兵士達の思考が停止したのも一瞬のことに過ぎない。
仲間の仇を取ろうと、黒い戦鬼の正面から、槍兵が槍を突き込む。
そして、側面からは時間差で戦士が斬撃を叩き込んだ。
ほぼ同時に放たれた、二方向からの攻撃。
だがそれは、新たな二つの死を生むだけだった。
剣の柄で殴られた槍兵の頭は潰れて体の中にめり込み、盾で弾かれた戦士は巨大な落石にでも直撃したかのように吹き飛ばされ、そのまま動かなくなった。
その光景は、歴戦の兵士たちの動きを止めた。
いや、歴戦であるからこそ止まらざるを得なかった。
先ほど戦鬼が放った斬撃はまぐれではない。そう、証明されたからだ。
瞬く間に生み出された三つの死は、兵士たちが前に出るのを躊躇わせるのに十分な衝撃だった。
兵士たちが恐怖を宿した瞳でその姿を見つめる中、黒い戦鬼は、ひとつ、呼吸をした。
まるで武人が呼吸を整えるかのような、静かな呼吸だった。
そして、動きを止めた兵士たちに鋭い視線を向けると、大きく一歩踏み出した。
そこからは、一方的な殺戮だった。
すでに、二十人以上が斬り殺されていた。
しかもそのほとんどが、上下左右に両断されている。
目を背けるほど凄惨な死体が、次々量産されていく。
全身鎧で身を固めた重装兵すら、肩、首、膝などの可動部にある僅かな隙間から斬り裂かれ、部分ごとに大地に転がっていた。
あまりにも、実力に差がありすぎる。
すでに『戦って勝つ』という空気は失なわれていた。
それでもクライフは、血が滲むほどに歯を食いしばり、『撤退』の二文字を飲み込んだ。
例え全滅したとしても、退くわけには行かない。
勇者が、今も魔王と死闘を繰り広げているはずなのだ。
もう迷っている暇はなかった。
こうしている間にも死者は増え、打てる手が少なくなっていくのだ。
クライフは……小隊を使い潰す覚悟を決めた。
守りを捨て、重装兵に突撃させる。
そして、彼らが切り刻まれている間に、範囲魔法で彼らごと吹き飛ばす。
それで倒せるかどうかは分からない。
しかし、少なくとも手傷は負わせられるはずだ。
あれだけの戦闘力を持つ化物を、魔王と戦っている勇者の元に向かわせるわけにはいかない。
それだけは、なんとしても阻止しなければならなかった。
「重装兵は……」
──密集隊形を取れ。
そう続けようとした言葉は、クライフの肩に手を置いた何者かによって遮られた。