天を仰ぐタンジョウビ
庸介が振り返った先、男は未だ倒れていた。
しかし音がない。
傷口は塞がっていた。
赤く膨れ上がった肢体も、色と形が人間に近づいて戻っている。
ようやく終わったのだろうか……などと思うことはできなかった。
「ははははははははは――」
機械的に、狂ったように、男は声を上げて笑っているのだ。
それは、狂気としか思えなかった。
「アンタ、誰だっけ。どっかで見たことあるんだよな」
仰向けに夕空を仰ぎながら、霧島が庸介に語りかける。
先ほどまでの獣臭さはない、普通の人間の話し方だ。
「俺か? 俺は……」
「ああ思い出した。あの店の店員だ。デカくて荒っぽくて、怖かったなー」
「だから、なんだよ……」
頭の中で警告音が鳴っている。
逃げなければ死ぬと宣告している。
しかし、逃げられるはずがない。
「アンタには感謝してんだよ。熱くて熱くて堪らなかったからさ。冷やしてくれて助かったよ。けど……正当防衛って言えるよな、ナイフで切られたんだからさ」
「クッ――!」
殺さなければやられると踏んだ庸介は、相手が立ち上がるより先に斬りかかった。
「やべっ――!」
しかし、振りかぶった庸介の腕から、ナイフはすっぽ抜けた。
原因は、蒸気のもう一つの効果。
ジットリと濡れた掌が、元より滑りやすい質のグリップを遠心力で制御の外へ押しやる。
それを見た瞬間、後方で事を見守っていた黒壌弥が全力で逃げ出した。
籠堂庸介もまた、彼方へ飛んでいくナイフを追う前に逃走を始める。
「なんだよ、殺らないのか? それだけの図体で逃げるなんてダッセェなあ」
「ウルセェ! 戦略的撤退だ!」
背中に向かって煽る霧島顰に反論しつつ、庸介は全力で走る。
未だ崩れ悶える群れを、迷いもなく踏み抜いた。