ヨイヤミの蒸発男
白煙が糸を引く。
勢い良く振り抜かれる右脚が、敵意を剥き出す蒸発男の腹部目掛けて大きく撓る。
革製の鞭かと錯覚させる靱やかさに、鉄柱のように重々しく蒸気を一閃する庸介の蹴りは、達人業にも思える美しいフォームだった。
間違っても腹部に当てて止めるようなミスはしない。
蒸発男の動きが緩慢な内に蹴り抜いて残心を取らねば、身体の部位のどこを掴まれても死が確定するからだ。
僅かでも浮いてくれれば良し。内臓を殺れればなお良しだ――。
脚の抜き方は熟知している。迷えば死ぬ。極限のスリルの中で、庸介は笑った。
ただ一つ、予想外だったのは――。
庸介は、相手がヒトを"外れた"意味を、真に理解していなかったことだった。
「グッ――!」
腹部へのめり込みとダメージを確信したところで、庸介の視界は再び白く染まった。
肩口から、高温の蒸気が発せられたのだ。
短い呻きが漏れた後、強烈な痛みが庸介の身体を覆う。
顔が焼けている――蒸気の詰まった肉袋を叩いたのだから吐き出されることは然るべきだが、庸介に怪物と戦った知識がないことが状況の不利を呼んだ。
パーカーやジーンズの中まで入り込んでくる熱に、発狂寸前で庸介は足を振り抜いた。
蒸発男は感覚が鈍いのか、ワンテンポ遅れてからその場に蹲る。
「クソっ――もう一発は無理か……」
蒸発男の肉は柔らかかったが、驚くほどに高温だった。
右脚のジーンズが焼け落ちるほどの熱を受けても平然と立ち上がるのは、人間離れした庸介にしかできない芸当だろう。
「だからって、ニンゲンじゃねーやつには敵わないがな……」
庸介は頭を回した。
先ほどの蒸気で、顔の左側が焼けた。瞼が焼き付いて、左目が開けない。
……果たして、この状況でどうやって怪物から璃子を攫って逃げ切るか。
打撃は効くようだが、こちらがステゴロでは一撃ごとに馬鹿にならない代償を支払わなければならない。
そんな状態では逃げ切れるものも逃げ切れない。パーカーのポケットを探るが、ろくなものは出てこなかった。
これはまさしく"詰み"ってやつかもしれない。
「――んぁにやってんだ! バイト!」
白煙の中から妙に裏返った黒壌弥の声が響く。
アイツ、まだそこに居たのかよ……バカが。
怒鳴り返そうと振り向いたとき、白煙を穿ったのは、黄昏に暗く煌めく小さな白刃――。
「っぶねっ!」
庸介が手に取ると、"ソレ"は刃渡り5cm程度のバタフライナイフだった。
「ロックもしないでぶん投げやがって……イメージ通りの陰湿な武器持ってんな、黒壌。だが……助かる」
正直、5cm程度のリーチで何が変わるかは分からない。
だが、薄く研がれた刃の殺傷力を持ってすれば、片腕を犠牲にする程度で蒸発男を殺れる可能性がある。
0%が1%になるのは大きな違いだ。
庸介はグリップを器用に指に掛けて回した
。
以前所持していたモノに近い刃渡りとグリップの滑り具合。手に馴染んでいくのを感じる。
「この刃、よく手入れされてんな……」
所詮知性を失った獣なのか、蒸発男は名の通り軽やかに舞うバタフライナイフを見つめて動かない。
ナイフを弄んでいた庸介は、唐突に蒸発男に肉薄した。
滑り込むように懐に入り、両の手でナイフを支えながら通り抜けざまに一閃――。
的確に柔らかい部位を狙って刃を入れていく。
ブチブチと筋繊維を断つ感触が伝わって、庸介の身体は気色悪さに震えた。
案の定、切り口から血液の代わりに蒸気が漏れ出す男の身体。
しかし、それを理解した上で庸介は飛び込んだのだ。
蒸気が噴き出すより速く、庸介の巨体はその高温の範囲を抜けた。
「ヒギャァアアアァア!!!」
蒸発男が叫びながらひっくり返った。先ほどのミドルといい、奴の痛覚は人並みにはあるらしい。
バタバタとのたうち回りながらこちらに白目を向け、前に進もうとするも上手く立てないようだ。
「蒸気が漏れ出す状態じゃ、ろくに身体を持ち上げることもできねえか?」
庸介は、この肥大化した男が立っていられる理由、そして電子を襲った速攻におおよその検討を付けていた。
先ほどから一向に止まらないこの蒸気が、体勢の制御から攻撃までを担っていたんだ。
破れた風船のようになって転がるバケモノは、なんと滑稽なのだろうか。
如何ゆえか人道を外れても、人の持つ凶器にすら勝てないとは。
拍子抜けする感覚に薄笑いを浮かべながら、庸介は地上に降りた雲の下の天音璃子を探した。
電子の傍にいたのであろうことは明白だったので、手摺の下に手を伸ばせばあっさりと赤髪の少女を見つけることができた。
「オイ、大丈夫かよ」
軽く声を掛けると、下から呻き声が聞こえる。
どうやらあの近さでも、生きていたようだ。
「アイ……ツ、は……ッ」
璃子がしゃがれた声で、苦しそうに言葉を紡ぐ。
もっと色気のある低音ボイスだったはずなのに、蒸気で焼けてしまったのだろうか。
つくづく、クソッタレな蒸発男だ。
「いつつ……今更になって顔が痛むわ……。まあ、アイツならもうじき死ぬぜ。血液が蒸発してんだか、血液の代わりに蒸気が詰まってんだか知らねえが……どっちみち腹を裂いたんだ。いずれ失血で終いだ。鍋牛電子の方も、黒壌が必死こいて抱えてるよ」
黒壌(万引き犯)のお陰で助かったなんていうのはかなり癪だが、事実、助かった。
庸介が、今度こそ安堵で力を抜く。
「ちが、う……そんなんで、死ぬ、わけな、い……」
「いいから、立てねえのか? ったく女のガキは根性ねえなぁ……」
蒸気が晴れてきた。
璃子の姿を捉えた庸介は、右手を彼女の腹に回して抱え上げた。
そのまま肩の上に乗せると、両目をやられた璃子の姿が視界に入った。
「これは……ひでえな……」
電子や庸介と違い、璃子は地上で最初の水蒸気爆発を受けた。
その後も、庸介が戦う傍で倒れていた。
庸介は瞼を焼かれただけだったが、璃子は眼球そのものを焼かれたのだ。
生きてる方がオカシイくらいの激痛のはずなのに、彼女は辛うじて生を繋いでいる。
「……悪かったな、根性ねえとか言って。今すぐ医者に連れてって――」
「ちが……お、とッ……」
庸介が言い切る前に、璃子は何かを訴えた。
おと? 音のことだろうか。
それが一体――。
「ッ――!」