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自分の身体が大仰に震えたのがわかった。
――まさかもう、釣れたのか?
だとしたらありがたいが、全くもって覚悟ができていない。
この暗い路地裏に入り込む決意は固まったものの――あの黒い幻覚と会話する覚悟は情けないことにまだ出来ていない。
それでも。
と勢いよく振り返る。
あたしの肩を掴んだその人物は、小さく声をあげて一歩大きくその場を離れた。
「……なんだ、お前か」
私の肩を掴んだのは黒い幻覚ではなかった。
見慣れたふわふわの金髪をフードに押し込んだ気弱そうな少年、あたしの友人達、もう4人しか残っていない疾風隊の生き残りのうちの一人である。
「……こんなところで、何やってるの」
小さな声でぼそりと問われる。
声は小さかったけど、いつもよりも声の調子が強かった。
別にお前には関係ない。
そう言ってしまってもよかったけど、そう言う直前にやめて短くその問いに返す。
「釣り」
「……釣り? 何を釣るの?」
あまり深く考えずに返した言葉に突っ込まれたので、数秒だけ考えて答える。
「……黒い幻覚を」
「……?」
「説明、必要?」
いやわけわかんないし、という顔で首を傾げた金髪に小さく溜息をついて聞いてみると、奴は首をこくこくと縦に振った。
周囲に人はほとんどいなかった。
この先もだが、ここはもともと人通りがとても少ないからだった。
だから、私はそれほど声をひそめることなく話し始める。
「この話、母さんとうちの宿屋の人には話さないでね。母さんが知ったら多分混乱するし……オーナー達には……こっちが探ってる事を知ったら多分止めてくるから。いい?」
「……うん」
曖昧な表情だがしっかり首肯したので話すことにした。
こいつのことだ、あたしが危険だと判断したら速攻でチクリそうだけど……そこまで危険な話じゃないし、大丈夫だろう。
「物心ついたときから、うちの母さん、時々飲めもしない酒を浴びるように飲むことがあるんだ……浴びるようにとは言ってもどこぞの酒豪と比べるとそんなに飲まないし、酔ったところでちょっとぐずってすぐに寝ちゃうから別になんともないんだけど」
「……え? あのおばさんが?」
意外そうな顔でツッコミを入れた金髪に、確かにそんな風には見えないだろうと思う。
「うん。といっても多くても月に一回、平均で数ヶ月に一回程度なんだけどさ」
「うん……大丈夫?」
心配そうな顔をしているのはあいつを殺したあの男がアル中のクソ野郎だったからだろう。
「だから、言ったでしょ? ちょっとぐずって……泣いて、すぐに寝るだけ。絡んでくることもないし、暴力なんて絶対にない」
そこまで言って奴は少しだけ表情を和らげた。
「そっか……そうだよね」
あのおばさんがそんなことするわけない、と小さなつぶやき声が聞こえた気がした。
「それで、なんでそんな風に酒を飲むかっていうと……幻覚を見るんだっていうんだ、黒い髪で、黒い目の幻覚が」
「幻覚……?」
またあいつがいた。
またあいつが見えた。
酒を飲んでぐったりとしているお母さんが時々そう言っているのは昔から知っていた。
そうやって飲みつぶれて、涙を流しながら眠りにつく母の姿を何度も見た。
それでも、今まで詳しくそのことについて聞けなかったのは、触れてはいけない気がしたからだった。
「その辺りの理由を聞いたのはちょっと前のことだったんだけど……それを聞いて、驚いた」
「……何に?」
言われた直後には気付かなかった、それでも。
黒い髪に黒い目、その幻覚の特徴を聞き出した時、その事を思い出した。
「……あたし、多分その幻覚……何度も見てる」
そう、物心ついたときから、その黒い影はあたしの側に存在していたのだ。