嘘なんてつかない方がいい。
フライングエイプリルフールネタ。
11時30分。
腕時計を見て約束の時間になった事を確認すると、
クジャナ・イエラブルクは目の前の扉を3回ノックした。
「ラングスハウスキーパー協会のクジャナ・イエラブルクです。本日もお仕事をしに参りま––––」
「クジャナちゃん!待ってたよ!」
言い切るよりも先に扉が勢いよく開かれ、いつものように弾んだ男性の声がクジャナを出迎えた。
そしてクジャナもいつものように眉を顰め、こう言い放つ。
「グレアム様、その馴れ馴れしい呼び方は止めてくださいと散々言っているじゃありませんか。」
「まあまあ、そんな堅いこと言わないで。」
「ですが、」
「そうだ!早くお昼作ってくれない?もうお腹ペコペコでさ。」
そう言うとクジャナを出迎えた男は、紙で溢れて足の踏み場のない床を器用に歩いて奥へクジャナを案内した。
いつも通りのその光景に、クジャナはこっそりため息を1つ吐く。辺りにはグシャグシャに丸められた紙や書きかけの原稿、乱雑に置かれた本などが散らばっていた。
(毎度思うけれど、たった1週間でどうしてここまで散らかせるのかしら。)
先ほど出迎えた男–––ノア・グレアムはハウスキーパーであるクジャナの雇用主だ。
ノアは売れっ子の小説家で、書くのに集中すると何も手につかなくなるため、こうして週に一度ハウスキーパーを雇って呼んでいるのだ。
「締め切りが近くてさ、4日前からまともな食事を食べてないんだ。」
ぐぅぅぅぅとノアのお腹が空腹を主張する。
だが、クジャナはその音を聞いても首を縦に振らなかった。
「まずお掃除が先です。」
「ええー!ひどいよクジャナちゃん。」
「あのキッチンを見てもそれが言えますか?」
クジャナの細い指が指した先にあるキッチンは、黒く焦げ付いたフライパン、何枚も積まれた皿、シンクにこびりついた汚れで見るも無惨な状況であった。
「……先に掃除でいいよ。」
「任せてください。」
こうして、今日もクジャナの仕事は始まるのだ。
◇
「そういえば、今日はエイプリルフールだよね。」
昼食を済ませた後、食後のお茶を楽しんでいたノアはそんなことを言い出した。
すっかり綺麗になったシンクで洗い物をしていたクジャナの手が止まる。
「今日はまだ誰にも嘘をついてないなぁ。」
その言葉が意外と近くから聞こえることから、ノアが背後にいるのだろう。
泡だらけの手を流し、手を拭きながらクジャナは後ろを振り向いた。
案の定、ニヤニヤと締まりのない顔をしたノアがそこにいる。
「嘘なんてつかない方がいいですよ。」
「まあまあ、そう言わずに。」
そう言うとノアは顔をキュッと引き締めた。
「クジャナちゃん…、俺、実は隠し子がいるんだ。」
「えっ」
「待ってこの流れでどうして信じちゃうの」
驚き目を見開いたクジャナを見て、慌ててノアは否定する。
「グレアム様ならやりかねないな、と思いまして。」
「どういうこと!?」
失敬な!と口を尖らせ拗ねるノアに背を向けて、1つ溜め息を零すとクジャナは再び洗い物に取り掛かった。
実際、ノアの嘘は全くありえない話ではないのだ。
クジャナの5つ下の19歳のノアは所謂若盛りというやつで。
売れっ子の小説家という肩書きに加えて顔が整っているお陰か女性にも困っていないのだろう、ハウスキーパーとしてここに来始めた頃、ノアより長い髪や紅のついたコップなどを度々目にしたのでそれは明らかだった。
はじめ、この勤め先を紹介してくれた協会の人の受付のオバさんはノアの噂を聞いてクジャナが手を出されやしないか心配してくれていたが、その辺の線引きはちゃんとしているようだ。
2年ほどここで働いているがクジャナは手など出されたことはないし、クジャナ自身も5つ上の行き遅れの地味で堅物な女など興味も湧かないだろうと思っている。
(嘘、か…。)
ふと洗い物の手が止まる。
「隠し子がいる」なんてベタな嘘ではあるが、どうにもつかれっぱなしでは気が済まない。
妙な対抗心が心に芽生えたクジャナも、1つ、ベタな嘘をついてみることにした。
「そういえば、グレアム様。」
「何?クジャナちゃん。」
お茶を飲み終えたカップを持ったノアがやってくる。
「私、結婚が決まりました。」
–––ガシャン。
返事にしては随分と無機質で嫌な音が返ってきた。
「っ、グレアム様?」
驚いて振り向くとノアの足元には先程までカップだった残骸が散っていた。
ノアは目を見開き固まっている。
「お怪我はありませんか!?」
「あ、ああ…、」
「破片を片付けますから、グレアム様は離れてください。」
「……うん。」
のそりとノアはその場を退くが、いささか覇気がない。クジャナはお気に入りのカップだったからだろうと見当をつけた。
「カップはまた新しいものを買ってきますね。」
「……」
「グレアム様?」
「……相手、誰なの?」
「え?」
「結婚相手。」
そういえばそんな嘘ついてたなと思い出す。割れたカップに気を取られてすっかり忘れていた。
「結婚は嘘ですよ。グレアム様に対抗してみたんです。」
意外と騙されやすいのだろうか、その辺はまだまだ若いなとクスリと笑ってクジャナはノアを見た。
……が。
「……いや、嘘だね。言いにくいからエイプリルフールに乗っかって報告したんだ。」
「ええっ!?」
斜め上すぎるノアの考えに、クジャナは先程思ったことを撤回する。彼は大分捻くれているようだ。
「ほ、本当に嘘でっ、」
「何、言えないような相手なの?」
相手も何も結婚自体が嘘なのだから、言いようがない。何故かいつもより抑揚がなく淡々と言葉を吐くノアに、冷や汗がクジャナの頰を伝う。
ギッと床が軋む音がする。ノアがクジャナとの距離を詰めたからだ。
「ち、近いのですが、グレアム様。」
「年の差は?俺より背は高い?稼ぎは?クジャナちゃんを十分幸せにできる?」
「グレアム様!いい加減にしてください!」
何故ノアの方がそこまで気にしているのだ。
やたらと自分と比べて条件を数え上げるノアに、クジャナは語気を強めた。
「本当に私は結婚していません!先程のはエイプリルフールの嘘です!」
「……」
「…まだ信じていませんね。」
「…本当に結婚してないの?」
「はい。」
「本当の本当に?」
「しつこいですよ。」
思わずクジャナは半目になる。
何が楽しくて雇用主に自分の行き遅れを再確認させられなければいけないのか。
「もう気が済んだでしょう。そろそろ作業に戻ってはいかがですか。」
「嫌だ。」
「そんなことを言って、締め切りが近いのではないですか?」
「クジャナちゃん、俺のとこにお嫁に来なよ。」
「は?」
全く会話が噛み合っていない。
あまりのことに、クジャナも思わず素で返してしまった。
「じっくり攻めようと思ってたけど、そんなタチの悪い嘘つくくらいに意識されてないんだなってことが今分かった。」
「一体何を言って…、」
ジリ、ジリ、とまたもや距離を詰められ、嫌な汗がクジャナの背を伝い始める。
ノアの表情も言葉もいつも通りなのだが、いかんせん雰囲気が黒い。
「気付かなかった?俺、もう随分前に女関係全部切ったんだよ。本命ができたから。」
「そ、それは良かったですね…。」
そう言われると、来始めた頃には度々見かけた長い髪や紅をここ最近、否、もう1年ほど見ていないような気もする。
「今回は嘘だから良かったけど、外堀埋めてる間に何処の馬の骨ともしれない男に掻っ攫われちゃ元も子もないよね。」
「っ、グレアム様、さっきから顔が近くはありませんか?」
「うん。近づけてるからね。」
あっという間にすぐ近くのシンクまで追い詰められ、左右に逃げようにもノアの腕が邪魔して身動きが取れない。
腕を退かそうと試みるも、ビクともせず、今更ながらに年下であるノアも男性なのだと自覚する。
「グレアム様?これもエイプリルフールの嘘、ですよね?私のように5つも年上の行き遅れを嫁になど、」
「さあ?嘘かどうかは自分で確かめてみたら?」
そしてゆっくりノアの顔が近づき–––––––
クジャナは「嘘なんてつかない方がいい」という数分前の己の言葉を身に染みて感じたのだった。