雪が昇る日
最近、寒いですね
煉瓦作りの街並みも、もう既に何万回と見て、流石にそろそろ見飽きていた。
少年は石畳の通りを蹴って歩き、遠く曇る、浅黒い空を見上げた。
マフラーと手袋をしていても、肌を突き抜ける風は身を凍らせるほどに冷たく、道行く人は今日中にでも雪が降るのではないかと、そう話していた。
少年は、風を気にしてか、人の気配を避けてか、ふと気が向いて路地に入る。
そして、誰もいないその場所で、白く濁る息を吐いた。
「―――……寒いね」
ポツリと水滴のように微かな、それでも辺りに響く声に少年は驚き、声の主から数歩退いた。
その人物は、少年と同じ頃の少女だった。この辺りの人には見られない真っ白な髪色に、生きているのかも不安になる白い肌。
しかし、何よりも奇妙な特徴といえば、彼女の身に付けている衣類の方だろう。この季節に対する挑戦のような、薄いワンピース姿は発言と矛盾している。
少年は悴んだ口をぎこちなく動かし、少女に尋ねる。
「誰? どこから来たの?」
少年の問いは空に吸い込まれ、反響することなく少女に届く。少女は、薄く桃色に染まる唇を微笑ませ、優しく少年を見た。
「知らない人に名前を教えるわけないでしょ。常識をわきまえなさい」
真冬に袖のない服を着る少女はそう言った。
まあ、確かにそうかもしれないが、明らかに迷子とか、そうでなくとも犯罪の臭いを漂わせる出会いだったから、何とかして交番にでも連れて行きたいのである。
「そうだったね。じゃあ、僕が名乗ればいいかい?」
「そうね。考えてあげるわ」
「僕はカルタ・カギノキ。これで、君の名前を教えてくれるかな?」
「イヤよ」
……ダメだ、僕。女の子を殴ってはいけない。
「どうしたらいいのかな? 僕は君と仲良くなりたいんだ」
「どうもしなければいいじゃない。私、貴方に興味ないの」
さて、どうしたものか。
こんな人気のない場所で一人は危ないのだが、かといって気絶させて無理やり運んだら僕が危ない人だ。
カルタが腕を組んで考えていると、少女は思い出したように目を輝かせた。
「そうよ! 貴方、この街を案内してちょうだい!」
「え、嫌だけど」
考えなしに答えると、途端にムスッとふてくされる少女。仕方ないと、カルタはあからさまに嫌そうな顔で訂正する。
「あー、いや、案内ね。やるよ、やるさ、やりますともさ」
「そうよね。照れ隠しだったのよね、許すわ」
「……」
真顔である。
交番まで案内するとしよう。
■■■
街道を歩く二人の姿を、道行く人々は微笑ましそうに見ている。
理由は分かっている。
カルタは自分の手に目を向けると、白く綺麗なもう一つの手が、捕まえて離してくれない。
少女曰く、迷子になられると困るから、らしい。
こちらも同じ意見で逆方向に持っているから、別に構いはしない。ただ、やたら降り掛かる視線のぬるさが気持ち悪くて仕方ないのである。
兄妹か何か……いや、外見が違いすぎるから、カップルか何かに見えているのだろうか。
「ねぇ、カルタ! 私、パン屋さんを見たいわ!」
「別にいいよ、えーと……なんて呼べばいいかな?」
「……教えないわよ?」
「いいよ。でも不便だ」
「面倒な男ね」
性格がお揃いだね。
「でも確かに不便ね。……私のことはユキと呼びなさい」
「ユキ、ね」
これほどまでに衝動的だとユキというよりユゲという印象だ、そう思っても声には出すまい。
命令されるがままに、冷たく血の気の少ない手を引くと、傍目を気にして渡したコートを揺らしながら、ユキは楽しそうに足音を鳴らした。
「そういえば、パン屋に何か用があるの?」
「いいえ。あるとすれば、興味があるわ」
「興味? この国に来たのは初めて?」
「ここで生まれて、ここで育ったわ。病気のせいで外に出たのは初めてだけど」
病気と聞いて気まずさを感じ、言葉が渋滞する。適当に、何の心遣いもなく慰めることが善意であれば、どれだけ楽だったろうか。
無言が続く前に、ユキは尋ねる。
「貴方はどうなの? 黒い髪なんて珍しいわよね」
「……僕はここから離れた国から来たんだよ。もう何年も前だけど」
「そ。じゃあ、ほとんど私と同じようなものね」
違う気がするが、否定する意味はない。
そうこうする内に、パン屋に着いた。美味しそうな薫りが鼻をくすぐり、腹が鳴りそうで困る。
そういえば、まだご飯を食べていない。
しかし、今は金を持っていないため、観察するだけと心に決めて、案内人として扉に手をかけた。
「ここね。美味しそうなパン!」
「悪いけど、買ってあげないからね」
「自分で買うからいいわよ」
そう言って、店の中を楽しげに見回しながら、他の客の見よう見まねでトレイとトングを手に持つ。
下手過ぎる。ぐらぐらと不安定で、あれでは落としてしまうと思い、カルタはユキからそれらを奪った。
「どれが食べたいの?」
「ふふん、いい心掛けね。誉めて使わすわ」
「そんなパンはないよ、お嬢様」
呆れた様子で言うも、ユキは楽しそうにパンを指差し、選んでいく。
一個二個三個……一人で食べられるのだろうか。
お会計のために店員さんにトレイを差し出すと、ユキはお札を数枚レジに置いた。
親が子供に渡すような額ではないため、店員さんが不審そうな目で見てきたが、何も言われることなく店を出ることが出来た。
「美味しそうね、カルタ」
「そうかもね」
曖昧に返すと、袋からパンを取りだし、2つに割って片方をこちらに近づける。
「じゃ、半分」
「……?」
「報酬よ。ただで案内させるなんて、私がさせるはずがないじゃない!」
初対面だから当然知らない。
しかし、受け取らない理由がなく、空腹を満たす唯一の手段として、それを手に取った。
噛み締める小麦の味は、忘れていたものを思い出させるようで、心から美味しいとは思えない。
歩きながら、ユキは食べるのを止めて尋ねる。
「カルタ、この街は好きかしら?」
「普通じゃないかな。好きでも嫌いでもない、そんな普通」
「こんな素敵なパンがあるのに?」
「パン好きとは限らないだろ。僕は米派だ」
「米? ともかく私が好きなら、好きになりなさい」
なんて横暴だろうか。
カルタはしばらくの間、逆らうことをせずに、貰った分を返そうと、ユキの思う通りに街を案内した。
そして、一通り願いを叶えると、当初の目的通り交番のある大通りに出た。
ようやく、面倒が終わる。
そう思った矢先、向こうから黒いスーツの男達が歩いてきた。すると、僕の体は後ろに引かれ、次に出した足は後ろに下がった。
「どうした?」
「あっちの方が楽しいわよ。行きましょう」
「どこのセールスだい。怪しいお店に近寄ったらダメだよ」
「そんなのじゃ……あっ、来た!」
「うわっ……」
ユキが走り出すと、黒服の男達も走り出す。
なるべく、面倒で厄介で、僕の困るような事態が起きたときには手を離してほしいのだが、細い腕は見かけ以上に筋肉があるらしく、ほどける気配がない。
これでは、料金を上乗せしなくてはいけないな。カルタは握られた手に力を込めて、慣れた街を縫うように先導した。
路地を抜け、塀を越え、藪の中を潜る。子供にしか出来ない軽業に、男達は徐々に数を減らし、やがて背後に見えなくなっていた。
そうして来た先は、野良猫達がたむろする橋の下で、彼らが諦めるであろう時間まで待つことにする。
待ち時間は暇で、猫との会話は長続きするはずもなく、必然的に目の前にいるもう一人に言葉が向けられた。
「ユキ、君は誰だい?」
「…………教えないわよ」
「僕が助けた君の正体を、知ろうとするのは悪いことではないだろ。教えてくれないのなら、今すぐ大きな声を出すよ」
本当はそんなことをするつもりはない。この安息の地を手離すのは、少しばかり大きな罪を負うよりもつらいのだから。
そんな意図を知らないユキは、唇を噛み、喉の奥を割るように言葉を紡いだ。
「私は、そこそこ偉い人の子供なの。どれくらいなのかは分からないけど、偉そうに出来るくらいのね」
それなら黒服は使用人か。気位の高い態度は納得出来るのだが、今は真逆でしおらしく、水気の取られた花のように健気に見える。
「病気って言ったでしょ。私の病はその人の子供でいること。どれだけ息を吸っても息苦しいの、そんな環境が私の悩み。贅沢過ぎて笑われるの、どれだけ泣いてもね」
「本当に贅沢だ」
嘘が苦手なわけではない。嘘でも同情するべきだと思った。でも、嘘をついてはいけない気がした。
「僕は病気だった。重い病気。お母さんがお金を出して、この国で手術を受けさせてくれて、何とか生きている。けど、去年死んじゃって、お金も家も、家族も何も、全部無くなった」
足元を猫が撫で、横から風が押してきた。いつもより寒い肌は、コートよりも重いものを無くしている。
「有ることが辛いのは分かる。でも、無いのはもっと辛いんだ。有るものは捨てればいい、無いものは作らなければダメなんだ。誰もくれはしないのだから……」
少し視界がぼやけてきて、意識が空よりも高く飛んでいく。僅かに着けた足元はぐらりと揺れ軋む。
「……ごめん。ちょっと疲れた……かも……」
「カルタ? カルタっ!」
どこか遠くで声が響く。
辛そうで、昔聞いた母の声に少し似ていた。
■■■
起きたときには母が居た。布団で寝る僕に、優しそうな目を向け、何もしていないのに、頭をそっと撫でてくれる。
僕は尋ねた。
「僕はどうなったの?」
母は長い睫毛を瞬かせ、瞳の中の光を揺らす。
「一人になりました」
「知っているよ。だから頑張った」
「知っていますよ。そして二人になりました」
「でも、一人にしてしまった」
「でも、残しましたよ」
ぼんやりと沈む思考の海を、迷い探るように言葉を交わす。懐かしいような、悲しいような。
目を伏せて、母は言った。
「カルタ、私は何もあげられません」
枕を擦るように、震わせるように、伝える強い意思をもって頭を振る。
そして、熱に浮かされたときのような、痺れた声でカルタは言う。
「貰ったよ、たくさん」
「……ありがとうございます」
母が手を握る。温かく、寂しげで、どこかに行ったはずなのに、どこにも行かないように思わせる。
意識が昇り、瞼の裏から光が射し込んだ。
■■■
薄く開いた目を左右に動かすと、高い天井と、広い窓が写った。天国にしては狭すぎるし、地獄にしては豪華だ。
動かそうとする体は柔らかな綿の感触を得て、とりあえず死んではいないと悟った。
体を起こそうと手を引くと、温かな存在に気がつく。
黒目を右に移動させると、見覚えのある髪の毛が、寝息と共にふわりと揺れていた。
「ユキ……」
声を聞いた少女は眠たげに目を開き、カルタを見る。次に驚きに輝かせた笑みを見せる。
「カルタ!」
跳び跳ね、抱きつく少女は温かく、頬が焼けるようで悔しくなる。
よかったよかったと、しきりに繰り返される単語は、自分が貰ったものを表していた。
声にするなら、言葉にするなら、想いにするならば、どんなものが合っているのだろう。
それは不明瞭で、存在を忘れるくらいに当然な一言。
「暖かいよ」
窓の向こう、空の曇りは晴れている。
読了ありがとうございました(^^)
いつも貴方に春がありますように、冬の夜空からお祈り申し上げます