第96話・知らない婚約者
【お詫び】
第95話となっておりました。
正しくは96話です。
ミスに気付かないままで居た事
訂正が遅れてしまった事、申し訳ございません。
今後はこの様なミスが起こらない様に気を引き締めて参ります。
尾嶋 博人。
海外研修から帰ってくる青年の帰国が今日だった。
長年社長秘書を勤めている石井曰く
彼は誰よりも繭子が可愛がっていた、青年らしい。
相変わらず、悪魔は人を取り入るのが早い。
(___自分自身のお気に入りを早くも置いていたのね)
どう声をかけようか。
連日の報道で、社長は気が滅入っている筈だから。
久しぶりの再会に、博人は内心どうすればいいのか迷う。
社長はどうしているだろうか。
「失礼します」
社長のデスクの傍らに立っていたのは、女性。
誰だろうかと見知らぬ彼女に視線を向ける。
彼女もまた、此方に視線を向けた。
視線が、交わる。
長身で華奢で、凛として何処か憂いのある整った顔立ち
と凛とした雰囲気を持ったすらりとした清楚な出で立ち。
(____綺麗だ)
あまりの
その美しさに息を飲んだ。
しかし我に返ると、社長の姿が見当たらない。
「あれ、社長は……………」
くす、と微笑を浮かべた彼女は近付く。
「初めまして。
驚かせてしまう結果になってごめんなさい。
今、森本社長は休暇中です。私は椎野理香。
社長が帰ってくるまで、の社長代理人です」
「…………そうですか」
繊細な声音。
柔らかな頬笑み。
理知的で見るからに人が良く優しそうな青年だった。
社交辞令で、理香は作り笑いを浮かべて返す。
「…………海外研修お疲れ様でした」
「いいえ。椎野さん、ですよね。僕は尾嶋博人です」
「尾嶋さん。よろしくお願い致します」
(___どういう事だ? 社長代理人?)
博人の中で、そう思いが浮かぶ。
繭子からは何も聞いていなかった分、衝撃と驚きが激しい。
あれだけマスコミの熱は過熱しているし、連日の報道で社長も気が滅入っているのは当然だろう。
ただ、時差もあり慣れない研修期間で向こうにいた間に日本で、
JYUERU MORIMOTOに何があったのかは、博人は知らない。
今の事が何も分からないまま、
帰ってきた博人は今、赤子状態に等しい。
___だが。一つ気になるのは
彗星の如く現れたこの知らない女性は誰だろうか。
おもむろに起き上がる。
手入れも何もしていない髪はボサボサで、
肌は酷く乾燥していた。だが不思議と何をする気力も起きない。
背中には鉛を背負っているという程に、気怠く重い。
そして、その刹那。
とてつもない不安感と、もどかしさに襲われる。
繭子は
薬に手を伸ばすと、錠剤を取り口に含み飲み込んだ。
錠剤を飲み終えてから一息着くと、へなへなと項垂れた。
精神科へ行き、医師から処方された安定剤と睡眠導入剤を
手離せなくなったのはいつからだろう。
無いと不安に駈られてどうしようも出来ない。
(___以前は、こんな事なかったのに)
こんな不安感に襲われる事はなかった。
いつも事が自分自身の思い通りに上手く事が行き、
全てが全て順道を歩んできたのに。
過剰と言える程の自信もあった。高貴な女社長としての自信が。
備わった優越感にさえ浸っていたが、自分自身はそれに相応しい人間なのだとすら思い込んでいた。
なのに。
(____なんで、このあたしがこんな目に遇わないといけないの?)
思うのは、そればかり。
ふと、携帯端末が鳴る。
またあの男かと思ったが、着信源は公衆電話。
雑誌の記者の問いかけの電話かも知れないと体が震えた。
しかし呼吸を整えると、着信を取る。
「…………はい」
「____お母さん?」
弱々しく控えめな声。
自分自身が酷く憎んでいた、あの女の______あの小娘の声。
心菜からの電話だ。
森本繭子の自宅近くには、公衆電話がある。
前もこんな手を使ったが、マスコミの熱が穏やかになりつつある今、悪魔には少しでも心に余裕が生まれてきている筈だ。
悪魔に心に余裕なんて、安堵なんて持たせない。
自分自身と叔母を陥れた悪魔の女。
常に心は追い詰められた状態で居ればいい。
心菜からと脳が解釈してから、繭子は呆気に取られた。
前にも一度だけ電話がかかってきたか。
母親が大変な時にのうのうと奴は電話をかけてくる。
それが無性に腹が立った。
だが娘を逃さない様にと、
心は思い続けているにも関わらず、心菜は捕まらない。
現にあの時も、電話だけで結局、行方が掴めなかった。
(あんたがあたしの人生を狂わせているの?)
___あの女、佳代子みたいに。
刹那に、
怒りと憎しみが込み上げてくる。
「______あんたのせいよ!」
電話越しに、そう怒鳴る。
すべては、娘、心菜のせい。
あんたが、自分自身を狂わせた。
(…………嗚呼、この人は変わらないわね)
繭子の怒号に、理香は冷めた感情で受け取った。
やはり今回の件が尾を引いているせいで、余裕なんてもの悪魔にはなかったか。
気にする程のものでもなかった。
(余裕が無さそうで、なりよりだけれど)
繭子はかなり切羽が詰まり、追い詰められている様だ。
自分自身の虫の居所が悪ければ、一番の矛先である娘に当たる癖は変わらない。
『………ごめんなさい』
「あんたは、あたしの人生を潰す気なの?
あんたがいるのは誰のお陰?あたしのお陰でしょ。
母親がこんな時に
何を呑気に電話をかけて来てるの?あんたは異常よ」
理香の冷静な心に、カチンときた。
異常?異常はあんたのせいだ。自分自身の事は棚に上げて八つ当りするな。あんたにそんな権利はない。
『………ごめんなさい。
私も、帰りたいけれど帰れないの。
報道も過熱しているから、母さんが心配になって…………』
心にもない事を。
けれど。安心した頃に心菜を現して悪魔の日常を、心情を操り惑わせる。
もう全てが昔の様に自分自身の都合が行く事も、娘が帰ってくる事もないのだ。
あんたはもう平凡に生きられないのだと。
もう『ジュエリー界の女王』と呼ばれた高貴な地位には戻れないのだと。
この修羅場に振り回されているのが、実娘だとも知らずに。
「………あんたは、今、何処にいるの?」
やっと冷めつつある、頭で問いかける。
繭子の問いに冷めた感情と目差しで、理香は言う。
『………それは、言えない…………』
「待ちなさい!」
『___ごめんなさい』
そう言い終わらない内に、理香は受話器を置いた。
悪魔が心菜を憎んでいる様に、自分自身も悪魔を憎んでいる。
それは現世で変わらない事だ。
「…………悪い趣味だね」
「………………」
電話ボックスを出ると、見慣れた青年が呟いた。
「いいのよ。見過ごして?
私とあの人は、普通の母娘ではないから______」
淡く吹いた冬の風に、理香の長い髪が優雅に揺れた。
電話が切れた。
冷めやらぬ興奮に、
繭子は肩で呼吸を繰り返しながら顔を両手を覆う。
(___また、逃げられた)
心菜が、どうしても掴めない。
娘は今、何処にいるのか?
ふと、次にメール着信が入った。
“__今から、お邪魔しますね”
椎野理香からだ。
彼女は、気を使って様子を見に来てくれる。娘とは大違いだ。
彼女の方がまるで娘のようで、信頼する彼女に合鍵すらも預けた。
不意に窓から、外を見る。
すると、椎野理香がいて
彼女は少し微笑んでから、軽く手を振る。
弱々しくなった悪魔の表情を見ながら、理香は心で嘲笑っていた。
(____堕ちなさい。貴女は、堕ちるべき悪魔よ)




