第6話・憎しみと傷の名残り
今もあの瞬間は、忘れられない。
あの日、
母から聞いた、自分へ向けていた感情と虐待の本当の意味。
母が抱き続けた自分自身の感情は、自身とは違ったどす黒いものだった。
狂気に満ちた悪魔の面持ちで、母という鬼は自分に言い放った言葉。
「何もかもアイツに似ている
あんたはあたしの目障りでしかないのよ!」
「アイツにさえ似ていなかったら……いいえ、アイツに似ているあんたさえ
最初から、居なかったら…あたしは束縛されずに自由になれたのに」
「お願いだから、死んで、消えて、頂戴」
その全て知った瞬間、
母から愛情を求めていた娘は壊れ絶望の淵へと落とされた。
今まで自分のしてきた努力は__母に愛されたいという願いと思いは、全て無駄だったのだと。
願いは叶わない。あれは、自分だけが思い描いていた理想でしかなかったのだ。
どれだけ求めたとしても、それは与えられる事のない望み。
自分は、単なるの母の利用の出来る都合の良い道具だったのだと。
________そして気付いた。
(………………私は、貴女に嫌われる事しか出来ない操り人形……)
自分の行いは、無意味。
母は__自分を蔑み嫌ったとしても、愛してはくれない。
そして何より、彼女は自分自身の自由を奪い去る毒だったのだ。
理想通りにいかないのが現実だと。
(……………私は叶わない思いを、無駄にずっと抱いて、
それを利用されてきたのね……)
それを知ってしまった瞬間、
12年間ずっと願ってきた"愛されたい"という気持ちが
一瞬にして、愛憎の果ての"憎しみ"へと変わってしまった。
その思いは、全て偽り。自身自身は遊ばれている。
だったら返して。
奪ってきた自分自身の時間を、感情を、壊れなかった心を。
そう願いたかった。
けれど、そんな事は出来ない過ぎた時間も、
心もどんなに願っても戻りはしない。ただ、抜け殻となってしまうだけだ。
事実を知ってから、心菜は壊れたに等しいだろう。
母に好かれたいと願い思い、必死に生きてきた自分にさえ、
悪魔に加担し、無償で尽くしていたのだと知って嫌悪感すら抱いた。
あのすざましい衝撃は、まるで昨日の事のように思い出される。
あの日、あの時に、森本心菜は屍同然に時は止まったままだと思う事が今でもある。
それからは、必死だっただろう。
絶望の淵から這い上がり、悪魔から離別をして自分だけで生きていく事を決めた。
自分自身を壊す魔性の女の元から離れて、生きていく為に過去の自分自身を消して殺した。
あの悪魔に奪われた分、その時間を今度は、自分の為だけに使い生きていこう。
(これからは、椎野理香として生きていくのよ)
悪魔が嫌い憎んでいた自分の姿も、与えられた名前も棄てた。
引き換えに手に入れたのは、自分自身という人格と人権、
そして縛られぬ事のない果てしない自由_____。
それに加えて
もう12年も経っているから、相手は分からないだろう。
ただ、ひとつ。
姿や名前を全て変えても、変わる事がないのは。
唯一、変わる事のなく、ただ一心に強くなって行くのは……。
あの悪魔への、憎しみと復讐心だけ。
「……………森本心菜、ね」
鏡越しに写る、自分の姿に呟く。
そっと鏡に指先で触れて、軽く微笑する。
そうすれば当然ながら鏡に写った相手も、静かに微笑した。
母という悪魔だけではなく、
母に掌の中の駒として動かされていた自分さえも嫌悪する。
良い様の操り人形として操られ、愛されたいと惑わされた18年間。
幼い自分には、母親から精神的虐待されているのも解らず、
愛されたいという願いと母親という存在が全てだった。
そんな悪魔に憎しみ蔑まれている事を気付かなかった心菜も哀れだ。
鏡に写っていたのは、あの頃とは違う女。
気怠そうな面持ちの、微かに残っていた面影。
そうだ、もう違う。
あの日、森本心菜は、母に無意識に操られていた人形は、死んだのだ。
今の自分は、自分の名前は____椎野理香だ。
悪魔とは関係ない。
控え室。
"最初は不安でいっぱいだったんです。
こんな自分がドレスを着て、式に出れるのか。
けれど、椎野さんが親身になってサポートして下ったおかげで、
不安も無くなって楽しみな日に変わっていったんです。
何もかも困って
迷っていた私を、綺麗な晴れ姿にして
下ってありがとうございました。
私にとって良い素敵な日を迎えることが出来たのは、
全て椎野さんのおかげです。
本当に、ありがとう。
九条 菫"。
エールウェディング課の自身のデスクにて
花嫁から貰った手紙を、読み返して自然と頰が緩む。
それをを丁寧に折り畳んで、 封筒に入れた後大切に箱に納める。
その時、不意に穏やかな声が降りかかってきた。
「流石な、麗人は違うね」
「芳久……」
面倒臭そうに名を呟く理香に、青年は軽く微笑ったままだ。
そのまま静かに彼女の方へ近寄ると、彼女の膝の上に置かれている編み込み模様の木箱に目を遣った。
それは、お客様から貰った手紙を大切に納めている箱。
……………彼女が最も大事にしているものだ。
青年の名は、高城 芳久。
理香の同僚でウェディング課の唯一の同僚で仕事仲間だ。
年齢層が上の者が多い中で唯一、同世代の人間であり、年も同い年。
「またラブレター?」
「違うわ。有難いお礼の手紙よ」
「さして変わらないじゃないか? 理香ってさ。
其処らの学生よりも手紙を貰ってるよ。 凄いな、さすがは麗人だな」
理香のあだ名は「麗人」。
その優秀な人材と、誠実で真面目な態度。
その顧客の身になったかの様な親身になって顧客に寄り添う様からは
担当した顧客からの貰っているお礼の手紙は絶えない。
スピーディーで優雅かつ、最適な対応力。
「麗人」というのは
椎野理香の人物像を現したあだ名だかも知れない。
それだけ、理香は同僚からもお客からも、信頼されて慕われている証拠なのだろう。
なのに、
その実力を彼女は鼻にかける事もなく自分を低く見積もっている。
決して横柄な態度等は絶対に取らずに、何事にも物腰は低く謙虚だ。
そのさっぱりとした性格も、あだ名で呼ばれる要因なのだけれど。
けれど、それは
母親によって長年、植え付けられたあの抜け切れない癖と、
未だに這い上がった様で抜けて切れていない絶望の尾、
虐待の過去が、彼女を、前に進ませる事を躊躇させているからだ。
理香は、本当は優秀な才能を持っているのにも関わらず
自分には何の取り柄もないと思い込んでいる。