第69話・悪魔への天使の囁きと、違和感と
「私が支えます」
その言葉に、繭子は茫然として目が点になる。
反対に理香は至って冷静沈着なまま、薄く微笑を浮かべている。
触れられた手には温もりは一切なく凍り付いた氷の様だが、
その手から伝わる説得力は
枯れつつある繭子の心底にまで染み渡り、酷く心中に響く。
しかし。
受け入れる? 立て直す? 此処まで晒し出された今に?
そんな事を言われても、
絶望に閉ざされた心の中で言葉が混乱させる。
「でもどうするのよ………。
こんなにあたしも会社も憔悴仕切っているのよ。
悪評が広まってしまったのに、今更どうやって立て直すって言うの…………」
潤んだ瞳。繭子は今にも泣きそうだ。
理香は落ち着いた佇まいを一切崩す事はなく、繭子の話に寄り添っている。
軈て目を伏せた後で、彼女の態度や表情は変わらない。
「言ったじゃないですか。私が支えると。私が森本社長をサポートします」
「………本当ね、それは?」
「はい」
(_____________心にもない事を)
また心の何処かで、自分自身が囁く。
この憔悴仕切ったこの表情に嘲笑を浮かべながら、理香は繭子に微笑む。
その憂いの混ざった優しい微笑みはやはり不思議と繭子を安心させる。
優しく並べた言葉達には、
不思議な説得力があり安堵感を覚えてしまう。
そう思いながら精神衰弱した繭子は震える唇で恐る恐る理香に尋ねた。
「……じゃあどうすれば良いの?」
「それは、今から社会に本当の事を全て有りの侭に言うのです」
理香の言葉に、繭子は目を見開いた。
全てを? 自分自身の誰にも知られていない秘密を成して来た事を言うのか?
それは全てを認めるという上で、世間に公するという事を意味する。
一瞬、自分自身の誰よりも高いプライドが嫌だと否定の感情が走り拒絶する。
(あたしの行いを否定するというの?)
繭子は、自分自身がしてきた行いを間違っているとは微塵も思わない。
諭す様に告げる理香に一瞬、腹立たしさが込み上げた。
自分自身の間違いを認める等、したくはない。
このジュエリー界の女王と呼ばれる特別で気高い自分自身が
世間の公前で全て吐き出し言って認めるというのか。
頭を下げるというのか。
そんな自分自身にとって無様な真似するなんて嫌だ。
女王に相応しくはない、哀れな姿等、晒したくない。
だが、そう言って居られない事も
此処まで来てしまったらそんな事も言えないのかもしれない。
椎野理香の言う事が正論そのもので、
一度世間の前で全てを認めて新しく歩んで行くのが正解なのかもしれない。
「その前に最も大事な事があります。
プランシャホテルの理事長と、auroraの会社。
公に言う前、一番先にこの二つの会社に誠心誠意謝る事が何よりも大事な事です」
理香の強い眼差しに、繭子は撃ち抜かれそうだ。
そうだ。犠牲と無視に回した二つの会社に謝罪を入れなければ。
繭子の心がじっくりと理香の言葉の通りの考えが思考に巡り始めていく。
(_______そうよ。
そのまま揺られて、人の言う事を効いてくれれば良い)
理香は、心の中でそう思い嘲笑を浮かべた。
絶望し神経衰弱となり正常な思考が回らない今の虚無感に晒されている繭子に
偽りの言葉の綾を使いながら、自分自身の言葉の奥入れし、
繭子を言う通りに洗脳させて理香の思う様に操縦させる。
誰かの居て欲しいという寂しさと虚無感の弱みの隙間に着け込んで、
繭子に理香の言う事を全て通しさせてみせた。
それは即ち、繭子の悪行を世間に晒しめるということ。
繭子の本性を、本当は悪人だと世間に晒すのだ。
…………それが理香のもう一つの復讐だ。
自分自身の自由を奪い洗脳させようとした悪魔への仕返し。
それをそのまま返そうとしているだけだ。
「…………森本社長の誠意を見せれば、また元通りになります。
他には何も要らない。その過程をしていくだけですよ。きっと大丈夫です」
「…………そうなの。……そうね」
闇色と虚ろを帯びた繭子の目に
少しの気力が戻り通ったのを理香は見逃さなかった。
「泣かないで下さい。それよりも何時もの社長に戻って下さいね_____」
暫くして、繭子は落ち着きと気力を取り戻しつつあった。
繭子は立ち上がり、飲み終わった紅茶をおぼんに乗せて下げようとした時。
少しの間だけ止まっていた手の震えが始まり出し
おぼん事手が滑り落ち、置かれた陶器のティーカップは_____。
_______ガシャン
鋭い音を立てて、割れてしまった。
床に散らばった、陶器の破片。
焦りながら崩れ去った繭子に、理香は駆け付けると
「…………社長は休んでいて下さい」
繭子の手の震えに気付いた理香はそう言うと、
傍らにあった新聞紙を持ち出し、手際良く割れた破片を新聞紙の上に置いていく。
理香にとってこのティーカップはよく覚えていた。
昔、来客用によく出していたもの。
シンクに置いてあったティーカップを、
何時も洗っていたのも来客者に出していたのも自分自身だ。
その陶器が割れた事は何処か終わりを迎えた気がして、心の内で静かにさようならと言った。
「失礼致しますが、掃除機をお借りしても良いですか?」
手際良く、陶器の破片を新聞紙に纏めた後、理香は言う。
見るだけで分かる欠片だけではなく細かな破片が飛び散っているかも知れない。
この悪魔の女に考慮なんて要らないが、
便宜上、“女社長のお気に入り”を演じている以上、踏んだら危ないだろうと思い、気遣いを見せた。
相手の事を考えている素振りを見せたまでで、これも単なる偽りの気遣い、演技でしかない。
「ああ、掃除機ね。棚の隣にあるから____」
「はい。お借りしますね」
素早く、理香は掃除機を見つけて駆け付ける。
その理香の姿に座っていた繭子は何処となく違和感を感じてならなかった。
何故だが違和感とフラッシュバックに襲われた。
心菜は必ず、陶器が割れると
新聞紙の上に置いて纏め終いには掃除機をかけていた。
自分自身が教えた訳でもない。きっと何処か盗み覚えた彼女のポリシーだったのだろう。
それを椎野理香は全く同じ事をしている。手付きも手慣れていて心菜に瓜二つだ。
世の中には似た人間が存在するというが、
(こんな都合の偶然があるものかしら?)
それに、掃除機の場所も最初から分かっている様な素振り。
掃除機は隠れた所に置いてある。初めて来た筈の人間が分かる筈もない。
なのに彼女は迷う事もなくすぐに見つけ出した。
まるで最初から、分かっていた様に。
心菜のデジャブを感じながら、
繭子はただ不思議に思うだけだった。




