第54話・理由なき呪縛
_______プランシャホテル、廃棟。
パソコンのキーボードを手慣れた手付きでタイピングしていた。
静寂な闇夜の部屋には、一定のパソコンのキーボードを鳴らす音だけが残響している。
青年の指先は、まるでピアノを演奏するかの如く誤字脱字一つもなく、手際がよく華やかにも伺え、実に手慣れたものだった。
時にマウスを机の上で滑らせながらスクロールさせ、
芳久は一旦手を止めて首を回す。
一回り、首を回すと意外にも疲労から溜まっていたのだろう。
ゴキゴキと鳴る首の音と感覚を覚えつつ、
椅子の背もたれに身を預けつつ、深い溜め息を着いた。
完全に閉め切っているものの、
少し開けたカーテンからは夜の明かりが微かに差し込んでいる。
無意識の内に立ち上がると、カーテンを少し開けて、外の様子を見た。
濃紺の空に、無限に広がる大地。
現在はこの場所は廃棟となってしまったが、此処から見える夜景だけは良い。
心が落ち着き、何時も気を引き締めて立っている気分も楽になるから。
家に帰れと父親から言われたが、芳久には更々その気はない。
実母と実兄がこの世を去った今、高城家には父親の愛人だった後妻の女と父親しかいない。
それに今更、高城家に様は無いし、居場所もない。
後妻の女、美菜がどういう人間かも知っている。
前妻の息子である自分自身を、彼女から煙たがられている事を
芳久はそれを染み染み知っていた。
相手にも気を使って欲しくない。
自分自身も後妻の表情を伺いながら暮らすのは御免だ。
(……………本当に、あの家は居づらい場所だ)
実家に帰る事を拒否した芳久は
このプランシャホテルの、誰も居着かない旧一室に住んでいた。
実家に帰るのは重たいけれど、この整った一人の空間ならば気楽で良い。
旧一室の廃棟は、高城グループが
新しく新設した表のホテルの陰に隠れ今は老朽化から封鎖され、
芳久が住み着いている部屋以外は抜けの殻と化している。
誰も使わなくなった部屋に居る事は誰も、父親すらも知らない。
英俊は何処かのマンションを借り住んでいると思っているらしい。
芳久もそういう風にやり過ごし、父親にそう思い込ませている。
だが
現実は時に何があるか分からない。
だから働ける限り、貯金は貯めておきたかった。
それにこの廃棟は芳久にとって、ある意味、思い出の場所だ。
もしかしたら誰か知られているだろうが、
自分自身が高城グループの息子故に誰も何も言わずに
知らない振りをしているようだ。それは有難いのだが。
近頃の芳久は、英俊から色々と課題を与えられ強要されていた。
高城グループ、プランシャホテルを継ぐ人間としての人格形成。
それ故に高城グループの長い歴史を辿り学び直す。
高城グループ、
プランシャホテルの理事長になるには、と必要な術を全て叩き込まれていた。
(………自分自身は理事長の座なんて毛頭、降りる気はない癖に)
だが、英俊はいずれプランシャホテルの理事長となる人間には
完璧な理事長の人格になる様にと強要し、自分自身が望み
自分自身と同じになる様な"理事長の人格"を身に付けようとする。
昔から何事も強要する大人が、芳久は嫌いだった。
元は長男を自分自身の跡目を継がせる気でいたので、
長男が消え次男坊の自分自身を強要させるなんて、英俊には予想外の事だったのだろう。
次男坊である自分自身は、
“何かあった時の予備”として扱われ、ぞんざいに扱われていた。
英俊に嫌われている事は、勘の鋭い芳久は英俊に嫌われている事は幼い頃から薄々気付いていた。
嫌われている人物と一緒に居ても、しょうがない。
英俊が自分自身に目をかけるのは、
“プランシャホテルの次期理事長”となる人間だから。
理由は、その、だった一つだけ。
けれど今思えば、実兄をこの強要する
教育から解放させて貰った天には感謝している。
実兄はずっと高城家を重んじるプレッシャーを与え続ける父親に耐えてきた。
その重荷も辛い責任も今度は自分自身が背負えば良い。
表向きは従っている振りをしながら、今日も生きている。
高城グループ、プランシャホテルの歴史と資料は膨大だ。
一つのページを読み見るだけで、大きく時間は過ぎていく。
一つだけでも早く吸収する様に、最近は課題を元に独自に調べている。
長時間、デスクワークしていた影響か、
それとも少しばかり夜更かししているせいか、
睡魔がやってきて、自然に眠たくなる。
(___________疲れた)
時刻は午前の2時過ぎ。
高城グループについての事を頭に詰め込み入れて居たら
最近はすっかり、もうこんな時間になってしまっていた。
パソコンの電源を落として、机に上半身を机に預けて
疼くまり眼を閉じると何時しか間も無く、芳久は眠りに落ちて行った。
最近、仕事以外で芳久を見なくなった。
自分自身の担当のウェディング関係の仕事を終えれば、不意に居なくなってしまう。
主任にそれとなく聞けば理事長に呼ばれたからと言われて、それで理香は納得した。
芳久は理事長の息子で、次期プランシャホテルの社長になる人間なのだから。
色々と重荷を背負わされ、
次期理事長として数々の事を叩き込まれているのだろう。
そう思えば最近、空き間があれば疲れた顔でデスクに転た寝をしている青年がいる。
状況は見なくても薄々理解し、気付いている理香がいた。
エールウェディング課の昼間の休み時間。
今日もふと隣のデスクに居る青年に視線を向ければ、転た寝をしている。
理香は傍に置いてあった彼のスーツのジャケットを、そっと肩に乗せた。
昼休みが終わる頃。芳久は眼を覚ます。
身を起こすと何かが落ちる感覚がして、それに視線を向けると
自分自身のスーツのジャケットが掛けられていた。それを持ちながらそのまま静かに首を少し傾ける。
(一体、誰が掛けてくれてのだろう)
けれど。分からないまま時間を確認すると立ち上がった。
自分自身のウェディング関係の仕事が午前で終わると知っている
(行かないと)
父親はこれから話があると言い、
息子を理事長室へと来る様に仕組んでいる。
(本当は行きたくもないけれど)
その命令をそれをすっぽかす事も出来ない。
重たい足取りで父親に、理事長に呼び出されて事に思い出して、向かう。
「我が社の業績は安定、寧ろ上昇傾向にある。
特にエールウェディング課の評判は良くてな。協同ブランドも良い調子だが
それは向こうの提携経営先のJYUERU MORIMOTOよりも
我が社の業績が勝っているんだ。協同ブランドも大切にしつつ___」
音量の調整のない熱心な声に耳を傾けつつ
タブレット端末に映るの業績表を見詰めながら、芳久は少し疑問に思う。
提携経営に加えて協同ブランドをしているにも関わらずに
JYUERU MORIMOTOの業績は降下し続けている。
提携経営を結んでから数ヶ月。
プランシャホテルは順調に業績を上げている様に
JYUERU MORIMOTOの業績の上がっても良い筈なのに、どうしてだろうか。
そんな疑問を聞く暇さえ与えられずに延々と続く
父親の話を聞いてる中で終わったのは太陽の陽が暮れた後だった。
疲労を抱えたまま、誰も居ない廊下をふらりと歩く。
倦怠感に加えて少し頭まで痛い。
そんな時だった。
「……芳久?」
聞き慣れた声。
ふと前を見れば、其処には予想通りに椎野理香が居た。
「…………理香」
「お疲れ様。理事長に呼ばれていたんでしょう?」
「……うん」
優しい声音。
虚ろげに呟いた芳久は、そのまま無意識的に。
トン、とその華奢な肩に頭を置く。
無意識に身体が崩れた。こんな事して何やっているんだろう。
けれど起こしたくても疲れ切った身体は心の言う事を聞かないままだ。
理香は突然の事にやや驚いたが、
その窶れた様な青年の表情を見れば
何も言えなくなり、何処か母性本能を掻き立てられる様な気がしてならない。
きっと、父親からの四重に疲れているのだろう。それは青年の顔色が物語っている。
理香の腕は、宙に浮いたまま躊躇いを見せた。
(……この穢れた手が、この人に触れても良いのだろうか)
迷いを見せた果てに、この母性本能の様な感情が捨てられずに
そっとその肩に手を軽く置いた時に、芳久はようやく口を開く。
「_______ごめん」
「謝らないで。貴方は何も悪い事してないじゃない。疲れたんでしょう?」
「………俺はさ。理香みたいに強くないから。……根性が弱いんだ」
「何処が? 芳久は頑張ってる。親の重荷にも耐えて……」
(子供に毒を与える親ならば、あの理事長も該当しているのかも知れない。
_______“あの人”と形は違えど)
理香は密かにそう思う。
重荷と毒味を潜めた親を持つ同士。
彼は協力者だけれど、ただの他人ではない親近感さえ覚える。
理香の優しさに疲れ切った芳久は、少しの時間、項垂れたままだった。




