第53話・帰ってきたふり
冷たい木枯らしが吹いている。
身も心も凍ららせる厳冬の寒さに、身を竦めてしまいそうになる。
しかしこんな厳冬の寒さ等、理香には十分に耐えられるものだ。
“あの頃”に比べてしまえば。
あの空間、森本家の空間は、何事にも変えられない。
現実の厳冬よりも、森本家の空間の、厳冬が凍え死にそうだ。
目には見えなくとも、
繭子の計画は、確実に崩れ始めている。
理香はそんな事を実感しながら、少しだけ揺らいでいる中で邪魔してやろうと思った。
彼女が来たのは、今はすっかり少なくなった公衆電話。
小銭に入れてから、一旦息を吸って心を整理して落ち着け
メモに走り書きした数字を見ながらゆっくりと意思を据えながら、ボタンの配列を押した。
理香が、電話をかけた先は_________。
ふと、携帯端末に鳴り震えた。
画面を確かめれば『公衆電話』からかけられたもの。
一瞬取るか迷ったが、通話の画面をスライドさせてそのまま携帯を耳元に当てる。
きっと募集広告を見た主の電話か何かだろうと思っていたのだが
その予想は大いに外れることになってしまう。
「はい。もしもし?どなた?」
『_________……さん?』
微かに耳元に聞こえた声。
忘れかけていた繭子にとって憎悪が交差する声音だ。
けれど。この声を悪い意味で、忘れる筈がない。この声は、確かに_____。
『_________お母さん?』
「……………こ、心菜なの?」
『そうです。お母さん…』
信じられない。夢でも見ているのかと思った。
予想外の事に思わず繭子は、バランス感覚を失いひっくり返りそうになってしまう。
何故ならば
電話をかけてきた主は、行方を眩ましている娘なのだから。
いきなり電話の向こうにいるであろう心菜に、
繭子の心は一気に錯乱して戸惑いを隠せなくなってしまうが
それを抑え隠して威厳を保った声で対応する。
「どうしたの。あの日から行方を眩まして」
『_________その理由は言えないの。ただこんなに時間が経って、こんなに時間が経ってしまって、今になって連絡をして
ごめんなさい。でもね………やっと電話出来る時が来たから』
「…………………?」
佇むのは、沈黙。
電話の向こうに居る見えない相手を伺いつつ、静かに微笑みを浮かべる。
行方を眩ましている娘からいきなり電話がかかって来たら驚くに違いない。
けれど。理香は繭子がどう出るのか予想しながら、ただ沈黙を見守った。
昔のように、上からの態度のまま来るのか。
それとも自分自身の欲望の為に捜している娘を引き込む様な態度で来るのか。
(さあ、貴女はどういう態度に出るのかしら?)
今は大人の声音になった、自然と声が変わり
母親の顔色を伺う、昔の心菜の弱々しい声音を演じていた。
悪魔の鳥籠から抜け出し大人になった理香の声音は自信に満ちている。
だから、弱々しく母親の顔色を伺う
心菜の声音とは正反対に違っているので、大抵は気付かれない。
長い沈黙に苛立ちを覚えながらも
悪魔が娘に対して、尻尾をどう出すのか待っている。
だが悪魔が戸惑う声音は、こんなにも微笑みが浮かぶものだったか。
繭子は公衆電話で電話をかけてきた主が理香とは知らずに、娘の心菜だと思っている筈だ。
(…………今更、心菜が何故?)
暫く言葉を失っていた繭子は、漸く我に返り
ここぞとばかりに機嫌を取らないといけないと直ぐ様に思うと
ようやく選んだ末の言葉を出した。
「今、何処に居るの。あたし心配したのよ」
(_____嘘を付け)
蔑ろにしてきた娘の事等、一度も心配した事ない癖に。
やはり結論は後者だ。
行方知れずの娘を見付け出し、自分自身の手元へ引き戻す事。
やはりそれが悪魔の狙いなのだと理香は悟ってから、理香は心菜の声音で
『…………場所は言えないの。けれど元気に過ごしてきたつもりです。
だから、私の事は心配しないで下さい。……私は大丈夫だから』
「待って!! 今更電話を掛けてきて言う台詞!?
あたしは、ずっとアンタを捜して居たのよ。
母親の気持ちも知らないで、何処で何をしてるの?」
(………母親の気持ちですか。
娘を蔑ろにして奴隷同然に操ってきた、貴女がよく言えるわね)
呆れた。そう切なげに心菜の言葉を呟いてから
電話を切ろうとした時、繭子は更に乗り出す。
逃がしてたまるものか。
場所さえ突き止めれば、心菜は連れ戻せる。
対して理香は計算付くで、繭子の感情が昂ぶるのを見計らっていたからこそ、
この言葉をかけて見たのだ。そしたら案の定、悪魔は乗り上がってきた。
_________でも。
『今は何も言えません。けれど、いつか戻ります。
またお母さんに親孝行するので、今は少しお時間を下さい。………ごめんなさい』
「待っ_________!!」
その瞬間に、理香は受話器を置いた。
繭子の携帯からは通話が切れた事を意味する独特なツーという無機質な音が鳴り響く。
娘を逃がした。色々と伺うチャンスだったのに。
けれど同時に疑問が残る。何年も音信不通だったのに今更、何故電話を?
かけ直してやろうと感情が高ぶったが、
生憎公衆電話からの通知で、再度電話を繋げる事は出来なかった。
(…………なんで、母親から逃げるの!?)
そんな事を思いながら腕を落として携帯端末を硬く握り締める。
そして歯を食い縛って一息付いた後、再び、数字の配列を見て押すと何処かへと電話をかけた。
受話器を置いてから、理香はそのまま後ろへと凭れかかる。
これで悪魔がどう出るか。自分自身が椎野理香とバレていないのが救いだったが
あの女ならば何か行動に出るに違いない。
だが。
“椎野理香”の戸籍や身元等は完璧に作ってある。
誰かが何かしらの詮索を入れた所で、簡単にバレやしない。
椎野理香を生み出した代わりに森本心菜は、静かに自分自身が抹殺した。
(_____貴女は大人しく、その玉座で見てれば良いわ。
私から貴女へ送る親孝行という名の復讐を。
私が貴女に受けたものを、倍以上にして返すから)
公衆電話から出て
予定を確認しようと、携帯端末を取り出したその時。
強い衝撃を受けて人とぶつかった事に気付く。
反射的にそのぶつかった人間へと視線を向けた。
年齢は50代だろうか。
大柄の何処か威厳のある男性だが、気品を兼ね備えていた。
何処か窶れた表情は、きっと仕事か何かで疲れているのだろう。
「…………すみません。お怪我等はされていませんか?」
「いえ私が悪いんです。慌てて走ったりしたから。
貴女こそ大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。……私は大丈夫です」
心配を寄せる男性に、理香はそうあしらう。
だが、ぶつかった順一郎は、
彼女を見て薄々何処かで気付く。
似ている。
あの嘗て、不倫の末に愛した女と雰囲気が。
そう思い一瞬だけ呆然としてしまったが、ふと我に返った。
理香はすみませんともう一度、頭を下げてからその場を後にしていく。
しかし。
(…………どうして、繭子を思い出した?)
見知らぬ女性の筈なのに。
理香の姿に何故か順一郎は、動けずに居た。




