第32話・諦めの心情と、過る不安
世界には、人生には、理不尽さで溢れている。
その枠に嵌められて人間は、それに抗うのか、
それとも嵌められたまま過ごすのか。
全てに諦観を抱いて
絶望した芳久は恐らく後者に回った人間だった。
否定も肯定もせず、ただ生きている。
時折、皮肉を交えて相手の痛い所を付きつつも、父親の言いなりに従っていれば良い。
そうすれば、少なくとも自分自身の存在も人生は安定は約束されるのだから。
理事長から出て、闇夜の廊下を歩いている最中、
芳久は他人には決して見せない凍り付いた、逆鱗の表情を浮かべながら歩く。
『お前は、本当に駄目だな。それに比べて和久は………』
『お前は、日の当たらない場所で生きていけ。それが相応しいんだ』
理事長である父親を見ては、
かけられた無情な言葉の数々がフラッシュバックした。
そんなかけられた言葉の数々を思い出しては、たまに不思議に思う事がある。
(ずっと疎外して偏見の目で
見てきた次男の自分自身を、どうして父は選んだのだろう)
そう考えたところで、答えは出ている。
既に解答が出ている問題を不思議に思った事に、芳久は嘲笑った。
彼の実子も、プランシャの後継者も、
もう血縁という束縛により残された自分自身しかいない。
たまにこのままで良いのだろうか?と思うのだが、
既に人生の欲望を捨て、抗う事に諦めた青年はそれすらもどうでも良かった。
芳久が物心付いた時、
父は空気の存在的なだった。滅多に家に帰りはしない。
プランシャホテルの理事長という仕事柄で仕事に追われて多忙しいのだろうと思って居たが、
それなら何故、家族は皆、
苦労に追われ、自分自身だけではなく疎外されているのだろうか。
その謎は中学生にもなれば、最も簡単に解けてしまう。
英俊には長年囲っている愛人がいた。妻子よりも
その女の為に尽くすようになり
母は家事や後継者を生み育て、
そして長男である兄は自分自身の後を継いで貰い
代々続く高城グループ・プランシャホテルを存続させる為に、レールを敷いた。
そして何より次男坊であった自分自身の存在理由は
自分は”ただの、もしも何かあった時の為の予備”の人間でしかない事を。
(_____俺は、どうなってもいい子供だったんだ)
兄が居る限り、プランシャホテルは兄が継ぐだろう。
自分自身は何かあった時の予備の人間でしかない。
誰にも期待されていない。望まれていない。
それに_____
それぞれが皆、駒で動かされている道具だったのだ。
壊したい。
あの男が続けているこの高城家を、プランシャホテルを。
もし追い詰めてしまった時、相手はどんな顔をするのだろう。
兄にレールを敷いて、母に苦労ばかりをかけてきた男を
少しでも貶める事が出来る、そんな機会があるのならば。
名前だけの父親に本当の仕返しが出来たのなら、自分の心情は変わるのだろうか。
この諦観の染み付いた思考と、感情を変える事は出来る?
あの実母に抗う姿勢を貫いている彼女のように……。
ブランドを立ち上げたという事で、両社の親睦を深める為に
プランシャホテルとJYUERU MORIMOTOの社員の交換と移籍が決定したらしい。
そんな話はまだ聞いていなかったからか、聞いた時には驚いた。
父親の目論見は早めに入手しているつもりだったが、今回ばかりは配慮不足だ。
理事長室の玉座に座る英俊は、微笑を浮かべながら呟く。
「お前も良い機会だ。次期理事長になる為の勉強として
向こうの会社に派遣してもらおうか」
「……分かりました」
芳久は、そう軽く受け流した。
理事長もその周りも、
椎野理香が森本社長の実娘である事は知らない。
きっと彼女自身もバレない様に、過去を払拭する為に必死だったのだろう。
椎野理香が、自分自身は森本繭子の娘だ、と彼女自身が告げないと気付かない程だ。
「椎野理香君、彼女は我が会社の優秀な社員だからな。
先方も是非、という言葉を頂いている」
実の親子でも、
愛情ではない歪んだ関係で相手と居るのも辛いだろうに。
それを、実母の会社へ移籍______戻るなんて事は。
復讐目的の一つだと言いつつも、
きっと彼女はまた母親である社長に気を使う事になるだろう。
本当は繊細で遠慮深いあの性格の持ち主だから。きっと。
彼女の人生を
一通り聞いた話ならば、壮絶さを物語っていると感じた。
その圧力にも似た辛さも、冷たい境遇の中で置かれた肩身の狭さも芳久は知っている。
(大丈夫だろうか。
理香自身は移籍せず、プランシャホテルに留まればいいな)
そんな芳久の心配は、呆気なく打ち砕かれた。
だからこそ
理香が母親の居る移籍するかもしれないという件は
どうも他人事に見えなくて、心配になってしまった。
芳久が恐れているのは、
父は理香を駒で使おうとしているのでは。
椎野理香はプランシャホテルの中でも最も有名な社員だ。
英俊は才能がずば抜けているもの、優秀者には
目敏く目を付けて依怙贔屓したがる。
理香も軈て理事長の駒にされて利用されてしまうのではないか。
そんな思考が余儀って拭えないまま、不安に思うのだ。
そこからの、行動は早かった。
彼女に何かあったのでは、と思い一応電話を書けた。
「……理香、移籍の話されたんだって?」
『……………………』
電話の向こうから、押し黙った様な沈黙が続く。
やはり良い話ではない。芳久は少し眉を潜めて固く携帯端末を握っていたが。
間が悪い。少し早とちりし過ぎたか。
そう思っていた時、ようやく耳に届いたのは
『……そうよ。理事長は進めて来たわ』
「そうだろうね」
あの男が、やりそうな事だろうに。
あの場では聞けなかったけれど、彼女はなんと答えを出したのだろう。