第26話・細やかな仕返し
時計を見れば、夜7時過ぎ。
辺りはすっかり夜空の帳に包まれていた。
理香は、硝子に包まれた盛大な高層ビルを見上げて、静かに眼を伏せる。
内心はやや憂鬱なのは否めない。
これから会うのだ。あの卑劣な悪魔という女と。
(………当たり前だけれど、気分は乗らない)
森本繭子が指定したのは、
高層ホテルの一角にあるレストランだった。
プランシャホテルよりも遠く、悪魔の会社に近い高層ホテル。
指定されたその場所に訪れるのは初めてで、何処か慣れない。
お色直しと称した繭子は
それが終わるとそのままホテルへと向かい
弁えとして、理香も自分の身支度を整えてから向かうことにした。
鏡に写る自分の姿を見て服を摘まむ。
ストレートロングヘアの、毛先は内向きに巻かれている。
ケーブル模様が施されたアイボリーのニットに、ベージュのロングスカート。
ブラウンのショートブーツ。
防寒具として、ワンポイントボタンだけがあしらわれたグレーのコートを羽織る。
飾らない服装だが、その質素な服装は
清楚な顔立ちや雰囲気を持つ理香に似合い、モデルの様な
長身で華奢なスタイルも加えてその凛とした美貌を引き立たせている。
控えめな服を着たが、これで良かっただろうか。
あまり悪魔よりも、目立つ格好をすると
繭子は嫉妬し僻んでしまうだろう。
女性としても一番に立ちたいという人間だから、悪魔を不機嫌してしまう事は簡単だろう。
ホテルのレストランに足を運び、名前を告げると
若き男性ウェイターに席まで案内された。
洋風な雰囲気が漂う落ち着いた席で、通されたのはこじんまりとした個室。
其処の部屋は透明なガラスで、その夜景が一望出来る仕様だ。
淡い照明だけで、部屋は夜に帳が主役である。
思っていたよりも東京の夜景は鮮やかで、ネオンの光りは止まない。
悪魔と食事を共にするよりも
一人でこの鮮やかな夜景を見るだけで、十分だった。
「森本様、お連れ致しました」
「…………はい」
純白のテーブルクロス。
其処にセットされているのは、同じく純白の皿とスプーンとナイフ。
対面式のテーブルの奥の片方で、頬杖を着き社長の品格を
表している存在に視線を向ければ魔性の悪魔が堂々と座っていた。
マゼンダ色のスーツ。
ミディアムヘアの髪には、強めの巻き髪が施されている。
濃く塗り重ねたファンデーション、唇には赤いルージュ。
濃く縁取られたアイシャドウの影響か、きつい印象を思わせる瞳が、理香を見詰める。
薄灯りだけが示しているせいか、やけに怪しく映って仕方ない。
まるで、最期の晩酌に招かれた気分だ。
「……………お招き頂き、ありがとうございます」
礼儀正しくそう言って、頭を下げる。
単なるこれは、社交辞令としての振る舞いを弁えていただけだ。
そんな物腰の低い、礼儀正しい理香の態度を繭子は気に入った。
「貴女、品も礼儀が良いのね。さあ、座って頂戴」
「……はい」
少し、緊張する。
それらを抑えて、対面する様に反対側の椅子に腰掛けて座る。
真っ直ぐに伸びてくる視線に自分の眼差しを返せば、相手と眼が合った。
あの頃と変わらない鋭い眼差しは、何かを探る様に感じたが、知らないふりをする。
一つ一つ気に止めて仕舞えば、精神が参ってしまうだろうから。
「一度、ゆっくりと食事をしながら話がしたかったのよ」
「それは……ありがとうございます」
それは本心なのか。
そう思ったが相手は…………悪魔は、自分自身を気に入っている。
目の前にいる椎野理香が、自分自身の嫌味、憎しみ嫌ってきた娘、森本心菜だとも知らずに。
そう思えば何も知らない惚けさと、哀れさに微笑が込み上げてくるが心の中で留め隠した。
(本当に、私が心菜である事を知らないのね)
ある意味。滑稽かも知れない。
けれどそれは理香にとっては、好都合だ。
こんな短期間で、近くで森本繭子の懐に入れる様になるなんて思いもしなかった事だが良い方向に向かっている様だった。
このまま気に入ったまま留めて置いて、復讐のチャンスを伺う。
それを悪く言えば使って操作_____良く言えば維持していけば良いのだ。
何よりもこの女の顔色を伺うのも、
ご機嫌取りは、理香にとって特意義だ。
……………理香にしか出来ない技というべきか。
理香は元々から無欲だ。
白ワインの入れられたグラスを見詰めながら、夜景を眺めている。
ソムリエから差し出される高級料理よりも、
この夜景を眺めていられるだけで理香にとって好ましかった。
特に何も望まない。
現に求めるものは何もない。
__________この悪魔への復讐以外は。
あの頃は食事の時間が耐え難い苦痛だった。
何か言われまいか、と悪魔の顔色を伺いながら食べる食事に、
生きてきて一度も味を感じた事はない。
けれど今は悪魔の顔色を伺っても
自分自身でも不思議な程に、今はなんとも思わない。
元から母娘には他人行儀という事もあるせいなのか。
悪魔にとっては自分自身は、娘ではなく全くの他人同士で面会している。
きっと端から見れば、親子に見えるかも知れない。
相手は仮にも自分の実母であるが、
理香に繭子が母親だという認識はない。
ただ一つだけを除いては。
自分自身ずっとが憎悪を募らせている相手。
其処から込み上げてくる恐怖もなく、ただ憎悪だけが佇む。
否。母親という女____悪魔にはひっそりと影を落とす憎悪しかない。
正直を申すと繭子に会うまで、理香は何処か怖いと感じていた。
もし彼女を見て知ってしまえば、心底で殺した恐怖心が蘇ってくるのではないかと。
けれど真逆だった。
会って森本繭子の中身に触れても、恐怖を感じなくなった。
寧ろ込み上げてくるのは、果てしない憎悪と、軽蔑、哀れみ。
_____________それは、何故だ?
自分自身はもう、椎野理香として染まってしまったからだろうか。
ただ出てきた食事を咀嚼し、
淡々と食べていく中で目の前にいる憎き相手を見ていた。
核心として固まって行くのは、やはり憎悪と復讐心だ。
出された料理は、美味しい筈なのに
愛憎めいた感情と緊張が勝っているせいか、味を感じずに砂を噛んでいるみたいだ。
淡々と食事をする理香を見て、繭子は思う。
(食事の手際の所作と品が良い。綺麗に食べるのね)
そのテーブルマナーは、
何処かの品の良い令嬢を思わせる程に綺麗だった。
その飾らない容姿と清楚で華麗な顔立ちの美貌に加えて、バックにある夜景は、かなり絵になるだろう。
(______心菜が居たら、これくらいの歳よね)
確か椎野理香も、年齢は26歳と言っていた。___娘と同い年だ。
心菜が成長し大人になっていたら、とまで考えた途端に憎悪が生まれる。
憎悪を紛らわせる為に、繭子は話題を振った。
「貴女は、どうしてウェディングプランナーになったの?」
丁度ローストビーフを皿に形を作り、
口を運ぼうとしていた理香は、繭子の問いかけに静かに手を止めた。
丁寧にフォークとナイフを皿に置くと、静かに膝に手を乗せて繭子を見る。
「人様の幸せを感じて、
それを見届けるお仕事がしたかったからです。
ずっと望んでいてこのお仕事に着けたので、良かったと思うばかりなんですよ」
「…………そうなの。若いのに偉いわね」
淡く笑みを浮かべる繭子とは、
反対に理香の心は冷たい無情を極めていた。
嘘だ。
幸せとは無縁の人生。
幸せとは何か?と疑問を感じて、それを間近て見れる現場はないかと探した結果、ウェディングプランナーの職に辿り着いた。
結婚式は、女性にとって一生に一度の“晴れ舞台”だという。
時折にして例外もあるが、
ウェディングドレスを纏う花嫁は常に幸せな空気と気分が溢れている。
ただ幸せを知らなかった理香は、“それ”が見たかっただけ。
けれど、
褒め称える繭子に、理香はその言葉にカチンときた。
(_____私が心菜と知っていたら、そんな言葉はかけないでしょう?)
自分自身に向けられるのは、穏やかな微笑み。
『偉い』なんて褒めてくれた事なんて一度もなかったのに。
あの頃に一番欲して求めていた言葉が他人となった今、果たされるなんて。
皮肉だ。
理香は複雑な感情を抱きながらも、
理香はようやく本題への身を乗り出した。
「社長からお褒めの言葉頂けるなんて光栄です……。
けれど、これは私ではなく娘様に向けられる言葉だと思います」
「…………」
(______そんな褒めの言葉、娘には向けたことないでしょう?)
繭子が娘にしてきたのは、精神的虐待。
毎年毎日365日罵倒され、己の人格を否定され心が壊れるまで娘を追い詰めた。
(_____娘に、褒めの言葉をかけろ?)
理香の言葉に繭子の手に持っていたワイングラスの手が止まる。
その瞬間に中に注がれていた赤ワインが波打つ様に揺れた。
どうしてこの場に及んで、彼女は自分の娘の話を持ち出すのだろうか。
「娘? どうして知ってるの?」
「…………申し訳ありません。ただ、社長様のホームページに
娘様を探されているとお聞きしたものですから……これは私ではなく娘様に向ける。いいえ、向けて欲しい言葉だと思いまして。
社長のお言葉はとても有難いですけれども、他人の私には勿体無いですよ」
にっこりと、微笑んでみせる。
図星を突かれ悪魔が間の悪そうな顔をしている事に、
少し気が晴れた気がする。
決して良い事ではない。だが、
その自分自身はあの頃、精神的虐待として
何倍もの言葉を悪魔には向けられてきたのだ。
自分自身が受けた精神的苦痛を、
相手に味合わせることは出来ないのだろうか。
あの頃、ズタズタになった自分自身の仕返しをこの悪魔にそのまま返す事は。
心底では無理なのかも知れない。けれど、
それを出来ない事とは認めたくなかった。