第25話・悪魔の誘い
それから、青年とは少しだけ理香は距離を置いていた。
仕事上の付き合いだけは変わらず、それ以外の会話等は
大人な距離感を保ち置いたまま、静かに時は過ぎていく。
次第に話す事も、
接点のないまま過ぎて行ったのは言うまでもない。
当たらず触らずの関係は、相変わらずであった。
(秘密を内緒にしてくれているのは有難いけれど
これは私自身の問題。これ以上、人様を巻き込む訳にはいかないわ)
相手に申し訳ない。
けれども、これから進む自分自身の計画に巻き込ます訳は
愚か相手を傷付ける事になるのは、理香の想像が付いていたからこそ理香にとって、それだけは避けたかったのである。
理香の復讐心は、日を追うごとに膨らんでいった。
自分自身を壊そうし、利用しようとするあの悪魔。
あの顔が浮かぶだけで嫌悪感と憎悪は募り、益々仕返ししたくなるばかり。
悪魔が仕向け、自分自身が壊れそうな程に受けてきた精神的苦痛は、消えない。
鋭い刃物の如く、心に刺さったまま抜けないのだ。
自分でも不思議だった。
絶望の脱け殻、無情と諦観で生きているのに、
あの悪魔だけへの感情は止まらずに
ただ、強くなって止まらなくなり、何時でも忘れる事なく
時々、不意に理性が飛ぶのではないか_____とさえ、自分でも思う。
そんな理性を、失わぬ様に理香は自分自身を見張っていた。
花嫁となる新婦のドレス選びと、そのアドバイスを送って
一通りのプラン計画の打ち合わせを終えた後、次の顧客の時間まで
少しだけ時間があったので、少しの休憩を貰う。
気分転換と気まぐれに、ホテルのロビーへと足を運んでいた。
あまり此処にくる事はない。従業員は裏口の専用ドアから出入りする為に
滅多に此処にこないからか、勤めている身であっても此処は新鮮みがあり
例えならば、別世界にいる様な気分だった。
金に糸目を付けない建物内は、西洋風の雰囲気を醸し出し、
メンテナンスを欠かさない館内や室内は、何時でも新築されたホテルの様だ。
クラシカルなデザインのロビーでは、淡い光りを灯すシャンデリアが
暖かくも平和な世界を創り出して、来る人達を迎えていた。
あの悪魔の会社とは大違いだ。
自分自身の思想だけを走らせて、ドぎつい外装の館内よりも
比べ物にならないくらいに世界観がある出来上がっているこの世界は。
淡くも優しい香り。
微笑みの絶えないこの世界観。
控えめながらも、"プランシャホテル"という存在感がある。
そんな時、ホテルの外_____楕円軌道の広い駐車場から
見慣れない、見た事もない鮮やかな紅色の高級車が止まっていた。
人目の付かない四角のロビーに理香は立ったまま、
それに不思議に思いつつも
周りが少し慌ただしくも、その高級車に向かうプランシャホテル幹部らがいる。
エスコートするように男性が運転席が現れるオールバックの髪型をしたスーツ姿の紳士的な男性。
そして、理香は驚きを隠せなくなった。
何故ならば、高級車の後頭部座席から降りて
姿を現したのは、あの森本繭子だったからだ。
提携先の社長がいきなり来る等の話はまだ聞いた事はない。
それに社長が来るとなれば、会社内で少なからず噂になるだろうから
森本繭子がやりそうなこと、
きっとアポイント無しだろうと、理香は察していた。
我が社の幹部と、隣には自分自身の秘書を置いて
ロビーへと入ってきた悪魔______社長・森本繭子は、
ド派手な原色スーツとその目元に着けていたサングラスを外して、飄々とした態度で歩いてくる。
ロビーにいるコンシェルジュや社員、そして顧客までもが
その森本繭子の姿、そして贔屓の為に着いている幹部達の突然の登場に騒然とした。
「森本社長、ようこそおいで下さいました」
「歓迎致します。それでは、理事長室へどうぞ。理事長がお会いしたいと」
「それではご案内致します。此方から参りましょう」
それは女王に群がる家臣の様だった。
贔屓する幹部達。それに王珣に対応をする秘書。
けれど、ど真ん中を歩く堂々たる女は一言も発していない。
周りがする事が当たり前という様な気分で、ただ理事長室へと消えていく。
理香は、腹が立った。
せめて会釈くらいすればいいのにと。
周りがする事は当たり前ではないのだ。せめて感謝の念位は見せても良いのではないか。
そんな感情を抱いたまま、一度は騒然としたロビーも元の静寂に戻っていた。
その姿を見るだけで、憎悪が募る。
拳を握り締めたまま、壊れそうな理性を保ちつつ裏へ戻った。
転機という名の、誘いが舞い込んだのは
皆が騒然としたあの登場。それから数時間後の事。
本日の仕事も終わり、これから帰ろうとした時だった。
『椎野君。今から待機室へ来てくれ』
耳許に着けているエールウェディング職員用の
無線の通信機から紡がれた用事に、不思議に思う。
何か雑用だろうか?と思いながら、急ぎなら遅れてはならない。
言われたままに早足で、理香は待機室へと向かった。
薄いシャンデリアが灯る廊下の照明。
表向きのホテルは煌々とした柔らかな光りが続いているけれど、裏手はもう暗い。
見納めと言わんばかりにエールウェディング課等の勤務時間が
定められたビジネスは終わっているので当然と言えば当然なのだが。
待機室の前には、
見慣れた主任が仁王立ちで自分自身を待っていた。
遅れてしまったか頭を下げと主任の元へ行くと、
彼は理香に軽く手を振ってから
「突然、悪いな」
「いいえ。それより…………雑用ですか?」
「違うんだ。森本社長が君に伝えたい事があるらしくてね。此処でお待ちだよ」
(アポイントなしで提携会社に乗り込んで、
用事があったのは、高城理事長だけではなかったのね)
理香の心は自然と怪訝な感情を生み出す。
悪魔は何かと、自分自身に絡んでくる。
先日もそうだった。一体なんだろうと思いつつ待機室へ視線を向けた。
主任に招かれて部屋から出てきた悪魔に、主任は手招きしただけで帰っていく。
部屋から出てきた悪魔に、理香は平常心と理性と保ちつつ繭子の前に立った。
「お久しぶりです」
「ええ。久しぶりね」
偽りの仮面を張り付かせているのは、お互い同じだ。
“母娘”としてではなく“他人”として顔を合わせている二人は、酷く他人行儀で偽りそのものだった。
雰囲気はあの頃と随分と変わってしまったけれど、理香の心にある憎悪は変わらない。
「それで……私に伝えたい事があるとお聞きしましたが」
「そうなの。突然だけれど、椎野さんこれから時間はあるかしら?」
媚びを売る様な声音で、尋ねてくる悪魔。
また何かを仕組んでいるんだろうかと思いながらも
これは貴重な接点で、近付くチャンスだと浮かんだ理香は微笑んで答える。
「……はい。予定はありません。時間ならばあります」
「そう。なら尚更良いわ。突然で悪いけど、これからお食事でもどうかしら」
「……お食事ですか?」
繭子の媚びた声音は高らかに上擦っている。
プライベートで別のホテルでレストランで、食事をしないかという誘いだった。
華麗なる悪魔の誘惑。少しどうするべきか浮かんだが、理香に迷いはなかった。
(…………娘ではないと、こんな態度が違うものなのね)
理香は内心、軽蔑の眼差しを向けながら、表では、
「はい。喜んで。よろしくお願いします」
そう微笑んで答えた。