第253話・過去と存在の相殺
佳境です。
何故、自分自身を知らない
彼女は此処に居るのだろう、と思った。
夢ではないか、そう思う程に。だが、
「_______全て、嘘」
「は………」
「嘘なの、全て。ごめんなさい………」
全部。覚えている。
その刹那、彼女は、演技していたのだと悟った。
同じ階の非常階段。
誰もいない空の、灰色のフロアに雪崩れ込んだ。
誰もいない。そんな中、二人は階段に座り、佇む。
「馬鹿だよね。……全てを終わらせようとしたんだ」
自ら嘲笑う様に、芳久は告げる。
「僕が息をし続ける代わり、あの人は、常に後ろに付き纏う。
高城芳久として息をし続ける間ずっとね。
ずっと……僕はあの人の操り人形でしかないから」
ボサボサの髪、笑わず光りのない瞳。
一寸も変わらない憂いた悟りの表情。
まるでこの世の終わりかの様な突き放した冷たい言葉。
その姿は、生きる力を奪われた福寿草のようだ。
(このまま操り人形として生きる事は、本当に人格すらも奪われてしまう)
その芳久の姿は嘗て、
森本心菜として生き、絶望と崩れ去った自分自身と重ねていた。
青年は自虐的に嘲笑い、呆れている様にも見えた。
僕は空っぽだから、と光りのない瞳で呟くその姿は
父親と自決しようとした嘘偽りない、覚悟を物語っている。
理香は俯く。
いつの間にか、左手薬指から消えた指輪。
離婚届を差し出すと、青年はそっか、っと呟いた。
「………理香。それは理香の好きにして貰って構わない。
元々理香は“自身で生きていきたい”という気持ちを持っている人だろう?
凛とした君の人生は、俺はお邪魔でしかないと思うんだ。
だからこそ、復讐を終わって、離れるのがいいと思った。
…………勝手にごめんなさい」
「………私達は、
一度、頭を冷やした方がいいのかも知れない」
理香は、呆然と呟く。
そう呟く横顔は薄幸で、深窓の令嬢を思わせる。
芳久は目を細めながら、同調するかの様に頷き、
「………そうだね」
と呟いた。
「私、本当は、記憶喪失なんて、なかった」
「……………ふりをしたんだ?」
「そう。記憶を失ったふりをして“過去の私“に
戻った方が、“あの人”に会うのは早いと思って」
「君のやりそうな事だ」
芳久は、納得して首を縦に振った。
彼女の演技は手を込んでいて一寸も抜かりがない。
きっと“あの人”と再会する為に必要な事だったのだろう。
「…………君は色々と、短期間に有り過ぎた」
「…………貴方もでしょう」
理香は、否定も肯定もしない。
対して理香の言葉に、芳久は目を丸くした。
「貴方も色々と青天の霹靂の様な事が起こったでしょう。
それに、私の復讐に振り回してしまった。………ごめんなさい」
「………謝る事じゃないよ。俺が望んだ事だから」
芳久が、あの強行に及んだ事態に、理香は聞かない。
父親と息子の間でしか分からない事があるのだから
深堀する事もない。積もりに積もったストレスや
届かぬ言葉、無理解と強引に操り人形に動かす操り主と、終わらせようとしたのかも知れない。
人生に悟りを開き
全てに絶望した青年は、惰性で生きている。
もしも主に操り人形として操られなかったら、
青年は本来の聡明な才能を発揮出来るのではないか。
操り人形の糸さえ、途切れてしまえば………。
彼の本領を発揮し、高城芳久としての人生を歩めるのではないか。
その足枷になるのは、彼の父親と、自分自身 (理香)だ。
少しばかりある理性とその姿は、
凍えた仔犬の様に、何も望まず、操り主に操られるままに
生きているのは相応しいと思っているのは、”青年とその取り巻き”だけだ。
子供は親を選べぬ。
毒を持つ主の、子供を生を受けてしまった。
「………まだ貴方はやり直せる」
「………へ?」
「貴方は絶望しても、まだ理性を保っているもの。
自分自身を持ち続けている。
………私は違った。絶望して抜け殻の様に数年を無駄にしたけれど。
………貴方は違うと思う」
「そんなかな。俺は単なるあの人の操り人形として、
投げやりに生きてきてしかいないけれど」
「私は……そうとは思わない」
「一度、、冷却期間を置いてみない?」
「……………とは言うと」
理香は俯きながら、目を伏せて呟く。
「貴方も、私も、親に囚われていると思う。
今の心情のまま生きていても何かも変わらない。
それに、私が貴方に顔合わせても、傷を抉る事しか出来ないと思う」
図星だった。
理香の方はもっと大変だ。
実母を奪われ、毒母に拐われ、苦労と共に生きている。
これから裁判等も始まるだろう。彼女の纏う雰囲気からは、
“携わらないで、そっと欲しい”との意図が自然と読めた気がした。
互いの過去や、家の事情を知っているからこそ。
その背景を見詰めてしまえば、辛くなるのは分かっている。
現在は、一緒に居ても、尚更。
それに、彼女の復讐が終わりを告げた今、
復讐の協力者でしかない自分自身を見るのは、苦痛でしかない。
(距離を置いて彼女を解放した方が、正しいのだろう)
不幸しか呼ばぬ、高城家に巻き込むつもりはない。
けれども彼女の無防備、その危うさには心配が止まない。
彼女を解放と、自由な人生を送る事を願っている。
「契約結婚までさせてごめんなさい。
あの人に囚われず、君が自由にこれからの道を歩む事を願っているよ」
芳久の闇を払拭した微笑みに理香は苦しい。
何事もない様な、無難なく生きる姿が、
健気で痛々しく、何処か忘れられない。
「全ては、私のせい。貴方は悪くない」
此方の方が、青年に申し訳なくなった。
芳久が嫌いな訳ではない。
ただ人と深く関わりを持つ事、その温情に、心が拒絶する。
「あのさ」
「…………なに?」
「一度、冷却期間を経て、二人とも、
過去と自分自身に相殺が出来たら、また再会してもいいかな?」
「………………」
離婚届は、
再会の為の誓約書に変わっている。
そうなった事に、異言はなかった。
そもそも契約結婚とはいえ、二人に離婚の意思はないのだから。
ただ。
(その優しさが、ただ、痛い)
まだ治らない痛みが、心が、冷たく疼く。
理香は視線を泳がした後に、理香は、静かに頷いた。
「…………」




