第250話・天使と悪魔の決別
聳えた灰色の建物。
もう訪れる事はもうないだろうと思っていたものの
今回は少し違う。なんだか複雑な気持ちで、横に視線を流した。
彼女がいる。………椎野理香が。
彼女は、建物を不思議そうに見詰めていた。
外泊許可を貰い、そのまま歩いて連れてきたのだが。
「………白石さん。厚かましいのは承知の上です。
私を母の所へ連れて行って下さいませんか」
その一言が、きっかけだった。
そうだ。
“森本心菜”には母親しかいない。偽りの毒母だとしても。
母親に会う、というのは森本心菜にとっては当然の事だ。
彼女は自身の母親に成り代わった悪魔に従順な娘でしかないのだ。
手続きを済ませ、
本人の希望により理香だけ面会する事になった。
複雑化した心情が、渦巻く。
繭子と面識する事で彼女に対する精神的なダメージを受ける可能性は大きいだろう。
最初はあやふやしていたが、
理香から何度も懇願され、お手上げという状態だった。
彼女は、きょとんとした表情を浮かべていたが、
何故か不思議にそうな表情を浮かべる一言も発さなかった。
「じゃあ、行っておいで」
「………はい。手続き等の、ご協力下さりありがとうございます」
面会には時間制限がある。
理香がまた首を絞められるのではないか、と不安の中
理香は迷う事はなく、面会室へと姿を消した。
面会したい人がいると告げられ、繭子は怪訝な表情を浮かべる。
また白石健吾かと思ったが、看守は何も言わなかった。
面会室に行き椅子に座ると、繭子は仏頂面を硝子の向こうに向けた。
「……………私が解りますか?」
暗闇の中でその声音を聞いた刹那、繭子は固まった。
途端にじわじわと燃え上がる恨みと憎しみの炎。
久々に繭子の感情に火を灯す。
「…………あんた」
「…………お母さん。何故」
「あんた、佳代子の事を話したらあっさりと倒れたじゃない。
記憶喪失になったとか。やっぱり軟弱なのね。無様だわ」
繭子は、見下す様に上から目線から、嘲笑う。
だが心菜は何も言わず静かに耐えている。
そして薄く微笑みを浮かべると、
「今、
お母さんの保釈を求める懇願書、保釈金を集めているんです。
なるべき早くお母さんが自由になれる様に、尽力しますので」
心菜がそう呟くと繭子の高笑いは
ぴたり、と止まり悪魔はひっそりと口角が上がっていく。
(心菜に戻れば、役に立つものね)
「やっと、戻ったみたいね?
そうよ。あんたはあたしが居ないと生きていけないの。
あたしの言う通りに生きていたら間違いないわ。
やっと使える様になったじゃない」
嗚呼。
この人は、酷く短絡的で単純なのだろう。
自分自身にとって都合の良い話を囁いただけで、手の平を返し飛び付く。
繭子は、自分自身を酷く過信し盲信的だ。
そんな悪魔を哀れ、そして酷く純粋、子供みたいだと思った。
自己反省のない厚顔無恥な何処までも罪知らず魔性の女。
どんどんその幼稚な中身を知る度に心は冷めていく。
(………そろそろ、終わりにしましょう)
横暴に、高らかに笑う繭子に、
「…………なんと言うとでもお思いで?」
酷く冷たい声音。
それは冷水の様に、冷たい薔薇の刺の様だった。
冷ややかな視線を感じた繭子は、固まってしまう。
刹那、理香は身を乗り出す。
「…………心菜じゃないわ。理香よ、私」
繭子の微笑みは、硝子の様に崩れた。
記憶喪失は嘘だ。
目覚めた瞬間から記憶喪失のふりをしていた。
記憶を失ったふりをして森本心菜の戻った方が、悪魔には会いやすいと思ったからだ。
「もう好き勝手出来ないわね。
………自分自身に都合の良くなればすぐに舞い上がる。
酷い程に短絡的。嘆願書や保釈金の話は嘘よ」
「………は? あの時に倒れて記憶喪失になったんじゃないの!?
佳代子の事も受けいられなかったんじゃ……」
「私、そんな柔じゃないわ。腹を括っていたの。
確かに衝撃的だった。覚えていなくても
私は確かにこの瞳で母の最期に見ていたのに
何も出来なかった自分自身にも怒りを覚えた」
赤子ではなく、成人していた今ならば、
佳代子を庇う事も、何かしら自身が行動出来たのかも知れない。
結局は佳代子も理香も、悪魔に殺められた。
全ての元凶であるこの女を思うと憎らしくて堪らない。
でももう佳代子は戻ってこない。自分自身の壊れた心も戻らない。
悪魔に母は振り回された末に逆恨みの末に命を奪われた。
そして理香は悪魔に奪われた末に、悪魔を振り回して全てを奪った。
…………現に、繭子には何も残されていない。
理香は芯のある声音で告げた。
母の最期を見ていた事も、拐われた事も。
衝撃的で、精神的なショックで倒れてしまったが、
全てを知った今、受け入れた。
あの日、健吾は三条にスマートフォンを渡した。
そして、それを警察署に届け渡す様に指示したのだ。
◯◯署には三条がまだ警察官だった頃の部下がいる。
そのスマートフォンは、GPS機能と社長室の盗聴器と監視カメラにより24時間監視されていたのだ。
そして繭子の自白により逮捕、26年前の女性の不審死は、殺人事件、赤子は誘拐した犯人だと明かされた。
或いは、繭子の自爆である。
「もう否定出来ないわ。
殺人、未成年者略取、脱税……自分自身を
着飾る為に重ねて隠した罪は貴女が全て自白したのだから」
理香は立ち上がった。
「もう終わりよ。貴女は。大人しく此処で生きて」
顔面蒼白になり青ざめていく。
繭子の瞳は充血し、顔は縦横無尽に皺が浮き立つ。
唇はわなわなと震わせながら
「____煩い!!あんたが割り込んだせいで、
あたしの人生は壊れたのよ!!この泥棒猫!!
大人しい顔をして、やる事、成す事が卑怯で姑息だなんて………。
母親にそっくりなだけではなかった、そんな穢れた心を持っていたなんて」
「好きに言えば良いわ。
全ては貴女自身が起こした元凶と自業自得なのだから」
理香の態度は変わらない。
悪魔はこのまま、変わらず生きていくのだろう。
「…………もう、会う事もない。
せいぜい自業自得の恨み憎しみをぶつける事ね」
そう言って、理香は面会室を後にする。
漸く、全てが終わったのだ。
もう悪魔の悪行は繰り返される事はない。
_________戦い矢は、下ろしてしまおう。