第245話・断末魔の鐘の残響
忘れるな、己の母は、悪魔でないと______。
穢れた身ではないのだと。
自分自身を責める必要はない。
月夜の佇む、闇夜の社長室。
悪魔の嬉々とした嘲笑が、月を霞ませていく。
稲土の様な衝撃が頭に叩き落ち、視界が揺らいだ。
理香は、足許から崩れ落ちた。
悪魔の胸に抱かれながら、
実母の死の断末魔、最期を見ていたのだ。
(…………私は、その場にいた………)
床に手を起きながら、伏せた面持ちを上げる。
目の前にいる女は人間じゃない。この轍の様に絡まり捻れた精神。
“佳代子の忘れ形見”の絶望の雰囲気は、悪魔の心を満たした。
まるで、ワイングラスにたっぷりと注がれたボルドーのワインのように。
目の前にある絶望の断末魔に
思わず恍惚の感情が抑えきれず、顔に現れた。
(いいわ。この絶望の断末魔の様な雰囲気。
味わいなさい。その絶望感を、そして、自身がいながらに母親を見殺しにした罪悪感に苛まれればいい)
__________狂喜の嘲笑。
闇に葬られた事実。
佳代子は、母親は、不審死ではなかった。
妹に殺された。そして、娘である、
自分自身は、母親殺しの悪魔に引き取られた。
名前も、両親も、奪われた上で。
________息が出来ない。
「愉しかったわよ、何にも知らないあんたを眺めるのは。
母親を奪った犯人とも知らずに、あんたはあたしを慕ってた………。
佳代子を思いながら責めるのも快楽だったわ。大人の事情を知らない小娘に、憂さ晴らしが出来たんだもの」
「………………」
「人間じゃない……」
あはは、と繭子は嘲笑う。
その刹那。
だん、と乱暴にドアが開く音がした。
聞き慣れない靴音が部屋に残響し、繭子は眉間に縦皺を寄せる。
「…………それが、全てだったんだな」
健吾の声がして、
繭子は慌てて健吾の声の方へ視線をやる。
部屋に突撃したのは、健吾と芳久だった。
芳久は放心状態のまま座り込んでいる、
理香を見付けると屈でその華奢な身体を支えた。
名前を呼んでみたが、ぴくりとも動かない。
横髪の隙間から覗くその横顔は酷く儚く、生気がない。
その蜂蜜色の双眸は酷く虚ろで、捨てられた人形の様だ。
「なん………で、此処に?」
咄嗟に立ち上がり、そう呟くが
繭子は、訳が分からなかった。
何故、健吾が此所に来たのか。誰も知らない筈だ。
白石健吾は苦虫を噛んだ複雑な表情をしながら、
「…………お前は、人を妬んで苦しめる事しか出来ない」
(…………佳代子、ごめん)
(理香、申し訳ない事をした)
心の中に行水の沸き上がる懺悔と贖罪。
佳代子の死は、言わずもがな繭子が首謀者で仕組んでいた。
“彼女の娘”に母親の最期を見せるの計画の内だったのではないか。
健吾の登場に茫然自失としている繭子の手首に、
冷たい鉄の感触とカチャリと静寂な部屋に鉄が合わさる音が残響した。
繭子は我に返った。
気付くと、自分自身の傍には、誰かがいる。
繭子が罵声を浴びせる前に、
「午後9時10分、森本繭子、未成年略取誘拐罪及び
26年前に起きた、バイオリンニスト不審死の件に関係があるとして_____午後9時10分、逮捕状に従い、通常逮捕」
警察官の冷静な声音。
突然の急展開に繭子の脳内は混乱の渦に巻き込まれる。
しかしこの孤高の自分自身になんて真似をするのだ、と繭子は怒りが込み上げ、警察官の腕に噛み付いた。
狂犬の如く強く腕に噛み付かれ、その痛みは布の上からでも強烈なものだ。
思わず、痛みから警察官は顔をしかめた。
「今更、見苦しい悪足掻きは止めろ。最後くらいは潔くしろ____………」
何処か冷ややかな眼差しと共に冷水を掛ける様な声音。
繭子はきっ、と健吾に向けて睨んだ。
彼は思う。視線は交わらない。現在も過去も。
真実を知って、全ての情景は、どうでもよくなった。
悪魔が逮捕される一部始終のやり取りも見ていたのに。
悪魔の最後の姿を見届けてやる、と思っていた心も。
あの瞬間、悪魔と再会してからずっと待ち望んでいた
裁きを受ける悪魔の姿を見る事も。
無意識ながら、急激な睡魔が襲われる。
しかし理香はその睡魔に身を任せた。
悪魔は容赦なく絶望を与えた。解り切って、
腹を括っていたのに、全てを知った今、心を、また絶望の蟲に蝕まれてしまった様だ。
(_____お母さん、ごめんなさい)
理香は、残響する。
視界が次第にぼやけて闇に染まっていく。
(_____お母さんの傍に行く事は、許されますか)
貴女の最期を見ていながら、何も出来なかった。
許して、なんておこがましい事は絶対に言わない。
ただ、
(…………貴女の傍に行きたい)
天使が願い、意識を喪う前に抱いた感情はそれだった。
絶望に蝕まれた心に現れた感情。たった一つの願い、
佳代子____母の元に戻りたい。
「………理香? 理香?」
芳久は呼び掛ける。しかし理香は、瞳は固く閉ざされている。
その刹那的、瞳から静かに頬を伝う穢れなき透明な滴。
理香は意識を喪い、自分自身の身を引いた。




