第238話・思わぬ現実、夜明け前
_______数時間。
『理香。いきなりだけど、今夜、時間があるかな?』
「………大丈夫」
「実は、理事長と森本社長が会食が決まったんだ」
「………そう。でも何故、いきなり?」
「………理事長は、提携営業の解消に踏み切るつもりだよ」
理香は微かに絶句した。
高城英俊理事長は提携経営の解消を求めていたが、
森本繭子の嵐の様な騒動により宙に浮いたまま、あやふやになっていたのだろう。
『今夜、その会食で理香も参加して欲しいと理事長が言われた』
「…………何故?」
『契約結婚だとしても、理事長は理香の事を歓迎してる。
だから今夜の会食で僕も参加して、
理香を義娘として紹介するって意気込んでいるよ』
誰も知らないが理香と芳久の結婚は、契約結婚だ。
しかしホテル最高峰と呼ばれる創業者・高城家に嫁入りした事は変わらない。
それならば高城英俊は、後継者の妻となった理香を紹介するに違いないだろう。
これからその場面が増える事もあるだろう。
「分かった。予定はないから大丈夫。
寧ろ、その場に居させて。
高城家の、貴方の妻として、あの人の前に出るわ」
『…………良いの?』
「ええ、それも務めだから」
理香は、通話を切ると薄く微笑した。
(…………逃さないわ。良い偶然が回ってきたんだもの)
会食が終わった後、
狙った獲物は逃さないという姿勢で
繭子はすかさず、素早く理香を捕まえた。
芳久、英俊、三条は二人に気付かず、ぞろぞろと帰ってしまう。
………寧ろ、帰って貰った方が良いのだが。
料亭の廊下の壁に繭子は、理香を壁に押し付けた。
憎悪の業火と激情に燃えギラギラした瞳に、
理香は動じずに冷ややかな眼差しを向ける。
「どういう事よ!!
あんたがプランシャホテルの後継者の妻!? 嘘でしょう!?」
威勢良く罵倒する繭子に理香は掴まれた手を離したが、
すかさず今度は両肩を掴まれ、押さえ付けられた。
そして微笑みながら、理香は静かに告げる。
「本当よ。正式に入籍しているわ」
「何処に接点があったのよ、一人だけ玉の輿に乗って」
「…………?」
心の中で、何かが切れた。
玉の輿なんて初耳だった。理香にはそんな気は更々ない。
無意識的に理香の心中で堪忍袋の緒が切れた。
「………私が元々、何処へ就職したかお忘れで?」
「………え」
冷水の様な理香の物言いに、繭子は理香の原点に気付いた。
けれども憎悪の激情に揺れる繭子は、睨み付けながら
「色目使ったんでしょ………?
あんたは昔から人を惹き付けるのは得意だったわよね。
理事長の息子だから、近付いた。そうでしょ!?」
「何故、私がそんな事をしないといけないの?
私は最初から一人で生きていくと決めていたわ。
貴女の被害妄想には呆れてしまう」
「………っ」
理香には無欲でそんな思惑等、一ミリも存在しない。
現に芳久を“高城芳久”として一個人の人物として見据えていても
青年を“理事長の息子”だとは思った事もない。
ただ繭子は、焦りと共に羨みと嫉妬が蠢いる。
自分自身はプランシャホテルから切り捨てられそうになっている反面、理香はプランシャ次期後継者、高城家の妻となり、
最強なバックボーンを得た。
(なんで、こんなにも隙がないの?)
非の打ち所のない理香に、言い返す言葉が見つからない。
ぐうの音も出なくなった繭子を捩じ伏せて、
そして理香は微笑して、静かに告げた。
「それより、自分自身の心配してはどう?
理事長から、義父から、提携経営解消を求められたのでしょう?
他人に憎悪を向けている場合ではないでしょう」
「……………あんた」
プランシャホテル、高城家の夫人という余裕と気品すら感じられる。
繭子は、ぎりぎりと歯軋りを繰り返す。
悔しさや憎悪が入り交じった複雑化した心境が消化出来ない。
掴んだ理香の両肩に力を込めながら項垂れてしまう。
理香はそう告げた後、社長、と呼ぶ声が聞こえた。
駆け寄ってくるのが、秘書である三条富男だ。
理香は冷静沈着な眼差しを向けつつ、ゆっくりと繭子を身から剥がした。
このままでは料亭にも迷惑をかけてしまう事になる。
「一つだけ、言います。
プランシャホテル側の言う通りにした方が良いかと」
「黙りなさい!!あんたの言う事なんて誰が聞くものですか。
プランシャホテルとの提携経営権は離さない………。
あんたの嘘っぱちなんか聞かないわ!!」
「………そう。なら自由にして」
冷めた眼差しでその双眸を伏せる。
「社長、捜しましたよ。大丈夫ですか」
「………ええ。悪いけど、車まで案内して」
「分かりました。行きましょう」
富男が現れた途端に、
理香は蚊帳の外に放り出された。
端からでも伝わる親密さ。それに公私の見分け等ない。
理香は漠然とした瞳で眺めながら、見送った。
しかし軈てぼんやりとした瞳と表情に、
ゆっくりと嘲笑の色合いが映る。
(………相変わらず、
警戒心が薄くて女王様気分が抜けないのね)
理香は後ろに向くと誰もいない、静寂な廊下に一人微笑んだ。
そうしていると後ろから靴音が聞こえた。
和風の料亭の廊下に現れたのは、消えかけたと思っていた芳久だ。
「物凄い、罵倒合戦だったね」
「………多分、誓約書や提携経営解消の書類は、
シュレッダーにかけるつもりだと思う」
「任せろ、理事長も柔じゃない。何枚も予備を用意しているよ。
長引かせたら黙っている人じゃない、最終的には何がなんでもサインする事になる」
「………そうね。それも分からないまま、去ってしまった。
ただ罵倒している今だけ……いつかまた余裕が無くなってしまうでしょう」
その玉座に何時まで、しがみついて座って居られるだろうか。
(貴女が玉座に座り続けるのなら、私は………)




