第231話・捧げる為に
「ねえ、話したんだから、もう良いわよね?」
「……………………」
物言わぬ理香に、繭子は罵声を浴びせる。
「あたしの介助者となりなさい!!
あんたは娘なんだから、親孝行するのは当たり前なのよ!!」
「……………」
介助者になりたくない訳ではない。
都合の良い時だけの娘。娘という人間。
血縁ごときで、理香は嫌気が差してしまう感情は否めない。
娘だから、唯一の悪魔の血縁者だから、と、
いつまでこの悪魔に振り回されるのだろう。
互いに絶縁し、悪魔からは追放された筈だが、
こうして役職を与えられるのは同時に母親に振り回されるのだ。
悪魔が理由は、佳代子に似ている憎悪を晴らす為か、
それとも娘として操り人形として利用したい為か。
しかし常に冷静な理香の思考回路も、
改めて佳代子の死の真相を知って動揺していないと言えば嘘になる。
繭子の杖になるのとは切り離して、
先にこの混乱した心の整理を着けなければ。
反芻する脳内で冷静に廻る回路を見詰めている理香に痺れを切らした繭子。
(_____あんたはいつだって、すぐにイエスと言った事がない)
「まだ親不孝するのね!!
母親の願いさえも、すぐに承諾出来ないなんて。
やっぱりあんたは、役立たずの穀潰しだわ!!」
「………それでいいわ」
ぽつり、と理香は呟いた。
母親は殺人者、自分自身は殺人者の娘。
何の罪も持ち合わせていない善人の叔母に申し訳なくなってしまった。
理香は諦観の眼差しで少し俯くと、
少し考えさせて欲しい、と言い残し悪魔の館から出て言った。
(………私が、ずっと求めていたもの)
叔母の不審死。その真相。
その為に悪魔の母を追い詰めてきた。
全てを知った今、理香は至って動揺する事もなく冷静だった。
ただ“疑惑”から、“事実”に変わっただけなのだから。
腹は据えていた。だが、
(もう私は、今まで通りには生きていけない)
母は殺人者という事実と、
叔母への贖罪は彼女の胸を貫通する程に心は抉られる。
全てを知った今、殺人者の娘だという事実を抱えて
図々しくもう今まで通りには生きていけないというのが理香の本心だった。
罪の連鎖は重ねてはならない。
(私が終わらせなければ………)
理香から提示された場所は、
旧プランシャホテル廃棟の屋上だった。
芳久は急いだ。この廃棟は腐敗が進んでいる。
屋上は腐敗が一番進行し倒壊しかけている箇所もあり、特に危ない危険な場所だ。
階段を素早く駆け上がり、
屋上に上がると、震える小鳥の如く
理香が踞っている背中が見えた。
「………理香」
そう呟くとぴくり、と理香が反応する。
その華奢の背中は何処か儚く、何処か、寒々しい。
いつもの彼女とは違う事は明らかだった。
「………何があったの?」
「………全てを知ったの」
「全て?」
「やっぱり、“佳代子さんを殺した”のは、あの人だった」
背に流した髪が寒い風に煽られて、さらさらと踊る。
その口振りは、何処か他人語りの様だった。
洞察力の鋭い芳久は理香が、佳代子の不審死の真相を知ってしまったのだろう。
「佳代子が消えたら、
佳代子に執着している母親は佳代子しか見なくなる。
それが怖かったそうよ。………身勝手。
身勝手過ぎて、何も言葉が出ない」
理香はまるで自嘲する様に、渇いた嘲笑を浮かべた。
悪く言えば、
今まで佳代子の存在を餌を釣りながら、繭子を振り回していたのだろう。
今までは繭子への復讐心と佳代子の不審死を追い続けて、求めてきた。
だが、今となってはこれまでの自分自身のアイデンティティが揺らめく。
そして理香は、漸く此方へ振り返った。
加えて鞄の中から折り畳んだものを広げて、手に掲げた。
理香は何かを悟り腹を括った真剣な表情と、鋭い眼差しを芳久に向けている。
理香な左手に掲げられているのは、婚姻届だった。
…………契約結婚の為のもの。
彼女はまだ、婚姻届を提出していなかったのだ。
まだ他人のまま、という事になる。
理香は、呟く。
「これ以上、貴方には迷惑はかけられない」
「……………え?」
「………ごめんなさい」
切ない声音が虚空に響く。
その刹那、婚姻届は右下の端から消えていく。
姿を表した琥珀の光りが“契約書”を削り消して、形を亡くしていく。
彼女が手を離すと風に煽られて、
婚姻届だった紙切れは虚空の彼方に舞い消えた。
ぼんやりとその“契約書”を見詰めていた青年は口を開いたまま呟く。
「どういうつもり?」
「…………芳久。貴方には沢山助けて貰った。
ずっと貴方への感謝は絶対に忘れない。
でもね、もう、終わりにしましょう。
私は殺人者の娘。罪を犯した人間と関わる理由は、
貴方には何もないわ。貴方に関わって貰うのは
申し訳ないから。だからこれからは自由に生きて」
少し緩んだ面持ちで理香は呟く。
芳久は固唾を飲み込み、彼女の悟った表情の意味を知る。
(復讐は、終わるのだろうか)
寒空の下、虚空を見上げて青年は思った。
母親の介助者として生きる代わりに、
理香が思ったのは“自分自身の全てを捨てる事”だった。
椎野理香として積み上げてきたキャリア、人間関係、そして協力者という青年、
悪魔の殺人者の娘が、欲を求め、留めてなるまい。
そうすれば、母親と一緒の様に思った。
理香は自身の身辺整理を終えた後、ある人物へ電話をかけた。
廃棟から出た後、
「介助者の件ですが」
「遅いわ!!何時まで人を待たせるつもり?」
電話の向こう側から聞こえる罵倒。
理香は無表情の表情を一つも変えず、淡々と告げた。
「…………介助者の件、お受け致します」
理香の言葉に、繭子は一瞬、呆然とした後に
にやり、と口角を上げ微笑んだ。
「そうよ。それでいいの。
貴女は親孝行の一つもしていないのだから、
あたしに尽くすのよ」
粘着力のある声。
理香の心は冷めている。そして………。
(親孝行する代わりに、貴女の命よりも大切なものを頂くわ)
業火の鍋でじっくりと煮込みながら、悪魔を破滅させる。
理香は薄く微笑んだ。




