第228話・欲望無き者と、欲深き者
佳代子と繭子のお話。過去編かも知れません。
佳代子と繭子の姉妹仲は、当たらず触らずというものだった。
両親からもそう近所な思われていた。
重ねて加えれば、姉は清楚で物静かで控えめ、
妹は何処か派手で活発、という事だろうか。
佳代子は控えめで、
幼い頃に始めたバイオリンだけを一筋に生きている。
それ以外には興味も欲も野望もなく、慎ましやかに生きるユリの花の様だった。
(詰まらない女)
内心で佳代子を、軽蔑していた。
野望と欲深い塊である繭子は、異母姉はどうしようもなくつまらない人間で無機質な人間としか思えない。
しかし佳代子は、
来る者拒まず去る者追わずのさっぱりとした
後腐れのない性格で、自然と佳代子に近寄る人間は絶えなかった。
容姿端麗の才女。
その謙虚な立ち振舞いや優しさは、知らず知らずの内に
他人が惹かれるものを伏せ持っている。けれども
佳代子は誰にも固執する事もなく、泳がされる事もない。
だからそんな立ち振舞いをする異母姉、
固執する母親に繭子の心は燃えてしまったのかも知れない。
繭子は欲深き少女だった。あれも欲しい、これも欲しい。
でも募る欲望とは真逆に、繭子の傍に寄る人間等、いなかった。
絶えぬ欲望が膨らむ中で、不満が蓄積してばかり。
『お姉様は、何か欲望はないの?』
『…………?』
ある日、
庭の木製の椅子型のベンチで読書をしていた異母姉にそう尋ねた。
佳代子は本を閉じてから
小首を傾げ、何かを考えを考える素振りを見せる眼を閉じる。
ストレートヘアの黒髪が淡い風に揺られて
淡いブルーのワンピースにその控えめな美貌のその姿はまるで天使の様だ。
「…………ないわ」
ぽつり、と佳代子は、瞳をぱちりと開けて呟いた。
佳代子には特に心を掻き立てる欲望や野望と言ったものはなかった。
時折に本を読み、バイオリンをこよなく愛でる。
異母姉はその二つにて世界が成り立っている様だ。
バイオリンさえあれば、何も要らない____そんな素振りに感じた。
良く言えば、佳代子の世界は慎ましやかに、
自分自身の世界や心は満たされていたのである。
そんな慎ましやかに生きる異母姉の生き様は、欲深き繭子には詰まらない。
『欲はないの? 絶対に欲しいものとか、いつかはこうありたいとかは?』
『………未来予想図の事? そうだなあ……私は似合わないかも。
誰かと居たいとか、絶対にこうありたいとか、
そういう未来予想図は何だか考えられないの。
………気持ちがないのよ。ただ今を生きるだけ、かな』
確かに佳代子は平々凡々とした人物だ。
母親が家系に固執し娘は才女と祭り立てるだけで、
確かに才能には恵まれているが佳代子自身は何も求めず望まず、平々凡々とした普通の優しい女性。
『私は、平和でさえあればいいの。____他は何も要らないわ』
その黄昏の瞳は純粋無垢で、性格は無色透明な人物だった。
『……………へえ』
詰まらそうに繭子は呟いた。
欲深き少女には、隣にいる彼女は酷くちっぽけで、詰まらない人間だと思ってしまう。
特に魅力的でもないのに、彼女は人を惹き付けるのだろう。
そして欲望を抱かないのだろう。
繭子は全てが欲しい。羨望の眼差しや情熱、
最と人から期待され、興味を抱かれ
常に人を虜にさせ求められる魅力的な人物でありたい。
そんな欲望に溺れている繭子とは反対に、佳代子は無欲の人間と言った方が良いのか。
『繭子は、何かあるの?』
『………お姉様は何だか詰まらないわ。
もっと欲深く図々しく生きていたい。人間ってそういうものじゃない?』
繭子の表情に、佳代子は思った。
(この子は、自由と彩葉に溢れているんだ)
特に思う事も欲望もないまま生きる自分自身とは正反対。
母親のプレッシャーに圧されている中で、
佳代子は自分らしさを見出だせていない。
森本家の長女として相応しい振る舞いをし、当たり障り無く生きていれば何も起きない。
平穏無事であれば、自分自身は何も要らない。望まない。
(ただ、自分自身の身の回りが変わるのが怖いだけ)
けれども、自由な妹の心は、彩りに溢れている。
それはそれで素敵だと思っていた。空っぽよりも
欲望があり彩りに溢れている人物は生き生きとしている。
けれども同時に佳代子は、それらを素敵だと思う反面
何処かで恐れを抱く。
『それは素敵だと思う。けれど…………』
『けれど?』
『欲に呑まれてしまえば、自分自身を見失ってしまう。
欲望は自分自身が抱いているものと思いがちだけれど、
欲望に呑み込まれてしまえば、その操り人形に成り果ててしまうわ』
佳代子は母親を見てきて気付いていた、彼女の瞳は虚ろだという事に。
夢や欲望を持つ事を否定はしない。
けれども欲望に執着し固執し続けるのであれば、
いつかその自分自身が抱いた欲望に呑み込まれては、自我を忘れてしまう。
欲望に操られて生きている屍(しかばねに過ぎないのだ。
現に母親がそうだ。
元名家の森本家の像に囚われて、名家として回復する事を望んでいる。
それは嘗ては夢であり欲望だったのだろう。
けれどもその欲望に呑み込まれ操られてしまっている。
(欲望に呑み込まれてしまうならば、自我を失う事無く平和に生きていたい)
佳代子は、そう思っていた。
佳代子は遥か彼方、遠くを見詰めては懐かしむ眼差しで語り出す。
『夢や欲望を持つ事は良い事よ。生きる糧にもなる。
………けれどね繭子。貴女は、その欲望に呑み込まれないままでいて』
『は?』
『素のままの貴女は素敵だわ』
繭子は、佳代子の言葉が一ミリも理解出来なかった。
この女は何を語っているのだ。欲望に呑み込まれて
しまうとは一体、何なのだ。
(自分自身が満足しているから、そんな優雅な事を。
あたしは絶対に貴女みたいな人間には、なりたくないわ)
空っぽの読めない、何もない人間には。
繭子は欲望を求める情熱は、更に加熱して言った。
自分自身が欲し求めているものが、全て異母姉に
備わっている事には、まだ気付かなかった頃の話だ。




