第226話・天使から搾取するもの、悪魔の遠吠え
【警告】
言葉の表現の過激さ、刃物シーンがありますので
苦手な方、ご気分が悪くなる方は
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この戦いの末には、何が残るのだろう。
(……………遅過ぎる天罰が、下ったのね)
とぼとぼと歩きながら、繭子の行いを振り返った。
本来ならば視力を失いつつある母親に娘は寄り添うのだろうか。
しかし酷薄だと言われようとも、
繭子に対する感情は虚無で、天罰が下ったのだと思うだけだ。
粗雑に育てられてきた母親に対して感情が生まれないのだ。
不謹慎ながらも、
森本繭子、悪魔にとって当然の報いだと思っていた。
あれだけ無慈悲に悪事を重ねてきて、人々の首を締め上げてきたのだから。
不意に携帯端末の着信音が鳴った。
携帯端末を持って画面を見る。
知らない番号に少し引いてしまい
受け取るか迷ったが、通話をスライドした。
「はい」
『椎野理香さんのご携帯で間違いないでしょうか』
低くしゃがれた声。
その声音は何処か聞き覚えがあり、誰なのか薄々、気付く。
『JYUERU MORIMOTOの社長秘書・三条と申します』
「はい、“初めまして”」
父親に森本佳代子の不審死に関する記事を
書いて欲しいと口を出して起きながら、森本繭子側に寝返った、実父に裏切りを働いた男。
あまりに胡散臭くてあまり信用のない人物だ。
「用件はなんなのでしょうか」
酷く他人行儀。
父親を裏切った男に今更、用件はないのだが。
『あの、お手透きであれば
JYUERU MORIMOTO社長の御自宅に向かっては下さいませんか』
「_______何故です?」
JYUERU MORIMOTO社には出入り禁止、
森本繭子にも接触禁止命令が、悪魔により下されているのに。
「私はJYUERU MORIMOTOを去った身です。なのに」
『……社長のご命令です。伺っては頂けませんかね』
「……何故、無関係となった私が?」
「詳細は森本社長からお聞き下さいませ」
(今更、何の用か)
一方的に電話は切られた。
理香は一方的な言葉に少し口許を歪ませたが、
これを逆手に取れば良い機会なのではないか、と思い直す。
(あの人の”目のに関する事が”知れる機会だわ)
噂は、自分自身で直視すればよい。
悪魔なら、尚更。
森本邸を訪れると全ての鍵が開けられていた。
部屋は相変わらず、物が散らかっている。
リビングルームにゆっくりと足を運ぶと
リビングソファーベッドは女王の玉座の様に、座り込んでいた。
繭子の表情は平然としている。
娘が来たからという事もあり、その瞳は睨み据えていた。
繭子はその足音のリズムに娘が訪れたのだと認識したのだ。
「来たわね?」
「………お久しぶりです」
酷薄な他人行儀。
理香は淡い微笑みを浮かべている。
霧の視界の中で娘の輪郭が微笑しているのは理解出来た。
「用件はなんでしょうか?」
「まるで他人みたい。貴女は変わらないわね」
「______“変わる必要はありませんから”」
凛然とした表情を浮かべる理香に対して、
繭子は上目遣いに睨み付けた。
「あんたは、あたしの娘よね。
なら、親の願いを叶えるのは、子供の役目よね」
「………はて、何を仰られているのか…………」
天罰が下ったととしても、まだ悪魔は抗う。
「“他人の私”には、社長の願いは叶えられないでしょう」
「何ですって!?」
熱の籠った怒号の声音が、リビングルームに響いた。
その刹那。理香は察しが着いた。悪魔は何かを企んでいると。
「…………何を企んでいるのです?」
「企んでいる?人聞きが悪いわ、貴女はあたしの娘。
あたしの望んだ役目を果たすのよ!!」
(嗚呼、やっぱりそうか)
理香は、すっと感情が冷めていく。
自分自身の欲望の果たす為の、
娘の役目を果たす道具は自分自身にやってくる。
要望が混じらないと自分自身を呼び寄せる理由なんてない。
「______全てを元通りにするのよ」
目の前には鬼の形相。
固く掴まれた両肩から伝わるのは、業火の欲望。
(……………やはり、あの事は本当なのね)
理香は内心で悟る。
繭子の行動、医師から聞いた診断は現実のものだ。
現に睨み据えてはいるが、目線は全く合っていない。
もう目線は合う事はないのに、
眼は欲望の魂にギラギラと骨髄を伝う。
掴まれた肩はその鋭利な爪が食い込んでしまうのではないかと思う程に、が骨髄に凍みた。
「…………何をです?」
冷たい、酷く氷水の様な怜俐な言葉。
ぼんやりと微かに伺える、淡い雪結晶の様な微笑。
憤怒の業火が煮え滾り、繭子は離さぬまいと掴んでいたその華奢な天使の肩を強く掴んだ。
その強力に肩が少し軋み、天使はやや顔を歪めてしまう。
「………そもそも、貴女が壊したのよ?
母親の言う通りに生きていれば良かったの。
JYUERU MORIMOTOの社長令嬢として、博人と結婚して子供を産んで………。
今からでも遅くないわ、森本心菜に戻りなさい。
博人と結婚して、あたしに孫の顔を見せなさい。
あたしな計画通りに生きていれば間違いはないのだから。
目を醒ますのよ。
貴女は椎野理香じゃない、森本心菜。
椎野理香として生きていて虚しい、惨めだと思わないの!?
親の面子を立てる子供の務めというものでしょ?
貴女はそれを投げ棄てた、壊したの。罪深いわね。
この不良品娘!!」
その言葉を羽切りに、理香はぷつりと何かが切れた。
椎野理香として生きている事が虚しい?惨め?
なんという暴言だろうか。
椎野理香として生き、築き上げてきたモノを、
この悪魔の女は意図も簡単に否定し噛み砕くのだ。
「…………この期に及んでも貴女はいつも変わらない。
まあ、変わらないのでしょうけれど。
椎野理香が虚しくて惨めですって?
そうですか。勝手にそう思い込んでいたら良いわ。
森本心菜、貴女の操り人形が自我のない、哀れな人形だと思うわ。自我がないから、貴女から与えられるモノが侮辱だとも
知らずにのうのうと生きていたのよ。
アイデンティティーを知らず
自我のない操り人形だから、貴女の傍に居られる。
けれども私には御免よ。私が貴女の娘に成るなど無理だわ」
ドスの効いた腹の据わった声音は、
霧の視界で見えるのは厳冬に咲く花の存在、
しかしその纏う雰囲気は雪結晶がまるで氷の刺の如く鋭く熱がない。
冷気が放たれているのではないか。
現に彼女の身体は雪の様に冷たい、熱を奪われそうだ
と思った瞬間、繭子は肩から手を離し、後ろへ後退りした。
(……………自分自身の自我を狼の遠吠えの様に
吠えているのに震えているのは、何故?)
先程まで自分自身の肩にがっちりと掴んでいた手先、指先は小刻みに震えている。怯えた表情。
先程の威勢は何処に飛んだのか。
「それともまだ、何かが欲しいの?
佳代子叔母さんから奪い切れていないものがあるの?
子供は親の所有物ではないのよ。
貴女に人生を奪われ壊されると解ったからこそ、
私は“貴女と他人として生きる事“にしたの」
佳代子と言われて、繭子は血が昇り、
「他人ですって? そんな事言わせないわ。
あたしがどれだけ苦労して貴女を身籠ったというの!?
そんな親の努力を無駄にする様な事は聞き逃せないわ」
「…………努力ですって?
父親を選んでは捨て、娘から父親を取り上げ、父親から娘を取り上げた。
貴女が欲しがっていたのは子供じゃない。自分自身が自由に操れるお人形よ。
…………それがたまたま、子供だっただけ」
「貴女は解っていたと思っていたわ。
でも解っていなかったのね」
理香は諦めた声音で、呟くと話を続ける。
「貴女が奪って、私は奪われる。
現在は、私か奪って、貴女は奪われる側よ。
………災難だったわね、他人となった娘に、全てを奪われるなんて」
からからと乾いた嘲笑が、
軈て俯き、哀愁に満ちた自嘲に変わる。
それは自らを嘲笑し中傷するかの様に、
淡い狂喜に狂ったシンデレラの様の様だった。
物静かなシクラメンの花の様に美しく、自己主張する事もない儚い花。
「………私は貴女から全て奪われていたと思っていた。
でもまさか、父親すらも奪われていたなんて、ね。
私は父親を奪われ、あの人は娘を奪われた」
「人聞きの悪い。あたしは欲しかったものを手に入れただけよ。
あたしの邪魔をする奴がいるなら、容赦しないわ!!
佳代子は名声を、健吾はあたしの華々しい地位を奪おうとしたの。
皆、悪者よ。敵なの。
なのに、なんであんたはあたしの敵や邪魔者に、靡いて、懐くの!?
あんたはあたしの娘でしょ!? 子供は親を守るのが当たり前なのに………」
「…………」
理香は冷たい嘲笑いを浮かべる。
その冷たい声音は、怜俐な薔薇の刺の様に、
そしてその声は冷たい薔薇の蔦の様、自分自身の身にへばり付いていく。
「…………自分自身の欲するものだけ?」
ぎぃいん、と独特な音が耳に届き、繭子は身を震わせた。
視界が危うくなり始めてから研ぎ澄まされた聴覚。
音の聞き分け、感覚は鋭くなってきている。
ぼんやりと見える華奢な後ろ姿。
(この音は………)
「貴女の人間像は、焼いても煮ても治らそうね。
貴女が欲を抱く度に犠牲者が出る様に………」
理香はキッチンルームに行き、包丁を大理石に滑らせていた。
研ぎ澄まされた包丁の柄は予想以上に鋭い音を鳴らしながら
持ち主の華奢な手に馴染んでいる。
「この包丁、変わらないわね」
「………何よ」
「貴女の料理を作っていたのも私。
この包丁は毎日使っていたわ。大切に愛でて、包丁砥をしていたのも私なの。
貴女に料理を振る舞った事はあるけれど、貴女に振る舞われた事はない。
この包丁の様に、大切に、
一目でも視線を向けてくれれば、私は貴女の言う事を聞いたかも知れない。
けれども貴女は、目すら向けず罵倒してばかり。
貴女から貰ったものは何もないわ。
「知ってる?
言葉は刃物にもなるのよ。貴女の言葉は、心菜の心を削ったかしら?」
理香は愉しげに包丁を
裏表をひらひらさせ、見詰めながら愛し気に呟く。
思えば、自分自身は、この悪魔に奪われて、削られてばかりだ。
「貴女は、娘の心、関係するものを削る事で満足した」
人権、自尊心、実父、
子供が当たり前の様に与えられる無条件の愛情。
今更ながらに思う。佳代子に似ていても、似ていなくても、
娘は目をかけられず無慈悲に、粗雑、粗暴に育てられたのだと。
佳代子の存在なんて、偶然に過ぎなかったのではないか。
この悪魔の一番の邪魔者は、自分自身かも知れない。
きっとこの悪魔は、何があっても自分自身の懐を
満たす為ならば手段を選ばない。災難に遭ったとしても
欲望とは関係ないのだ。
例え、視力を失いつつある今でも。
「貴女は、悪魔よ。
まだ佳代子さんから、私から、全てを奪っても物足りないの?
それとも私からまだ奪うものがあるの?」
天使は静かに微笑した。
ご不快な思いをされた方、
心よりお詫び申し上げます。




