第216話・繰り返される輪廻
「繭子」
ふわりとした、穏やかな声音。
「繭子?」
悪魔は呻く。
まるで、その声は喉元を締め上げられる様なものだ。
苦痛の表情を面持ちに浮かばせながら、首を横に振り続ける。
この女の声は、ずっと忘れていた。
娘が異母姉に似ていく事だけを、ぴりぴりと
神経を尖らせては憎悪染みた感情に苛まれていた。
存在そのものも、その声音も、ずっと忘れていたのに。
それなのに。
(”アイツ”は、意図も簡単に、
全てを奪って、佳代子の姿だけを残して去った)
全部、娘のせいだ。
佳代子の亡霊。心菜された仕打ち。
その全てを掻き消すかの様な絶叫と共に繭子は飛び起きた。
肩で息をしながら、背中に冷や汗をかきながら、微かに震えている。
別荘の寝室にある、
クイーンサイズのベッドに繭子は眠っていた。
白石健吾と謎の青年が乱入して、心菜を連れ去って行ってから数日。
繭子はまだ“あの出来事”を現実とは思えず、受け入れられないでいた。
心菜の実父は、白石健吾。
自分自身が選んだ小野順一郎の娘ではないこと。
心菜と健吾が共謀し無情にも自分自身を奈落に突き落としたこと。
認めたくはない。
特に、心菜の父親の事は。
だが、その現実を受け入れる様になったのは、娘が発したあの言葉。
『__________私は、白石健吾の娘よ。
貴女がどれだけ否定しようとも、変えられない事実なの』
そう思う度に、
理香の、あの石英の如く冷たい言葉が突き刺さる。
存在さえ、育ててさえいない父親の味方に付き、
憎悪を孕みながらも生かし育ててやった母親を捨て、恩を仇で返すというのか。
健吾は、何も知らないのに。
暮らしてきた中で、繭子は順一郎の娘とばかり思って
“愛人の娘”、“妾の娘”と彼女に吹聴し、洗脳し、心菜はそう思い込んできた筈だ。
なのに理香は、
易々と実父の正体、白石健吾の存在を受け入れた。
『霧が晴れたの。私は妾の娘ではないと。
貴女のせいでそう思わされてきたけれど、私はあの人の娘で良かった』
怜俐な声音の中で、何処か晴れ晴れとした声音。
それは母親の計画をばっさりと切り捨てる様な、打ち砕くかの様だった。
それは小野順一郎の娘ではなく、寧ろ
白石健吾の健吾の娘である事が喜ばしいと言わんばかりに。
刹那。娘にまた憎悪が募る。
何処まで母親というものを踏みにじり、自分自身の計画を壊すのか。
(貴女は、母親を捨てるというの?
育てても、存在さえ知らなかった父親に懐いて)
去った者を追いかければ、追いかける程に
どんどん相手は遠退いていく。
娘は不思議な存在だ。
それすらも憎たらしい。
それに、心菜は自分自身の娘だ。
自分自身だけのもの。操るのも、服従させるのも。
娘の存在さえ知らなかった男に奪われるものか。
傍らに置いたペットボトルの水を飲み干すと、繭子は呟いた。
(棄てた男に、娘を取られて堪らない。
娘が母親に対して恩を仇で返す、その態度も気に入らないわ。
…………絶対に、あたしの元に戻してやる)
繭子は、娘を取り戻したいのではない。
異母姉に似た憎らしい娘は、傍に置いているだけで腹が立つが
佳代子への鬱憤を晴らす操り人形としては、これ程に相応しいものはなかろう。
後は____健吾への敵対心。
(奴は父親らしい事もしていないのに、図々しいわ)
白石健吾から連絡が入り
森本佳代子に関する記事を書く上で、
会って欲しい人がいる、と言われたのは数時間だ。
待ち合わせは、
いつも喫茶店、人目に付かない奥の席だ。
なだらかな午後昼過ぎ。揺らめく珈琲の水面を見詰めながら富男は腕を組み考えた。
森本佳代子は、
見たところ不慮の事故死というよりも、変死だった。
バイオリンニストになるという意欲を見せていた
若い女に、浮わついた話も何もない。
そもそも何も起こらなかったのに、
豪奢な食器棚が突然、倒れるなんて話は無理がないだろうか。
あの華奢な彼女に出来る事は限られていて、
自身の背丈よりも巨大な食器棚を倒す様に出来るとは思えない______。
「三条さん」
凜とした声音に、富男ははっとして我に返る。
視線を遣ると其処にはラフな格好の白石健吾がいた。
とても記者とは思えない出で立ちだが、
何処か気品がありその男前に整っている顔立ちは、
まるで西洋映画に現れそうな、ダンディーな男優の様だった。
「お久しぶりです。白石さん」
「そうですね」
「………それで、
私に会わせたいという人は何方ですか?」
「あのその事なのですが、事前に言わせて頂きます。
“とても驚かれると思いますが”、我々の力となってくれる女性です。
事情の詳細は後程、詳しく述べさせて頂きます」
健吾の言い回しに、何処か違和感を覚えた。
事情の詳細とは何か?
「_______椎野さん、此方です」
こつり、こつりとゆっくり歩み寄ってきた女性。
その現れた姿に、富男は言葉を失った。
優雅な雰囲気、
凛然とした顔立ちは目鼻立ちがくっきりとしていて
すらりとしたスタイルに雪の如く色白の肌、
暗めのハニーブラウンのストレートロングヘアには
天使の輪がある様に見え。とても似合っている。
だがそれは何処か、迷いのない蜂蜜の色の瞳やその美貌は物憂げを感じた。
しかし、富男が驚いたのはそれじゃない。
その優雅な雰囲気も、目鼻立ちも、姿も全て。
彼女は森本佳代子だった。森本佳代子が
生きて現れた様に思えて、殺到しそうになる。
「_______初めまして。椎野理香、と申します」
スーツ姿の彼女は、礼儀正しく頭を下げた。
富男は石膏の如く固まり言葉を失ったままである。
しかし刹那的に悟りを開く。
______“とても驚かれると思いますが”。
白石健吾の言い回しの違和感は、これだったのか。
森本佳代子に生き写しの如く似ている彼女。
けれども、驚くのはまだ早かった。
「驚かれたかと思います。すみません。
此方は椎野理香さん。
この方は、森本佳代子さんの姪にあたる方です。
そして。
_________彼女は、僕の娘です」
誠実さを滲ませながら健吾は、隣にいる女性の紹介した。
彼女は、森本佳代子の姪。そして____白石健吾の娘。
まさか白石健吾に娘が居て、その娘が、森本佳代子の姪だとは。
(どういうカラクリなのだろう)
突然にして
現れた彼女の存在に、富男は気絶しそうになった。




