第211話・償えぬ罪
「芳久」
「…………」
「助けてくれてありがとう。貴方も休んで、ね?」
そう穏やかな微笑を、芳久に向けて呟く理香。
理香が浮かべたその悟りや混乱のある複雑化した言葉に
芳久は、一人になりたいのだろう、と思い付いた。
「そうか、何かあったら言ってよ?」
「…………ありがとう。でも大丈夫」
処置室のベッドは全て空席で、理香だけだった。
青年が去った後、静まったこの部屋は何処か殺風景で、自分自身、世界に一人だけ取り残された様な感覚を覚える。
理香の心情は、複雑化し渦を巻いている。
今まで繭子は、
人を傷付ける事しか出来ないとばかり思っていた。
現に繭子の欲望の為に傷付いた人間は数知れず。
自分自身は絶対にそうならないと、
椎野理香となってから自然と心の腹を括っていた。
しかし。そうは出来なかったみたいだ。
蜂蜜色の瞳からは、静かに雫が頬に伝った。
(………蛙の子は、蛙………)
どんなに認めたくなくとも、現実はそうなのだ。
彼女の憎む異父姉の容姿を持ち合わせながら森本繭子の娘として生を承った。
例え生き別れた親子であり互いの存在を知らずとも、
母親は彼を傷付けた上で捨てられた。
利害関係が一致していたとは言え、そうとも知らず
自分自身の復讐に、彼を利用していた。
形は違えど、一人の男性を傷付け、利用した事実は、身近も何も変わらない。
(私も同じ、仕打ちをしていた)
冷酷非道で、辛辣な酷い仕打ちを、
やはり母親から逃げられなかったのだ。
(……………あの人に対して、私はどう償えばいいだろう)
この酷い、言い訳のしようのない罪を。
繭子と自分自身の存在さえ無ければきっと、傷付く事もなかっただろうに。
自分自身と繭子が、純粋無垢だ
彼に対して詫び、この酷い罪を償えばいいのか。
そして、
白石健吾は、何を望んでいるのか。
この自分自身を貶めた母娘に、どんな罪を望んでいるのだろうか。
いずれにせよ、森本繭子にも、椎野理香にも、良い感情なんて抱いていない。
それが当たり前だろう。
(娘と知ってから、私の事なんか、憎しみしか無かった筈だ)
その複雑化した感情だけが
理香の中で心の中で錯綜している。
芳久は立ち上がり処置室を後にすると、
飲み物でもと思いながら、院内のロビー外の壁に隠れ
スーツの胸ポケットに閉まっていた携帯端末の電源を入れた。
着信はない。
けれども、森本繭子と攻防戦を繰り広げている健吾が気になった。
娘の存在を知り、身体を張って、元恋人___娘の母親に立ち向かったあの男。
今も森本繭子の所に居るのか、それとも離脱出来たのか。
携帯端末の電話帳を開き、白石健吾へ連絡を持ちかける。
暫く続いた無機質なコールの後で、
綺麗に澄んだソプラノの様な低い声が耳元に届いた。
『はい』
「高城芳久です。お疲れ様です。
白石さんがどうされているか気になりまして」
嗚呼、と言った後に
『高城君、理香は……………』
凛とした声音の中には、心配そうな声音が入り交じっている。
(嗚呼、この人の頭には娘しか眼中に無いのだ)
理香は首に自傷を負った。
椎野理香が、
血を分けた娘と知った今、白石健吾は父性愛に目覚め
きっと一人娘が心配で堪らないのだろう。
「大丈夫です。命に別状はないと。
切り傷だけでしたので自然治療で傷口が塞がるまで
待つ形となりますが……。
先程まで麻酔で眠っていましたが、
今は意識も取り戻し意識もはっきりとして
会話も出来ています。……安心して下さい」
『そうか……』
健吾は、安堵の溜め息を着いた。
繭子のせいで娘が死を選んでしまった、と解釈している健吾にとって娘の生死が何よりもの気掛かりだった。
『君には幾ら感謝してもし足りない。本当にありがとう』
「………いえ、そのお言葉には及びません。それより白石さんは大丈夫でしょうか」
『此方も大丈夫だ。
ただ夜中の静観な住宅街と、土地柄というものに手を子招いてしまってな………』
そう話す健吾の背後、
電話の向こうからは、独特の冬の風の音が聞こえた。
静観な住宅街ながらも自然の音が聞こえ、
彼は外にいるのだろうと思い心配になる。なんせ、季節は厳冬だ。
恐らくは庭にいるのか。
会話を交えながら、庭の池の水面を見詰める。
「あの、差し出がましい様ですが、僕がそちらまで
お迎えに行っても宜しいでしょうか」
『………そんなの悪い。気にしないでおくれ』
「………いえ、させて下さい。白石さんの身元が危うくなると、悲しむのは誰だと思います?」
『…………』
「…………言わなくても分かる筈です」
その刹那、
健吾の脳裏には、娘の柔らかな表情が浮かんだ。
父親として何も出来なかった。けれども娘の為に
まだ生きていても良いのだろうか。
会話を交えながら、庭の池の水面を見詰める。
反射した水面には、居心地悪そうな、
複雑化した記者の表情を反射している。
急に父親面をして
椎野理香は何を思うのだろう。
だが、
繭子を野放しにはしていられない。
(まだ私に、娘の為に出来る事があるならば………)
娘の為にする事はまだまだある。
繭子から一人娘を守らなければならないのだ。何としても。
健吾は、芳久の言葉を承諾した。




